第37話 安東克己対アグリキャップ
安東克己はアグリキャップからの降板を決めた。
それは、思った以上に苦渋の決断だった。
傍から見れば贅沢な悩みなのだろう。
東海公営で最も強い馬と二番目に強い馬の騎乗依頼を受けており、安東克己が選んだ方に乗ることができるのだ。
また、どちらの馬の馬主も調教師も、一度選ばなかったからと言って以降ずっと乗せないと言っている訳では無い。
贅沢以外の何者でもない。
結果、フェートローガンを選び、アグリキャップは断った。
フェートローガンを選んだ理由は挙げようと思えば幾つも有る。
これからも笠松所属の馬として走り続けること。
ようやくこの秋になり充実した調教ができるようになり、ただでさえ強いのに更に本格化しそうなこと。
管理している調教師が恩師の喜田調教師であること。
だが、安東克己がフェートローガンを選んだ決め手となったのは、フェートローガンも安東克己も、中央への道が閉ざされた者同士だったからだった。
安東克己が笠松競馬の騎手となった経緯は以前触れた。
中学卒業前から
その流れでNRA(地方競馬全国協会)の騎手・調教師・厩務員の養成校である栃木県の地方競馬教養センターに入所し、1年半の研修後に笠松競馬喜田厩舎所属の騎手としてデビューした。
デビューした直後は1回騎乗すると騎乗手当の数千円が入って来ることが嬉しかった。勝てば数万円の進上金も入る。調教に乗っても僅かながら調教手当も出る。
養成学校を卒業したての17歳にとっては大金で、馬に乗れば乗るほど、勝てば勝つほど稼げる騎手というものが楽しくて仕方なかった。
その当時は馬に乗れること、乗れば稼げることに夢中で、競馬の世界が地方競馬と中央競馬に分かれており、その両者の間、そして地方競馬の主催団体同士の間にも厳然たる断絶が横たわっていることなど知らなかった。
安東克己が笠松のリーディングジョッキーを何度か続けて獲得した頃、自分の騎手としての力量は他の競馬場の騎手たちに比べてどの程度のものなのか、と思うようになった。
若くして笠松競馬のトップジョッキーとなった故の、純粋な好奇心と向上心から来る当然の想いであった。
名古屋競馬には
また昔は地方競馬同士の交流戦は全く無かったため、自然と中央競馬との間で行われる騎手交流競走や交流招待競走に関心が向いた。
1980年に阪神競馬場で行われた「地方競馬騎手招待特別800万下」で中央競馬初騎乗を果たした安東はヤマニンスキーで初優勝。ヤマニンスキーの管理調教師に「中央競馬にスカウトしたい」と言わしめた。
安東にとっては自信となったが、同時に阪神競馬場の設備、コースの立派さや、800万下クラスのレースであっても笠松の重賞並みの進上金が入る経済的な潤沢さに衝撃を受けた。やっていることは同じ競馬。騎手としての腕も通用する。
だが、笠松と中央のこの格差は何なのか。
その後も安東克己は笠松で勝ち続け、中央競馬との交流戦にも機会があれば積極的に参加した。
たが、徐々に物足りなくなっていった。
中央競馬のトップジョッキーたちは上手く、そして華やかな舞台で騎乗でき、賞賛される。報酬も桁が違う。
翻って己はどうか。
うぬぼれかも知れないが、中央の中堅騎手以上の腕はあると何度かの中央騎乗で感じている。だが東海公営で勝ち続けても、東海公営の競馬ファンの間で信頼されはするが世間的には中央の騎手たちと同等の知名度も報酬も無い。
華やかな中央に自分も行きたい。そう思うのは自然な流れだったが、年1,2回程度しか自分はその舞台に上がることが出来ないのだ。
笠松で騎手になることを志した自分に対する後悔が無いと言えば噓になる。
だが、自分の生活範囲以外のことを知る術を持たなかった中学生の安東克己を責めても今の安東克己の状況が変わる訳では無い。
中央競馬の騎手になるには、中央競馬の競馬学校を再度受験し、3年間の養成課程を経ねばならない。
だが、安東克己は勉強嫌いであり、今更受験勉強や入学後の法令などの学科の勉強をすることを考えただけでも頭が痛くなる。
そしてそもそも、20歳未満の者でないと受験できないという年齢制限の年を安東克己はとうに過ぎていた。
安東克己は、中央競馬に拒絶されている。
そしてフェートローガンも、蹄が弱いという理由はあったものの、己が輝ける舞台であるダート競争の少なさによって中央競馬からはじき出された馬だった。
互いに
ならせめて
そうした思いが、安東克己にフェートローガンを選ばせた。
アグリキャップは――安東克己にとってアグリキャップは、安東克己の中央競馬への憧れを現実に夢見させてくれる馬だった。
華やかな中央の舞台、それもGⅢオールカマーを、GⅠ馬2頭を向こうに回して勝ち切ってくれた。
その騎乗を中央のトップジョッキーの
更に今月末には国際GⅠの舞台に連れて行ってくれるという。
だが、安東は夢ではなく
安東の
そして
だから、安東は東海菊花賞以降のアグリキャップの騎乗も断った。
そして、調教でも、今日のレースの前のパドックでも、安東は意識的にアグリキャップの姿をなるべく目に入れないように避けていた。
見れば、諦めたはずの夢への焦がれるような愛着が溢れてしまう。
捨てた女に未練残しとるんと一緒や。情けない。
それだけはしちゃいかんことや、男の意地や。やせ我慢でも貫かないかん。
そうして今現在、東海菊花賞のレースにフェートローガンと共に挑んでいる。
このレースは己の未練を断ち切るためにも、負ける訳にはいかない。
前走のオパール特別で試した追い込みは、フェートローガンにピタリと合っていた。
直線で右にささることもなく、溜めに溜めた末脚は乗っている安東克己に他の馬の走りをスローモーションに感じさせるほどのものだった。
アグリキャップに比べ乗り味はゴツゴツとしているフェートローガン。
だが、中京競馬場の長い直線を全力で走るフェートローガンは、安東克己の感覚からすると宙に浮いているようで、浮いた馬体をフェートローガンが蹄で砂をゴッ、ゴッ、と一定のリズムで蹴る度に滑って前に加速していく、そうした感覚であった。
アグリキャップの走りとは全く違う。
アグリキャップは全身の筋肉が柔らかく、乗っていてもバネが効いたシートの車のようにスピードを感じさせない。
だが、首を上下に激しく振ってリズムを取りながら、騎手の目線から見ると前傾した低い姿勢で力強く前脚で地面を掻きこむように走る。
まるで地面を掘って潜っていくつもりなのではないかと感じさせるのだ。
走りに優劣があるわけではない。
ただ、今の安東は現実に足を付けているのに、滑空する走りを感じさせる馬に騎乗しているというだけだ。
それは、現実を選んだ安東をフェートローガンが慰めているように安東は感じた。
おそらく今日アグリキャップに騎乗している河原章一は、アグリキャップを先行させ、好位抜け出しを狙って来る。
フェートローガンの追い込みについては、前走で初めて披露したものの、東海公営の厩舎関係者や騎手の間で噂になっているのは安東克己の耳にも届いている。
河原も当然知っているはずで、実力のある逃げ馬ヒロノファイターを捉えつつもフェートローガンの末脚から逃げ切る、そうした狙いの位置取りをしてくるはずだった。
アグリキャップの全力の末脚は長く力強く伸びる。
だが、フェートローガンの溜めた末脚は切れて更に伸びていく。
安東克己はそう信じている。
だが、レース開始後最初のバックストレートでアグリキャップはかかってしまい、鞍上を任された河原は強く手綱を引いて止め、アグリキャップの行く気を損ねた。
最大の敵が自滅した。
あの状態から立て直して勝ち負けに絡んでくる馬はまずいない。
普通なら喜ぶべきことだったが、安東が感じたのは怒りだった。
河原のヤツ、ヘタな乗り方しよって!
確かにレースん時のキャップは闘志が前に出るが、普通になだめりゃ乗り手の言うこと聞く頭の良さと素直さ、あるんや。
変な気負いで、手綱の操作強くし過ぎよったな!
クソッ、俺やったらそんなヘタ打たんと上手く折り合っとったのに!
安東は、河原に対して心の中で責めた。
せっかくの勝負に水を差された気分だった。
案の定、アグリキャップは以降ズルズルと順位を下げ続ける。
走る気を損ねた馬の闘志をレース中に
河原の手綱さばきも長手綱をぶらぶらとさせ、そうした努力をしているようには見えなかった。
安東克己は深く失望したが、それも一瞬のこと。
自らの気持ちが手綱を通してフェートローガンに伝わらないように、すぐに気持ちを切り替える。
最大の敵が消えたっちゅうことは、フェートローガンの勝ちは決まったも同然。
傍から見てるモンはそう思っとるやろな。
だが、レースは何が起こるか判らんモンや。
最後方から前を伺いつつ安東は気を引き締める。
フェートローガンは力を抜きつつ前の4番手集団から2馬身程離れた最後方で追走している。
先頭を走るヒロノファイターとは15馬身程差がある縦長の展開だ。
ヒロノファイターはかかったアグリキャップに競り掛けられたことでスピードが上っている。先頭との差は更に開きそうだったが、まだ焦る必要はない。
通常より前が速い。
終いの勝負になるはず。フェートローガンにとっては願ってもない。
最後の800で徐々に前に出て行き、直線で一気に突き抜ける。
動き出すのは2周目の第2コーナー辺り。
2周目のスタンド前ホームストレート。
いつの間にか目の前の4番手集団の最内に、アグリキャップは沈んでいる。
アグリキャップの鞍上の河原も一向にアグリキャップに指示する動きはなく、ただ他の馬に合わせて一緒に走っているように見えた。
河原のヤツ、キャップの機嫌損ねてもうレース諦めとるんかいや。
せめて着順上げたらんと、調教師にも馬主にも顔向けできんやろ。
安東は前を走るアグリキャップ鞍上の河原の背中を見ていると、また怒りがぶり返しそうになる。
第1コーナーに入る。
フェートローガンの前を走る7番コクサイヒューマが、アグリキャップが内に寄った僅かな隙間を見つけて入る。
安東はアグリキャップが内に寄る動きを見せた時、違和感を感じた。
何や、ヨレた訳でもない。わざと7番入れるような動き方やった。
おかげで前3頭並んだ形になって、前に行くには外回さなあかん。
まさか河原、死んだふりしとるんか?
あれだけ掛かって鞍上とケンカした馬がまともにレース続けられる訳はないが、或いはキャップやったらあり得るか……?
どっちにしろ、そろそろ予定通り上がっていく。
抜く時の表情でわかるやろ。
安東はフェートローガンに手綱で合図を送り、少しスピードを上げ前の4番手集団の外に持ち出す。
4番手集団3頭の最も外、8番ノーダメージの外に馬体を併せるようにゆったりと、だが確実に速度を上げて前に出て行くフェートローガン。
ノーダメージよりもフェートローガンが半馬身ほど前に出た時に、安東克己は最内のアグリキャップと河原を見た。
アグリキャップはコーナー出口を真っ直ぐ睨みながら首でリズムを取り走っている。
河原は、アグリキャップの首の動きに視線をやりながら、右片ハミで手綱を操り左側の手綱はぶらんとしているように周囲に見せていた。
河原、味な真似しよる。
まだキャップは終わってねえわ!
だが、前半あれだけ派手にケンカした影響は絶対あるはずや。
有利なのはこっちや!
安東克己は気づかなかった。
自分の表情がいつの間にか笑みを形作っていることを。
レースは残り800mを切っている。
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