第36話 折り合い
スタンドでアグリキャップと河原章一を見つめる久須美調教師は、また太い溜息を洩らした。
第2コーナーから出たバックストレートでアグリキャップがかかったのはすぐにわかった。
河原章一が完全に馬とケンカする形になって減速したのも。
追い切り、単走でやるべきやなかったか……
しっかり並走で追い切って、河原にアグリキャップが他馬と並んだ時の闘争心を知っておいてもらった方が良かったか。
おそらく河原も気合いが入り過ぎて、手綱の操作にいつも以上の力が入ってしもうたんやろな。
だが、これまで走った最長の距離はオールカマーの2200m。僅か200mの距離延長とは言え、2400mを走る感覚を繰り返し調教でアグリキャップに覚えさせるためには単走で目標タイムを決めて走らせるほうが良い、と判断したのは久須美本人だ。
阿栗さんがもしも騎乗ミスやと言って河原を責めるようやったら、ワシが頭下げて許してもらうしかないな……
そんなことを考えていた久須美調教師だったが、河原のその後の覇気の無さには怒りが湧いた。
まだレース中やぞ。
章一、前にワシャ言ったやろ。
克己とお前の違いは性格。克己はレース中にアクシデントがあっても「こんなこともある」ちゅう割り切りが出来るって。
確かにそんな割り切り、お前にゃ無い。
けど、だからって最初のアクシデントでプラン崩れたら後はショックで流して終りって、そりゃこれでメシ食っとるモンとしてはアカンやろ。
気づけ、章一、キャップはまだ走っとるんや!
レースはスタンド前のホームストレートを過ぎ、2回目の第1コーナーに掛かろうとしている。
アグリキャップは4番手集団の10番ハッピーグラス8番ノーダメージの内に位置しているが、騎乗している河原章一の手綱はぶらぶらとしていて、アグリキャップに指示を送っているようには見えなかった。
4番手集団の中でも、8番ハッピーグラスは少しづつ前に出ていく足を残しており、ノーダメージとアグリキャップを引き離していく。
勝つ気があるのならそろそろ動き出してもいい頃合いだが、河原章一の手綱は動かず長手綱のまま。
だが、久須美は違和感を感じた。
もう一度双眼鏡を覗き、第1コーナーから2コーナーへ向かうアグリキャップと河原章一の動きを見る。
右と左と、手綱の緩み加減が違う? もしや……
榊原直子たちの前を馬群が通り過ぎる。
1度目は2番手集団の先頭に位置していたアグリキャップだったが、今は順位を大分下げ、もうアグリキャップの後ろには2頭しかいない位置。
「アカン、もう走る気無くしとるみたいや、アグリキャップ。むこう正面では3番手集団の位置やったのに、もう後ろから数えた方が早いくらいの位置まで下がっとる」
田口がぼそりと呟く。
「東海最強を決めるレースが、テン乗り(その馬に初騎乗すること)の河原が御せなかったことでこんなことになってしまうとは、何てこった」
賀張が大袈裟に天を仰ぐ。
「仕方ないわよ、安東克己は2人いないもの。どうしたって乗り替わりはあるんだから」
富士田彩が、噛みしめるように言う。
彩先輩、お爺様の馬でも安東さんに乗ってもらえなくなったのかな。
榊原直子はそう思ったが、声には出さない。意識したためか心の声が漏れ出ることはなかったようで、彩は反応しない。
アグリキャップちゃん、本当に田口さんが言ってるみたいに走る気なくなっちゃったんだろうか。
でも、あの真っ黒いつぶらな目、まだ諦めてない気がするんだけどなあ。
直子は数十m先をさっき通り過ぎて行ったアグリキャップの目の光がまだ消えていない、と思った。
全力ではないとは言え、数十キロのスピードで走る競走馬の目がスタンド最前列から見える訳はないと直子自身も思うのだが、何故だか光が宿り真っ直ぐ前を見つめる黒い目が見えた気がしたのだ。
思い込みなのかも知れないけど、でも、アグリキャップちゃん、まだ諦めてないよきっと。
「ああ、満を持して上がっていくで、フェートローガン」
「前走の6頭立ては純粋に追い込みの直線勝負で勝ったが、11頭立てのこのレースは捲っていくつもりなんだろう」
田口と賀張の声に直子が第2コーナーを曲がっていく馬列の最後方に目をやると、騎手も馬も黒い馬が徐々に前に出て行き、アグリキャップらの集団の外に付きながらコーナーを曲がっている。
バックストレートに出るとその黒い馬は4番手集団を抜き去り、更に前の3番手集団に取りついていく。
アグリキャップはコーナーの間は動きが無かったが、その黒い馬がアグリキャップらの集団を抜き去った時、少しづつだが前に出ようとしていた。
そうだよ、諦めちゃだめだよ、アグリキャップちゃん。
――2番アグリキャップ、ズルズルと下がって行きます。
――先頭は代わらず11番ヒロノファイター、2番手との差は7馬身。2番手は内3番ヤマニンシェイバー4番リッチーファットマン、後ろ1番トクマノナードと9番ウオローピジョンが並んでいる、5番アグリキャップはその外、やや遅れ気味か。
特別観覧席の阿栗孝市は、追川アナウンサーの実況を聞きながら、ズルズルと下がりながらも第4コーナーを抜けホームストレートに入って来る愛馬の姿を目で追う。
「あなたのお馬さん、どこか痛めちゃったの?」
隣の妻がモニターを見ながら心配そうに阿栗に聞く。
「いや、わからん……」
怪我の可能性も無い訳では無いが、重大な怪我なら流石に鞍上の河原章一が外に寄せて止めるだろう。
最初のバックストレートでアグリキャップの行く気を無理に抑えたことで馬が走る気を無くしたということだろう。
アグリキャップはスタンド前のホームストレートに入って4番手集団に吸収されつつある。
出遅れを取り戻そうとしている6番ニューウイードが4番手集団を引っ張っており、3番手集団に追いつこうとして速度を上げ、アグリキャップに外から並びかけ、前に出て行く。それに続く10番ハッピーグラス、8番ノーダメージもアグリキャップの外に並びかけた。
ここで2度目の第1コーナーに入って行き、4番手集団の最内に居た7番コクサイヒューマがアグリキャップを内からつつくような形となり、アグリキャップの後退はようやくそこで終り、コーナーを4番手集団と足並みを揃えるように走っている。
その後ろには2番フェートローガンが最後方を余裕で追走している。
事前に久須美さんから聞いとった作戦とは全く違う形になっとる。
河原くん、前半の、あのデカいミスで、その後はもう何もできんのか?
キャップはあの前半のかかりで、脚使い果たしてしもうたんか?
阿栗はアグリキャップのレースをこれまで全て観戦して来たが、これほどまでに無力感を感じたレースは無かった。
明らかな騎乗ミスというのは、思えば殆ど目にしていなかった。
やっぱり安東くん、上手かったんやな……
「ねえ、あんな後ろまで下がっちゃったけど、あなたのお馬さん本当に大丈夫なの?」
阿栗の妻が、本気でアグリキャップのことを心配しているのか、普段阿栗が聞いたことがない震えた声色で訊ねる。
「怪我はしとらんはずやけど……」
「それはどうしてわかるの?」
「もうレースが出来んくらいの大怪我やったら、乗ってる騎手の河原くんが大外に寄せて止めとるはずやから……」
「そう……ならきっと、ああいう乗り方ってことなんでしょうね、そうよね」
阿栗の妻は、自分に言い聞かせるようにそう言う。まだ少し動揺が声に残っている。
その声を聞いて阿栗は自分も空元気を出して妻を安心させた。
「おう、大丈夫や。河原くん、笠松でも3本の指に入るええ騎手なんやから。きちっとキャップを導いてくれるはずや、安心せえ」
そう言ったあと阿栗は心の中で祈った。
頼む、河原くん、心折れとらんでくれ。
河原章一は、あろうことかレース中にアグリキャップに乗りながら一瞬、ほんの一瞬自分のしたミスへの後悔で頭が一杯になり、全く周囲の状況などを覚えていなかった。
我に返るともう第3コーナーの手前に来ている。
ヒロノファイターはアグリキャップに競り掛けられたことで速度をやや上げて第3コーナーに進入しており、アグリキャップは4番リッチーファットマン、3番ヤマニンシェイバーの後ろを1番トクマノナード、9番ウオローピジョンと並び外をやや遅れ気味で追走している。
あれだけ俺とケンカしたのに、まだ走る闘志があるのか。
河原章一はアグリキャップの、レースでの剥き出しの闘志に驚愕した。
普通の馬ならば、もうとっくに走る気を無くしている。
とはいっても、一瞬だが全力に近い脚を出してしまった。
いつものような長い追い脚は使えないだろう。
取り返しのつかないミスをしてしまった。
だが、
河原章一は、ぶらぶらしていた手綱を細心の注意を払って少しだけ張る。
アグリキャップは、待っていたかのように前に出て行こうとする。
一度はケンカした俺の指示を、
河原は不安だったが、久須美調教師の言っていたことが頭の中で蘇る。
『克己の奴はええ意味で結果オーライなとこある……克己はしゃーないって割り切れるんや……そんなこともあるし、自分のせいやないし、みたいな……結果1着取れんでもそれなりの順位に持って来れる訳や……』
まさに今の俺に足りていない部分だ。
そうだ、俺には克己のクソ度胸は無い。
だが、ここでキャップに何もしてやらなきゃ、俺はただ58kgの重りとして乗っているだけになってしまう。
すまない、キャップ、お前の闘志に反するかも知れんが、これが俺の考える勝つための方法なんだ!
河原は、アグリキャップの手綱を僅かにまた緩める。
アグリキャップはハミを自らもう一度取ろうと抗う。
それでも河原は慎重に、辛抱強く手綱を緩める。
尚も行きたがったアグリキャップだったが、諦めたのかブハアッと息を入れ、徐々にスピードを落としていき、3番手集団から遅れていく。
そうだ、キャップ、ここで思い切り息を入れろ。
今はどれだけ抜かれてもいい、とにかく最後の脚だけは残しておくんだ。
今、最後方に控えるフェートローガン。
流石に
必ず直線までに前に出ていくはずだ。
その姿を見れば、もう一度お前の闘志に最大の火が着く。
その時こそ、お前を全力で走らせてやるからな。
河原章一はそう考えながら手綱をゆっくりと緩めていく。
はた目には馬を操る気が無いのかというくらいに。
アグリキャップは手綱越しに河原のそうした意思を汲んだかのように、4番手集団に吸収される位置まで下がる。
上下に揺れるアグリキャップの頭部を見ていると耳を立てている。
完全に力が抜けた走りをしている証拠だ。
だが、河原はアグリキャップに手綱を通して ❝勝つためにしょーがなく折り合ってやるよ❞ と言われている気がした。
2周目のホームストレートを4番手集団の最も内で追走する。
後ろにいた7番コクサイヒューマを、少し内に寄って外を開けて入れてやる。
最後方のフェートローガンが上って来る時に、少しでも前を壁にして外を回らせるために。
こっちは内を縫うように開いたところを上がっていくしかない。
豪快に外を回せる程の余力は、おそらくアグリキャップには残っていない。それだけ前半かからせてしまったハンデは大きい。
第一コーナーにかかる。
おそらくコーナーの間は、まだフェートローガンは上がって来ないだろうと河原は思っていた。
第一コーナーから第二コーナーに入り、ゆっくり右に回りつつバックストレートでのコース取りを意識しはじめたその時、河原の視界の左端、大外に黒い馬がぬうっと上がっていくのを感じる。
河原が横目でちらっと見ると、安東のフェートローガンがコクセイヒューマの外、ノーダメージを交わして上がって来つつある。
アグリキャップは右手前で走っており顔も右を向いているため、まだフェートローガンと安東克己が上って来ているのに気づいてはおらず、ゆったり小回りで第二コーナーを走っている。
バックストレートを向いたら、アグリキャップの視界にフェートローガンと安東克己の姿が入る。
そこで一気に行かせる訳には、まだいかない。
慎重に、手綱を操らなければ。
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