第35話 前目につける




 河原章一は、ゲートに入る直前にアグリキャップが立ち止まり、首を伸ばして身震いするのをこれまで他の馬の上から何度も見て来た。


 馬は人間の3歳児くらいの知能があるという。自分が3歳の頃の記憶は朧気だが、消防車を見ると何故だか怖くて泣きそうになっていた思い出がある。

 アグリキャップの身震いも、河原のそうした記憶のように、ゲートを近くで見ると反応してしまう癖なのだろう、そう思っていた。


 スターターのゲート入りの合図を待つ間、出走馬はぐるぐるとゲート後方を輪乗りして待つ。

 河原章一は輪乗りしている間、アグリキャップがある馬をじっと見る仕草をしていることに気づいた。

 アグリキャップが見ていると思しき相手はフェートローガンと安東克己だった。

 馬が特定の馬を気にすることはままある。

 だが、フェートローガンとアグリキャップは笠松競馬場での調教時間が被り姿を見かけたことはあるくらいのもので、併走したことがあるとか、直接関わったことは無いはずだった。

 となると安東克己を見ているのか。

 己が13回背に乗せてレースを走った騎手のことを覚えているのだろうか。

 だとしたらこの馬アグリキャップは本当に頭がいい。そう思うとともに河原章一の安東克己に対するコンプレックスも疼く。

 安東克己はそうしたアグリキャップとは対照的に目線を落とし、アグリキャップと河原章一の方を見るのを避けているようだった。


 スターターが合図し、アグリキャップのゲート入りの順番が来た時、河原を背にアグリキャップは素直に自分が入る枠に向かい歩を進めた。

 そしてゲート前でピタリ立ち止まると、首を真っ直ぐ前に伸ばしたまま左右に鋭く回転させる。

 

 奇妙な癖だ、と河原は思った。

 いつもの動作を終わらせるとアグリキャップはそのままゲートにすんなりと入る。


 河原はゲートに入った後、4頭隣の2番、フェートローガン鞍上の安東克己をちらりと横目で見る。


 黒の帽子と勝負服を着用した安東は、こちらを気にする様子は全く無く、着用したゴーグル越しの目は自分の跨るフェートローガンの首に注がれているように見えた。


 あれだけの勝利を一緒に挙げて来た元相棒アグリキャップは、もう相手にすらならないと、見限ったのだと割り切っているのか。

 なら、お前が見限った相棒を駆って、俺がお前に勝つ。

 勝って、お前だけが笠松を代表する騎手じゃないってことを、この観客の前で証明して見せる。


 河原がそう考えていると、跨っているアグリキャップの体温がゲート入りする前に比べて僅かだが上がってきているように感じる。


 お前も俺と同じ気持ちなのか、アグリキャップ。

 なら、一緒にあっと言わせてやろうじゃないか。


 河原は自分の闘志が高まるのを感じた。


 枠入り順が最後の10番のハッピーグラスがゲートに収まる。


 カッパッ


 ゲートが開いた。









――おっと6番ニューウィードやや出遅れか、最後方からのレースとなります。

――大外からグングン足を伸ばしていくのは11番ヒロノファイター、鞍上の戸部今日も果敢にハナを奪いに行きます。


 追川アナウンサーの実況と共に、モニターには引きの映像でレース映像が流れる。


「ねえ、どっちを見たらいいの?」


 阿栗孝市の妻は、特別観覧席から見下ろす名古屋競馬場のトラックと、特別観覧席のモニターと、両方をキョロキョロしながら言う。


「馬の様子を見たいならモニターの方がええかも知れんが、レースの全体を見渡すには直接見た方がわかりやすいな」


 阿栗孝市は妻の問いにそう答え、自身は中継音声を聞きつつ、眼下のトラックを見つめる。


――二番手争いは一団となった団子状態。4番リッチーファットマン、その内3番ヤマニンシェイバー、その内ただ一頭牝馬の1番トクマノナード。

――外を見ますと5番、人気のアグリキャップ今日は前につけます。

――7番コクサイヒューマ、10番ハッピーグラス、9番ウオローピジョン、8番ノーダメージ。

――一番人気フェートローガン安東克己、今日も後方からのレース。前走の豪脚を再現するのかゆったり追走。

――最後方6番ニューウィードとなっております。


 追川アナが全馬の名前を読み上げる中、阿栗は4角ポケットから発走した黄色の帽子と勝負服が、グングンと眼下のホームストレートを前に出て行く様子を見守る。


 今日は前目でレースを運ぼうっちゅうことなんやろうけど、2400mの長丁場でこんな前に出てって大丈夫なんやろか。


 ここ数戦は中団待機が多かったアグリキャップのレースぶりから少し心配になる。


――さあ間もなく第1コーナー。2400mのこのレース、一周1100mのトラックを2周の長丁場。コーナーワークが大事です。

――先頭は快調に飛ばすヒロノファイター、後ろとはおよそ5馬身差。2番手は集団、内からヤマニンシェイバー、リッチーファットマン、外アグリキャップ。鞍上河原、今日は積極的に前につけています。

――1馬身程空けて、1番トクマノナード、9番ウオローピジョン、出遅れから上がって来た6番ニューウイードらがひと固まりで3番手集団。第2コーナーを抜けバックストレートへ。


 オールカマーにも出走していたヒロノファイターは名古屋一の逃げ馬で、オールカマーでは惨敗となったが、オールカマー後の名古屋復帰戦、一度はアグリキャップも参戦を検討した10月12日の重賞ゴールド争覇を勝利して東海菊花賞に乗り込んできている。

 そのテンのスピードに付いて行くというのはどうなのか。

 ヒロノファイターに楽に逃げさせないというのはわかるが、敵はヒロノファイターだけではない。


 バックストレートをヒロノファイターが逃げる。

 アグリキャップはそのヒロノファイターに競りかけていく。


――先頭ヒロノファイターにアグリキャップが並びに行く! まだレースは1500mも残っている! これはどうしたことか!


 まさか、掛かってもうたんやないか。

 キャップがバックストレートのハロン棒見て、もうゴールだと勘違いしとるんやないか。


 鞍上の河原は、手綱を引いてアグリキャップを抑えようとしている。


 あかん、ケンカしとる……








 榊原直子たちが陣取るスタンドからバックストレートは遠い。だが先頭を走るピンクの帽子の馬に黄色い帽子の馬が競りかけていくのは見えた。

 黄色の帽子はアグリキャップだ。まるでバックストレートがゴール前だと言わんばかりにピンクの帽子ヒロノファイターに並びかけようと加速していく。


「行けー、抜いちゃえ!」


 榊原直子はつい興奮し、飛び上がって声援を送る。

 飛び上がった拍子に左手に持ったどて煮が少しこぼれてしまうが、幸い左手を少し汚しただけで直子や周囲の観客の服に掛かったりはしていない。


 いけない、食べちゃった方がいいかな。

 

 直子は応援馬券をポケットにしまい、割り箸のどて煮の汁が付いた部分を避けて持ち、発泡スチロール製のどて煮の入った丼に口を着けて掻き込むと、何だか周りがざわついている。


ほうかひたんれすかあどうかしたんですかあ?」

 

 直子がどて煮を口の中に入れたままそう疑問を口にすると、隣にいた田口が焦ったように答える。


「アグリキャップが先頭に立とうとしてヒロノファイターに競りかけて行ったんや! 騎手の河原が抑えようとして手綱引いっとった。完全にケンカしよった! このレース、アグリキャップ負けるぞ」


 直子はごくん、と口の中のどて煮を飲み込むと、更に聞く。


「え、どういうことですか?」


「走っとる馬はずーっと全力で走っとる訳やない。本当の全力出して走れるのはその馬によって多少違うが2,300m程度や。

 要はレースの殆どを手を抜いて走っとる。全力で走るところは騎手が鞭入れたりハミしっかり掛けたりして馬に合図するんや」


「それに、馬によってペースの配分も違ってるの。ヒロノファイターみたいに最初に全力に近い走りをして先頭に立って、あとは少しづつ息を入れながらまた最後に全力を出す馬や、道中の殆どを楽に走って最後だけ全力を出す馬とかね。

 アグリキャップはこれまでどちらかというと、道中で少し力を使って前に出て、そのままゆったり走って行って最後に全力を出すタイプだったのよ。

 だから、レースの前半でヒロノファイターを抜こうとするのに力を使ってしまったら、最後に全力を出せる余力も残らない、ってこと」

 

 田口と彩がそう交互に説明する。


「騎手の河原、逃げや先行は得意なはずなんやが、アグリキャップがかかってしまったのか前の馬抜かそうって闘争心が出過ぎたんや。馬が走ろうって気になってたのを騎手が慌てて手綱引いて止めようとしたから、馬はどうしていいかわからん、混乱しとるんや。ほんで一度は全力に近い走りしとるから、確実に馬は疲労しとる」


 えーっ、じゃあアグリキャップちゃん、負けちゃうの……


「……馬によっては、ここからすぐに落ち着いてレースに集中できる馬もいるから、必ず負けるとは限らないわ。

 でも……アグリキャップがヒロノファイターに競りかけたことで、おそらく前のペースは上がってしまった」


「前のペース上がったってことは、後半前がタレる確率は高くなる。ってことは、後ろで控えるただでさえ強いフェートローガンに、めっちゃ有利な展開になっとるちゅうこっちゃ」


 二人の説明を聞いている間に、直子は丼のどて煮全てを掻き込んでいた。

 空の丼を一度足元に置くと、もぐもぐと咀嚼しながらスタンド最前列のフェンスを掴んでアグリキャップの位置を確認する。

 目の前の直線を走る黄色い帽子のアグリキャップは、5,6番手くらいまで順位を下げている。


 負けるかも知れないみたいだけど、私はあなたが頑張って走るのを見に来たんだよ、アグリキャップちゃん!

 走るの諦めないで、頑張って!








 河原章一は自らのミスを認めざるを得なかった。

 少しの欲目が判断を曇らせた。


 第1コーナーに3番ヤマニンシェイバー、4番リッチーファットマンと並んで進入したアグリキャップ。

 3頭が並んでいるため外を走っている。

 河原章一はアグリキャップのオールカマーをTVで見ていたので、ヒロノファイターを最後の直線でアグリキャップが捉えたのを知っている。

 ただ、オールカマーでは、ヒロノファイターはハナには立てず、完全にペースをコントロールしていた訳ではない。

 今日のヒロノファイターは完全に先頭に立った後、後続と5馬身程開いたのを見計らって鞍上の戸部がペースを落としたのがわかった。

 ホームコースの名古屋で、自在に走られると厄介だ、と思った。

 ヒロノファイターを牽制する役割を期待した6番のニューウィードは出遅れておりいない。

 気分よく走らせたヒロノファイターとの5馬身差は、リスクがある。

 そう判断した河原は、第3コーナーから少しアグリキャップを前に動かし、並走するリッチーファットマンらの前に完全に出ておこうと手綱を少し動かした。

 アグリキャップは河原の手綱に応え、3コーナーから僅かに加速し、直線に向くとリッチーファットマンらの前に半馬身程出た。

 もう少しバックストレートを走っている間に2番手集団から抜け出して、ヒロノファイターから3馬身程度後方の完全な2番手を確保したい、そう思った河原は更に手綱を強くしごいた。


 ガチッ、とアグリキャップがハミを取り、低く沈み込む。

 えっ、何だ!? 

 早すぎる‼

 アグリキャップの調教時とは違った突然の鋭い反応に、河原は動揺した。


 まるで最後の直線で先頭の馬を捉えるかのように、アグリキャップは低く沈み込んだ走りで加速し出す。

 

 おい、どうしたんだ、まさか、ゴール前だと思ったのか!?

 単走で2400を走る調教を積んで来てるんだ、ペースからもおかしいだろうよ……


 みるみる間に前のヒロノファイターに迫っていくアグリキャップ。

 地面を力強く掻き込むように走るアグリキャップの砂を蹴る音は大きい。

 ヒロノファイターの戸部も、背後からアグリキャップの足音が迫って来るのを察知しスピードを上げる。

 河原は手綱の操作でハミを外そうとするが、アグリキャップはがっちりハミを噛んでいる。

 一瞬躊躇したが、アグリキャップがヒロノファイターに並びかけようとした瞬間、河原は手綱を思い切り引いた。

 アグリキャップは立ち上がらんばかりに首を上げ口を割り、速度を落とした。

 ❝走ればいいんじゃなかったのか、どうなんだ❞ とアグリキャップが戸惑い困惑しているのが河原にはっきりと伝わる。

 その横をリッチーファットマンらが通過していくと、アグリキャップもその後ろを追走するように再び走り出した。



 乗り始めたばかりのアンチャン見習い騎手以下じゃないか、俺は。

 俺は、この馬アグリキャップのこと、本当に知ろうとしていたのか?

 ゲート入り前の身震いを単なる条件反射的な癖だって思っていた。

 違う、この馬アグリキャップは本当にあれ身震いをすることでレースに対して気持ちを切り替えていたんだ。

 レースでのこの馬アグリキャップの本質は、他のダンシングキャップ産駒と変わらない。

 産駒の大半が去勢されてしまうくらいに、勝つために荒ぶり、全力で走りたがる。

 ただ、この馬アグリキャップはそれをある程度コントロールできる頭の良さがあるだけだ。

 そのコントロールも微妙で、ほんの少しの騎手の力加減ですぐに本質が露わになってしまう。

 単走の追い切りなんかで計れるものじゃなかった。

 要は、俺にはこの馬アグリキャップを本当に知ろうとする謙虚さが足りていなかったんだ……


 アグリキャップは3番手集団に飲み込まれ、集団と共に前を追走している。


 レース中だというのに河原章一は鞍の上に座り込んでしまいたくなる程打ちのめされていた。






 

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