第34話 妻との観戦




 阿栗孝一は東海菊花賞のレース観戦に妻を伴っていた。


 今回も稲穂牧場には連絡していたが、電話に出た稲穂裕司からは東海菊花賞には誰か見に行かせる余裕が取れないとのことだった。

 何でも新しい従業員が2人入ったとのことで、その研修も行わないといけないらしい。


「ジャパンカップは必ず観戦に行かせてもらいますから」


 そう言って電話の向こうで申し訳なさそうに誘いを断った稲穂裕司。

 繁殖牝馬の母体管理で気を使う時期でもあり、阿栗もそれ以上は誘えなかった。


 そうした訳で、稲穂牧場の誰かの代わりと言う訳ではないが、阿栗は妻を誘うことにしたのだった。

 阿栗が笠松馬主会の理事を務めている関係で、妻には馬主の夫人が集う馬主婦人会のチャリティー活動などに年数回顔を出してもらってはいるが、それ以外では阿栗は妻に競馬のことは極力話さないようにしていた。

 理由は何故かと問われれば、何となくとしか言えなかった。

 何となく、妻には道楽を黙認してもらっているようで、あまり大っぴらに話題に出せるようなことではない、と勝手に思っていた。


 東海菊花賞の観戦に妻を誘う時も、阿栗は夕食の時に逡巡して黙り込んでしまっていたが、ようやく思い切って切り出したところ、妻はあっさり承諾してくれた。

 

「何着て行けばいいのかしらね」


 割烹着姿で小首を傾げそう言う妻に、阿栗は拍子抜けした。

 妻は馬主業を嫌々黙認し付き合ってくれているものだ、と自分が勝手に思い込んでいただけだったのか、と思うと自分のバカさ加減に思わず笑みがこぼれた。


「ええんや、その辺出かける格好で」


 緊張の解けた阿栗は、妻にそう伝えた。 


 

 今日の妻は家にいる時の和服に割烹着とは違いジャケットにパンツ姿で化粧もしており、名古屋競馬場の特別観覧席の雰囲気に溶け込んでいる。

 阿栗はそんな妻を見て、誘って良かったな、と思った。


「どのお馬さんが、あなたの馬なのかしら」


「あの5番のゼッケンを着けた馬や」


 阿栗は特別観覧席内のモニターに映し出される5番のゼッケンを着けたアグリキャップを指さし妻に教える。 

 今日の鞍上の河原章一は5枠の色である黄色の帽子と勝負服を着用している。


「黄色は9月に大きなレース勝った時と同じ色や。縁起がええ」


 妻は阿栗のその説明は聞いているのか聞いていないのか、違ったことを言う。


「あなたの馬、何とも可愛らしい馬なのね」


「そうか?」


「ええ、何だか私が小さかった頃、うちにいた馬みたいに、懐かしい感じがするわ」


 妻の実家はそこそこな農家であり、昔は農作業のための馬を飼っていたのかも知れない。それになぞらえて懐かしんでいるのだろう。


 妻はモニターから目を離すと、眼下のスタンドを見て感想を言う。


「平日なのに、沢山人が見に来てるのねえ」


「先月に比べて陛下の容体、落ち着いてきたみたいやからな。それもあって少し気持ちに余裕が出来て、仕事抜けて来たっちゅう人も多いんやろうな」


 今上天皇の容体は今でも毎日報道されているが、10月半ば頃の下血が続いた時期に比べると持ち直して小康を保っているように感じられる内容が続いていた。

 今では人々にとって、毎日伝えられる今上天皇の容体報道も朝夕の日常の一コマに溶け込みつつある。

 

 阿栗の妻としては単なる感想として言った言葉だったらしく「そうなのね」と返した後その話題には触れず、初めて来る名古屋競馬場の特別観覧席の様子が気になるようで、目立たない程度にキョロキョロと辺りを好奇の目で見回している。

 しばし特別観覧席の周囲を見渡していた妻は「あら、あの人」と誰かを見つけたようだった。

 阿栗が妻の視線の先を追うと、米国歌手ライオネル・リッチーを少し意識したと思しきパーマを当てた髪と口ひげが特徴のスーツ姿の男が座っていた。

 

 佐梁さはりやないか。

 フェイトローガンとの対決ばかりに気が行っとったが、そういや今日のレース東海菊花賞、佐梁の馬も出とるんやったか。

 金沢競馬で走っとった時は3着以下になったことがないっちゅう馬を佐梁が買い取って今年から東海で走らせとるみたいやが、イマイチパっとせんな。

 

 阿栗と妻の視線に気づいたのか、佐梁さはりいさおはこちらを向くと、引き締めた表情で頭を下げた。

 阿栗も頭を下げ挨拶を返すが、どんな表情をすれば良いのかわからず微妙な表情になってしまう。

 隣の妻を見ると、妻はニコニコとした笑顔で佐梁功に挨拶を返している。


「おまえ、何で佐梁のこと知っとるんや」


 阿栗は小声で妻に訊ねる。

 妻も合わせて小声で返す。


「だって、去年何度か家に来てあなたと話してたじゃないの」


 そう言えば、去年の今頃の時期にキャップの売却話で何度か家に来たことがあったか、と阿栗は思い出す。

 それにしても、売却交渉は阿栗の家でだけ行っていた訳ではない。家に来たとは言ってもほんの数回。よく妻は覚えていたものだ。


「あの人、去年家に来られた時より何だかアブラっ気が抜けたみたい。いい顔されてるわね」 


 笑顔を絶やさず小声で話す妻。

 阿栗はもう一度、佐梁の横顔をちらりと見た。


 変わったようには見えんがなあ。脱税の噂あったが、こうして馬主続けとるし、一体どうなっとるんやろうか。


 阿栗はその点は気になったが、現時点で自分に関係あることでもないため、佐梁の様子を見るのを止め、パドックの様子を映し出すモニターに再び目をやった。


 モニターは淡々と厩務員に曳かれてパドックを周回する出走馬を映している。

 深夜などのミニ番組でのみ放送される東海公営のレースは、レース前から中継アナと解説者の談話が入る中央競馬の番組とは違い、レース場面のみ実況が付く。そのため、まだ名物アナウンサー追川アナの声は入っていない。


「阿栗さん、今日はお手柔らかに」


 背後から声を掛けられ阿栗が振り向くと、そこに立っていたのは柔和な笑みを浮かべたフェートローガンの馬主、鷹端たかはし義和よしかず氏であった。


「鷹端さん、今日は胸をお借りします」


 阿栗も立ち上がり、鷹端に挨拶を返す。

 阿栗の妻も阿栗の後ろで控えめに会釈する。


「アグリキャップが中央に行く前に一度対戦しておきたかったんです。うちのフェートローガンは中央の芝ではさっぱりでしたから。芝でも重賞を勝てる馬を持たれた阿栗さんが本当に羨ましい」


「いや、そんな……鷹端さんには色々と相談に乗ってもらって……キャップが中央に活躍の舞台を移せることになったら、それは鷹端さんのおかげです」


「いやいや、私なんて大したことはしてません。どこに申請するか、書類は何が必要か、そんなことお話するくらいしかお力になれてませんよ」


「いやいや、中央のこと、まるで知らん私にとっては有難い事この上なかったですわ」


「そう言っていただくのは面映ゆい。私がたまたま先に中央で馬主になっていただけですから。

 正直、私としたら阿栗さんのように、中央の重賞で勝ち負け出来る馬を持たれたから中央の馬主資格を取る、というのは本当に理想的で羨ましい。

 私も中央で何頭か走らせていますが、殆どが条件戦です。トウコウシャークも秋から中央に移しましたが、900万条件戦で2戦して勝てていません。

 小田中さんが伊佐野いさのさんに売って中央に移ったフミノノーザンも、10月に4歳牝馬のGⅢに出走して10着がやっとでしたしね」


 笑顔は崩さぬまま鷹端は中央競馬の厳しい競争について話す。

 阿栗と鷹端の仲は、阿栗の中央競馬馬主資格取得のために相談に乗ってもらうくらいであり良好な関係と言える。

 だが、鷹端の話を聞いているうちに、阿栗は鷹端に申し訳ないような気持ちになってきた。


 鷹端は尚も話を続ける。


「私にすれば、伊佐野さんも羨ましいですよ。重賞に出走させることが出来たんですからね。なんでも次戦は最後の4歳女王戦のエリザベス女王杯に出すらしいです。

 GⅠなんて、私からすれば手の届かない憧れの舞台ですよ。所有馬を出せるだけでどんなに誇らしいことか。

 アグリキャップも、今月末には最高峰の国際GⅠじゃないですか。

 本当に羨ましいですよ。

 だからこそ、今日くらいは勝たせてもらいますよ、ではまた」


 鷹端は終始笑顔を崩さなかったが、最後の言葉を言った時はまるで目が笑っていなかった。


 ワシャ無邪気に鷹端さんのこと、傷つけとったんか……


 阿栗は自分のしていたことを恥じ入った。

 中央競馬で馬を走らせているとは言っても、誰も彼もが必ず最高峰の舞台、GⅠに辿り着ける馬を持てる訳ではない。

 阿栗が笠松で付き合いで馬主を始めた頃、まるで勝てなかった。

 笠松を盛り上げるため、とは言え所有する愛馬が勝てない日々は虚しいものだった。

 優勝劣敗をはっきりと目の前に突きつけられる競馬。愛馬が勝てないのは自分自身が大した人間ではないからだ、と言われているような気分になってくる。

 そんな時に重賞を何勝もしている馬の馬主が、無邪気な様子で何事かを教えてくれと言って来たら……自分なら迂遠に断るだろう。

 鷹端さんは、そんな己の気持ちを隠してワシにアドバイスしてくれた。

 ホンマにええ人なんや。

 ワシは鷹端さんの好意にだだ甘えしとった。浮かれた子供みたいに。

 情けない……


「あなた、浮かない顔」


 妻が阿栗を心配そうにのぞき込む。


「ああ、ワシャ子供みたいに鷹端さんの好意に甘えとった……情けない」


 阿栗は小声で絞り出すようにそう言うのが精一杯だった。 


「そう……だったらあなたのお馬さんに負けてって言いに行く? あなたが行けないなら私が代わりに言ってきてもいいけど」 


 阿栗を気遣いながらも突拍子もないことを言い出す妻。

 阿栗は一瞬妻が何を言っているのかわからなかった。


「おまえ、何を言っとるんや」


「だってあなた、鷹端さんに申し訳ないなら、鷹端さんのお馬さんに勝ちたくないんじゃないの? あなたのお馬さんだって、けっこう強いんでしょう」


「おまえなあ、そんなこと出来るはずがないやろ」


「そう。なら、そんな顔するの止めてあなたのお馬さんのこと、応援しましょうよ。あなたの愛馬なんだから。なかなか話してくれなかったけど、あんな可愛らしいお馬さんのことなら、もっと色々と話して欲しかったわ」


「おまえ……」


 阿栗は妻が遠回しに励ましているのだと気づく。

 己の行っていた厚顔無恥な行動は確かに恥ずべきことであり、今後鷹端には何らかの形で償う他ない。あるいは償おうとしても許されないかも知れない。

 だが、確かに妻の言う通りで、ここ特別観覧席でしょげかえっていても、何ともならないことなのだ。


 ここにはキャップの応援をしに来た。

 妻も、キャップを応援しようと言っている。

 なら、応援する他ない。


 モニターには、出走馬が次々とゲートに入って行く様子が映し出される。

 キャップも河原章一を背にゲートに進んで行く。


「おい、キャップを見てみい」


 阿栗は妻にそう伝え、モニターを指さす。


 モニターに映るアグリキャップはいつものように一瞬立ち止まり、首をまっすぐ前に伸ばして武者震いする。


「あら、あなたのお馬さん、これから競走するのわかってるのかしら? それとも単に首がむず痒いのかしらねえ」


 妻が軽く驚いたように、だがのんびりした口調でそう言う。


 ホンマにわしゃ、こいつには敵わんなあ、昔から。


 阿栗は妻の大らかさに随分と助けられていると改めて思う。




――晴天に恵まれました、ここ、名古屋競馬場。

――馬場状態は良好です。本日のメインレース東海菊花賞、これから11頭の優駿たちの力比べが始まります。


 追川アナウンサーの実況が始まる。


――最後に10番、ハッピーグラスが入りまして全馬ゲートイン完了。


カッパッ


――第29回東海菊花賞、スタートいたしました。






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