第33話 11月3日、名古屋競馬場スタンド
11月3日、名古屋競馬場。
第8レース、アラブ馬のレース畜産特別B12の出走馬がパドックに出て輪乗りを始めている。
次の第9レースは本日のメインレースとなる東海菊花賞。
久須美調教師は騎手の前検量の前に、河原章一と話をした。
「キャップの出来は悪くない。今日は1頭強い逃げ馬もおるが、やはり最後の相手はフェートローガンになるやろう。前に付けた方が楽にレース進められると思う。定石通り前目に行って直線勝負、どうや」
問われた河原章一も、その作戦で行こうと思っていた。
アグリキャップはテンの速さは然程ではないが、道中で前に出る速さはある。安定した位置をキープしたら楽に追走させ、最後の直線でフェートローガンよりも早く抜け出しゴールに流れ込む、そんなレースイメージを河原章一は描いていた。
「それで行きたいと思ってます」
河原章一がそう答えると、久須美調教師はアグリキャップに初騎乗となる河原の緊張をほぐすために何か冗談を言おうかと思ったが、曲がりなりにも笠松3本の指に入る騎手に対して要らぬ配慮かと思い、真面目に伝える。
「キャップを信じて2周半乗って来てくれや。頼んだで、章一」
そう伝えると久須見調教師はその場を立ち去った。
河原章一は騎手控室に行き、プロテクターと鞍に重りを入れた。
自身の今日の体重は50㎏。今日のアグリキャップの斤量58㎏のために8㎏の重りを入れた鞍を持ちプロテクターを着用し立ち上がると、重さがズシリと堪える。
河原が前検量のため検量室に向かおうとすると、奥のロッカーに安東克己がいるのが見えた。
安東克己はこちらに気づいていないようで、瞑想しているのか考え事をしているのか目を閉じているようだった。
克己も、俺より1㎏重い重りを入れるのは大変だろう。
2頭だけ飛び抜けて重い負担斤量を背負うのだという、妙な連帯意識がふっと浮かんだが、すぐにそれを打ち消す。
克己よりも1㎏軽いんだ、勝たなきゃいけない。
相手の末脚は脅威だが、末脚でも届かない程に先に行く。
勝って、克己と同等以上の騎手が笠松にいるというところを見せてやる。
河原章一は闘志が沸々と湧き上がってくる。
「今日、めちゃめちゃ混んでますねえ、おススメのどて煮、すんごいお店混んでて、やっと買えましたよお」
榊原直子は、レース前の録音されたファンファーレが流れる中、買ってきたどて煮を皆に配りながらあたふたしていた。
今日の名古屋競馬場は人の流れが多く、売店から両手に持ったどて煮をこぼさず運んでくるのにも一苦労だった。
「まあ、伝統の一戦に加え東海最強の座を賭けて2頭が争うレースだからな、当然だ!」
「カバリン、買って来てあげたお礼、私たちにきちんと言ってないわよ。それでも編集長?」
一緒に売店までどて煮を買いに行っていた富士田彩がそう言って編集長の賀張をたしなめる。
「ああ、編集長だ! だが、もう俺の脳細胞には目の前のレースに関すること以外を処理する余力が残っておらんのだ! 徹夜明けだからな!」
「なら、どて煮を味わう余力も無いですねー? 編集長にはあげませんっ」
今日はナプスジャ次号の原稿を全て印刷所に入稿したため、編集業務から解放されたナプスジャ編集部一同は打ち上げ代わりにここ名古屋競馬場まで東海菊花賞を観戦に来たのだった。
編集長の賀張は数日徹夜が続いていたのが解放され、アルコールも入り妙なテンションであった。
だが、おかげで売店で買い物を済ませて戻る際に、スタンド最前列という所在を見失いやすい場所だったにもかかわらず、すぐに見つけ出せたのだが。
「直ちゃん、ありがとな。馬券の方は買えたん?」
副編集長の田口が、どて煮を受け取りながら直子に聞く。
「ええ、彩先輩に頼んで買ってもらいました! バッチリです! アグリキャップちゃんの馬券、100円だけですけど」
「アグリキャップちゃんて……しかも100円て、ホンマに応援馬券やな。ま、直ちゃんが窓口行ったら年齢確認とか絶対されるから良かったわ」
「田口っちゃん、それ、私が年増に見えるって意味?」
「いやいや違うて、彩ちゃん。彩ちゃんは立派な『オヤジギャル』でオトナの遊びを嗜む女でカッコええって意味。誉めてんの」
「どうだか」
呆れたように彩が言い終わるや否や、テンションの上がった賀張が大声を出す。
「おまえら、くっちゃべってる場合かー! 全馬ゲート入り完了するぞー! 刮目して見よ! 東海最強が決まる瞬間をぉっ!」
賀張の大声に、榊原直子は最後の1頭が入ろうとしている出走ゲートを見る。
あのユーモラスな外見の馬、アグリキャップちゃん。
何だか他の馬より頑張って走ってるっていうのが凄く伝わってくるんだよなあ。
こないだの小雨のレースも凄く頑張って走ってたけど、今日はどんな走りを見せてくれるんだろう。
直子は買った5番の単勝馬券100円分を、お守りのように右手で握って胸に当て、バックストレートに設置された発走ゲートを見つめる。
自分の分のどて煮の器を左手に持ち、左手親指で割り箸を器用に押さえながら。
「直ちゃん、それじゃどて煮食べれんやろ、冷めるで、もったいない」
田口さん、そんな現実的なこと指摘しないでえ!
せっかく勝利を願うヒロインみたいな気分に浸ってたのにい!
「直ちゃんはヒロインよりか、もっと相応しい役割、きっとあると思うで」
またしても心の声が漏れていた直子だった。
久須美調教師はメインスタンドから東海菊花賞出走馬がゲートの入り待ちで輪乗りをしているのを双眼鏡を使って見守っている。
アグリキャップの返し馬の様子を見ていても、調子は悪くない。
あとはこれがテン乗りとなる河原章一だが、もうこれは任せる他はない。
アグリキャップは操縦性の高い馬だ。
落ち着いて乗りさえすれば、余程のことが無い限りは勝ち負けになるはずだ。
そして久須美調教師は、気になる他の馬を見る。
まずはオールカマーにも出走していたヒロノファイター。
父トウショウボーイと同じく快速の鹿毛。オールカマーも果敢に逃げを打ち結果は15着と敗退したが、今日は馬も騎手も慣れたホームの名古屋競馬場。
気分よく逃げさせたら前走10月12日のゴールド争覇のように簡単に逃げ切り勝ちを収めるだけの実力がある。
アグリキャップ陣営にとってベストな展開は、2番手集団に位置して追走し、どの馬でもいいからヒロノファイターをつついてペースを乱す馬が出て来てくれることだが……そう上手く行くかどうか。
他に逃げそうな馬は6番のニューウィードだが、こちらはヒロノファイターに比べると格落ち感が否めない。
ただ、競り掛けてヒロノファイターを牽制するか、ペースを速める役を担ってくれると有難い。
4番のリッチーファットマン、9番ウオローピジョンはそれぞれの前走でフェートローガンと勝ち負けになった馬で実力はある。
おそらくキャップはこの2頭と2番手集団の中で位置取りを争う展開になるだろう。
そして久須美調教師の双眼鏡が捉えたのはフェートローガン。
528kgの雄大な馬体の青鹿毛は、枠色の黒の帽子と勝負服の安東克己を背に、その巨体に似合わぬ軽快な歩様を見せている。
人馬共に黒に染まったその様子からは、えも言われぬオーラと言うべきものが発しているようにすら思えた。
久須美調教師は双眼鏡から目を離し、くはあーっと大きな溜息をついた。
弱気になる訳やないが、
こいつを負かせたら、もう文句なく東海最強でええってくらいには仕上がっとる。
久須美調教師はそう考えつつちらりと目線を同じスタンドの横、10数m先に飛ばした。
そこには久須美調教師と同じように、双眼鏡から目を離した喜田調教師がいた。
喜田調教師も久須美調教師の方を向き、目が合う。
二人は同時に目礼を交わした。笑顔は互いにない。
喜田
わからん。
わからんが、勝つのはキャップや。
久須美調教師はアグリキャップ勝利後に阿栗孝市と繰り出すネオン街を想像しようとした。
だが、レース前の緊張のためか上手く想像できなかった。
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