第31話 オパール特別A1 中京競馬場ダート1700m





 中京競馬場の所在地は名古屋市の東隣、豊明市である。

 敷地の一部は名古屋市緑区にかかっている。

 名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」が最寄り駅。ちなみに「中京競馬場前駅」の前を国道1号線が走っているが、中京競馬場前駅から国道1号線を挟んで100m程南に行くと国の史跡「桶狭間古戦場伝説地」があり、今川義元本陣跡石柱や、今川義元の仏式の墓碑などがある。

 中京競馬場は主に中央競馬のレースを3月、6月~7月、11月~12月に開催しており、GⅢ金鯱賞やGⅡ高松宮杯が名物レースとなっている。

 また5月、10月には東海公営の愛知県競馬組合主催のレースも開催しており、東海公営の馬にとっては芝のコースを走る貴重な機会となっていた。

 だが今日のメインレースは芝ではなくダートで行われる。


 10月19日、中京競馬場の第10レース「オパール特別A1」ダート1700mは、一般競走ではあるがその日のメインレースだった。

 出走馬は6頭。

 メインレースとしてはかなり寂しい。


 理由は、そのレースに東海公営最強馬が出走しているからだった。

 フェートローガン陣営が1週間前になっても出走登録を取り消さないと聞いて5頭の馬が出走を取り消した。


 今や、単なる一般戦なら戦うだけ損な相手と周囲に認識されている。

 実際、前々走のローレル争覇、前走のオータムカップ、フェートローガンは2着に敗れているものの、勝った馬よりも5㎏重い斤量で、尚且つ悪癖である先頭に立つと内にヨレる癖が出てしまった結果だと考えられており、勝った馬の評価が上がるというようなものではない。


 ――キャップもそうやが、勝ち続けるっちゅうのはええことばかりやないな。

 周囲が敵ばかりになる。他の馬との差を斤量で埋めてどうにかレースとして成立させようと、やたらと重い斤量を背負わされるようになる。

 いつか、馬がパンクしてまう。

 そう考えれば、前の東海最強馬ナカオライデンは、まだ運が良かった方やろな。

 骨折はしたものの予後不良にはならず、種牡馬になって第二の馬生を送れるんやからな。


 中京競馬場のスタンドで観戦する久須美調教師は、そんなことを考えた。


 久須美調教師は今日の中京開催に管理馬を一頭も出走させていない。

 中京競馬場に来るのも、5月5日にアグリキャップを中日スポーツ杯に出走させて以来だった。

 今日はこのレースのためだけに、2週間後の東海菊花賞で当たる最大の敵、フェートローガンの走りを確認するためだけに来ている。


 これまで久須美調教師の管理馬がフェートローガンと当たったことは一度も無い。

 久須美厩舎にフェートローガンと同じレースで走らせることができる実力馬がこれまでは1頭も居なかったからだ。

 だが、ついに東海最強馬に挑戦し、その座を勝ち取れるだけの馬、アグリキャップが現れた。

 久須美調教師にとっては、フェートローガンに挑む東海菊花賞は、ある意味ジャパンカップ以上の大一番であった。




 6頭の馬がゲートに入る。

 フェートローガンは3枠3番で、少頭数とはいえスッと前に出ればそのまま前目でロスなくレースを進められる枠順。


 ゲートが開く。

 僅かに2枠2番の馬が出遅れたが、揃ったスタート。

 フェートローガンは、前には出ずに後ろに控えた。

 馬なりでも前に出る力はあるフェートローガンを、鞍上の安東克己は手綱を絞りあえて後方に下げている。


 何故そこで控える必要があるのか、と久須美調教師はスタンドから見ていて思う。

 行きっぷりも十分だったのに、克己は何か狙いでもあるのか?

 だが6頭立てという少頭数のレース。

 馬の力で十分ねじ伏せられるはずだが。


 6頭立ての5番目でゆるゆると追走していくフェートローガンと安東克己。

 その走りは、力を溜めていると言うよりも、野生の頃は群れで生活していた馬の本能のまま前の馬にに付いて行っているとでも言うように力が抜けているように見えた。

 

 左回りの中京競馬場は中央競馬の開催場として小回りとは言え、公営の名古屋や笠松程コーナーのRはきつくはない。

 フェートローガンと安東克己は、レースの殆どを5番手の位置で追走し、先頭がいよいよ最後の直線へと差し掛かる。

 6頭立ての少集団は、先頭から最後方までの距離はさほど離れておらず、5番手のフェートローガンも先頭から6馬身程度離れた位置で直線に入って行った。

 

 中京競馬場ダートコースの直線は314m。名古屋や笠松と比べると長い。

 だが、ほぼ平坦な名古屋、笠松の両競馬場に比べると、中京競馬場の直線は中央競馬の競馬場としては緩やかな方だが、高低差2mのだらだらとした登り坂になっている。


 各馬とも、直線に入ると鞍上の騎手は必死で追っている。

 フェートローガンに乗る安東克己は直線に入りようやくフェートローガンに鞭を2発、3発と入れ前の馬を追う。


 スタンドで見ている久須美調教師は、安東克己が追い出してからのフェートローガンの異次元の伸びに驚愕した。

 一頭だけまるで走っている地面が違っているかのように、軽やかにダートを駆ける。

 駆けるごとに前の馬との差は易々と詰まって行き、先頭を捕らえたと思うとその後の5完歩で1馬身の差をつけ、1と 1/2馬身離したところがゴールだった。

 鞍上の安東克己は、重賞レースでもないのに拳を握りガッツポーズを何度も何度もして喜びを表していた。

 このレースに余程期するものがあったのだろう。


 なんや、あの馬は1頭だけ、違ったレースをしとる。

 克己が直線だけの競馬に徹したのは、おそらくここ2戦で顔を出し2着に敗れた原因となった、先頭に立つと内にモタれるフェートローガンの悪癖をなるべく出さないための方策やったんやろう。

 その狙いは見事に当たって、直線抜け出した後ゴールまで真っ直ぐ伸び切っとった。

 あの伸びは、他の馬の斤量が54㎏のところ、58.5㎏を背負って走った馬だとはとても思えん。

 更に言うと、中京の直線の僅かながらダラダラとした2mの登り勾配を一頭だけ感じさせんかった。

 あれが、平坦な土古どんこ、あるいは笠松の直線を走ったら……

 小回りで直線の短い両競馬場で追い込み馬は届くはずがなく、いかに勝負所の直線までに前のポジションを確保するかが騎手の腕の見せ所となっている東海公営だが、あの馬フェートローガンの直線の脚は、例え日本一短い194 mの直線の土古どんこであっても十分届くだろう。


 ダートをあそこまで軽やかに駆け抜ける馬を、久須美調教師は見たことがなかった。

 荒唐無稽な言い方をすれば、1頭だけ空中を駆けていたかのようだった。


 喜田よしだ調教師せんせいがようやくしっかり稽古つけられる状態んなったって言うとったらしいが、最強の称号を持っとるクセに、まだまだ強くなっとるっちゅう訳やな。

 おもろい。

 東海菊花賞、あんだけ強い馬を負かすことが出来たら、文句なくキャップが東海公営最強馬や。

 東海公営最強馬として、ジャパンカップに乗り込んだるわ。


 久須美調教師は心の中で闘志を奮い立たせ、スタンドを発った。








「うわー、ヤバイな、フェートローガン。ホンマに1頭だけ58㎏越えの斤量背負っとるとは思えん走りやったで」


「そうですね、1頭だけ芝の上走ってるみたいな、飛ぶような走りしてましたね」

 

 スタンドで興奮気味に話しているのは、ナプスジャ副編集長の田口と、アルバイトの高畑。

 今日はナプスジャの特集の取材にかこつけて(取材自体もしてはいたが)、フェートローガンの出走するこのレースを見に来ていた。

 編集長の賀張も来たがってはいたものの、ライブハウスE・L・Lエレクトリック・レディ・ランドに出演予定の東京で活動するミュージシャンの取材アポが急遽取れたため断念している。

 

「編集長、泣いて悔しがるんじゃないですか」


「まあ走り自体はモノ凄かったから、直に見れて良かったわ。ただ配当としてはなあ」


 オパール特別のレース自体は1番人気と2番人気のワンツーで決着していたため、配当的に然程の旨味はない。


「5000円突っ込んで9000円の戻しやから、まあ悪くはないっちゃ無いが、もうちょっと斤量負担を不安に思う客が多くても良かったんちゃうかな」


 自分のことは棚に上げて他の馬券購入者に愚痴る田口。


「あの走りを見ていると斤量差って何だろうって思っちゃいますね。流石は東海公営最強馬」


「まあフェートローガンの人気がちょっとでも落ちることあるとしたら、騎手が乗り替わるくらいやろうけど、噂やとアンカツ、東海菊花賞もフェートローガン選んだらしいからな。東海菊花賞でもダントツの1番人気やろな」


「そうなんですか? てっきりアグリキャップ選ぶものかと思ってましたけど。中央のGⅢ勝たせてくれた馬ですし」


「まあ、普通やったら今後も騎乗機会が多くなって伸びしろもある4歳馬選ぶと思うけど、これも噂やけどアグリキャップはどうも来年には中央に行くらしい。せやから笠松残るフェートローガンを取ったっちゅう話や」


「アグリキャップの騎手、誰になるんですかね」


「河原か、アンミツか、井ノ上か……河原やアンミツやとアンカツの凄味みたいなもんに欠けるし、井ノ上は強引過ぎやからなあ。波羅もないかな、どうもそろそろ調教師んなる準備始めとるらしいし。

 ま、誰んなるにせよ、アンカツより人気は落とすのは確実やろな」


「そうなると、結局何に乗るにせよアンカツ次第ってとこですね」


「まあなあ。前哨戦はフェートローガン陣営の圧勝。アンカツ確保出来た訳やし。

 でもアンカツから乗り替わる騎手も気ぃ楽なんと違うか? 負けてもアンカツやなかったからや、って思ってもらえるからなあ」


「確かに、東海公営でアンカツ以上はいませんもんね」


「名古屋の坂部さかぶが健在やったら坂部の方が上やったろうけど、3年前に落馬で大怪我して引退してもうたからなあ。残念やった。

 ま、それはそれとして、換金したらもうちょっと取材続けるで。彩ちゃんと直ちゃんの笠松編、なかなかええ紹介記事んなっとったから、負けられん」


 田口と高畑は、換金所へ向かってそんな会話をしながら歩き出す。


「直ちゃん、やっぱり上手い文章書きますね」


「短くとも情景浮かぶ文章、上手いよな。将来物書きでメシ食える子って気ぃするわ」


「僕はあの、建物の影から馬の後ろ半身だけ見えてる写真、良かったですね」


「あれ、賀張も一瞬表紙にしよか、とか言っとったからな。まあ契約のイラストレーターから表紙代える訳にはいかんけど、特集の巻頭ページには使えそうや」


 そう言って2人が立ち去ったスタンド。

 2人の後方に座っていたサングラス姿の一人の男は、他の客が換金所へ、あるいは売店へと移動する中、ずーっと勝ったフェートローガンと安東克己を見つめて座っていた。

 

 その男は河原章一だった。


 河原もやはり、東海菊花賞の相手となるフェートローガンと安東克己の走りが気になっており、調教と厩舎の雑務を終わらせて中京競馬場に足を運んでいた。

 河原もフェートローガンの強烈な末脚に衝撃を受けていた。

 だが、それ以上に河原は、観客たちの正直な感想に打ちのめされた。


 河原はこれまでも、競馬民たちの容赦ないヤジを浴び、下手くそと罵られることも数えきれない程に経験してきた。

 身銭を賭けているのだから、負けた馬の騎手に罵声を飛ばす権利くらいは観客にもあるだろう、と腹は立つものの騎手という商売柄仕方ないことだと河原も割り切ってはいた。

 だが、さっきの2人の観客の騎手評は、負けたから腹いせに叫ぶ罵声とは違い、感情抜きに冷静に騎手としての力量を比較していたものだ。

 それが河原章一の心に刺さった。 


 俺は克己に比べると、凄味が無い騎手だと思われているのか。

 凄味って何だ? どうすればいい?


 








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