第32話 葛藤
10月30日(日)、久須見調教師は調教が終わった午後、笠松競馬場近くの河川敷の草刈りをしていた。
草刈りをするのは虫などが発生するのを抑えるためでもあったが、管理馬のエサにするためのマメヅル科の植物を集めるためでもある。
JA等で販売している馬のための配合飼料をメインの飼葉として与えているが、それだけでは足りないので、こうして堤防の景観を整備しつつ食べられる草も集めている。
それは久須美調教師だけに限った事ではなく、久須美調教師よりも先輩の調教師も行っていることだったが、久須美調教師は笠松の地のものを食べさせた方が馬にとって良いことだと信じていた。
笠松生え抜きの馬で、強い馬を育てる。
地のもん食わせて、ここ笠松で育った馬として、強く。
ナカオライデンもフェートローガンも強いが、ダート軽視の中央では結果が出せんで落ちて来た馬や。
笠松のが中央より下っちゅうことやない。
それでも、笠松から強い馬育てるっちゅう夢は、持っとかんと。
そのために、地のもん食わせてやるのも大事や。しょーもない思い込みかも知れんけど。
10月も末になると、そろそろ新しく芽吹く雑草というのは少なくなり、久須美や他の調教師が数日前に刈ったところは茶色く枯れている。
この風景を見ると、今年もいよいよ終りに近づいてきていると実感せざるを得ない。
久須美調教師は刈った草の山からマメヅル科の植物だけをより分け、乗って来た軽トラの荷台に乗せていると、缶コーヒーを2本持った河原章一がやってきた。
「おう、章一、どないしたんや、厩舎の手伝いはもうええんか」
首にかけたタオルで汗を拭きながら久須見調教師がそう声をかける。
秋めいた気候になり朝夕は冷え込むようになったが、日中太陽が出ている時の外作業はまだまだ暑い。
河原章一は、2本持った缶コーヒーのうち1本を久須美調教師に渡し、「一息つきませんか」と言った。
久須美調教師も、河原が何か話したいことがあるのだと察し、草を刈った土手に腰を下ろす。
「ごちそうさん。章一も座ったらどうや」
久須見は貰った缶コーヒーのプルトップを開け、取れたプルタブを缶の中に入れるとグビリと飲んだ。
河原章一も少し離れた土手に腰を下ろし、同じようにして缶コーヒーに口を付ける。
「土手の草刈りしとると、ホンマ空き缶やらプルタブやらがザクザク出て来るな。国道や土手の上走る車からポイっと放るヤツが後を絶たん。困ったもんや」
久須見は拾い集めた空き缶を入れたゴミ袋をアゴで差す。
大きな30ℓ透明ポリ袋1袋半に空き缶、更にもう1袋に可燃のプラスチック等のゴミが入っている。
「こんなもん持ち帰りたくもないが、まあ放っとく訳にもいかんでな。缶コーヒーから垂れた飲み残しがマメヅルに掛かってたのを気づかずに馬に食わせたりした日にゃ、レース後の検査でカフェイン出て失格、なんてことにもなりかねんし。
せやからマメヅルも厩舎持って帰ったら一回洗わなあかんしなあ。
こないだのキャップのレース前、競馬組合宛てに匿名で密告の電話もあったらしいし、気ぃつけんと。レース後何本も検体取られて、嫌がらせかも判らんが、強い馬管理するっちゅうのも大変や」
久須美調教師は独り言のようにそんな話をする。
「そんな強い馬、それも東海最強を決めるレースに、何で俺をヤネに選んでくれたんですか」
河原章一がようやく口を開く。
「そらお前、章一は笠松でも3本の指に入る騎手やからに決まっとるやろ。去年東海ダービーも取っとるし、実績だって十分や。自分でそう思わんか?」
久須見調教師は淡々とそう返す。
「まあ、実績だとうちの厩舎じゃ
「波羅もええ騎手やけどなあ、如何せん年やわ。調教師試験、近々受けるっちゅうんやろ。自分でも衰え自覚しとるっちゅうこっちゃ。現時点なら章一の方が上やろ。
あ、ワシがそう言ったって波羅にはナイショにしといてな。また頼むことあるかも知れんし」
「言いませんよ。でも
「ま、そらそうや」
久須見調教師はあっさり肯定する。
「『秋風ジュニア』からやから、もう13戦続けて乗ってもろとる訳やしな。出来たら笠松にいる間はずっと乗っといて欲しかったわ。
ほんでも、デビューから引退までずっと一人の騎手がヤネ務める馬なんて滅多におらんし、乗り替わりも普通のことや。そんなん章一も判り切っとることやろ。
何や章一、そんなこと気にするって、外野から何か言われたんか?」
河原章一は少しためらっていたが、頭にこびりついて離れないあの一言を口にした。
「……そうですね。克己にある凄味みたいなもんが、俺には無いって」
それを聞いた久須美調教師は、ハハハッと笑いながら「なんや、いかにもな外野の意見に惑わされとるんやな」と言って、また缶コーヒーをグビリと飲む。
「まあ、言いたい奴には言わしときゃええ。章一は章一にできる精一杯の騎乗をしてくれればええんや」
久須見調教師の言葉は、河原章一の求めていた回答とは違ったものだった。
河原章一はほんの4日前の10月26日、最後の4歳重賞となる岐阜金賞にマーチトウホウで出走し、安東克己の駆るトミトシシェンロンのアタマ差の2着に屈していた。
河原章一はまたしても安東克己の後塵を拝した。
その事実が、中京競馬場で聞いた「安東には凄味があるが、河原らには無い」という観客の言葉を、更に河原章一の心に深く刻みこんでしまうことになっていた。
河原章一は、つい大きめの声で久須美調教師に重ねて聞いた。
「
久須見調教師は河原章一が、そんなに己と安東克己との違いを真剣に気にしているとは思っていなかったので、少し面食らった。
実のところ、河原章一がそこまで気にする程、二人の間に馬乗りの技量に差がある訳ではないと見ている。
だから先程の言葉を久須美は言った訳だが、河原章一はそれでは納得できないようだ。
外野が気楽に言いよる凄味なんて言葉、えらい抽象的なもんや。あいつにゃ座敷童子がついとる、とほぼ一緒のこっちゃないか。具体的やない。
とはいえ、そう言っても河原章一は納得しないだろう。
うーむ、と少し考え、久須美調教師なりの安東克己と河原章一の違いを言葉にした。
「章一と克己の違いはな、性格や」
「性格……」
あたりまえだ、違う人間なのだから、とは河原章一は言わなかった。
黙って久須美調教師の言葉を待つ。
「せやな……騎乗の面で言うたら、克己の奴はええ意味で結果オーライなとこあるっちゅうか……例えばレースで出遅れたとするやろ? 普通は焦って遅れ取り戻そうとしてまうモンやが、克己はしゃーないって割り切れるんやな。そんなこともあるし、自分のせいやないし、みたいな。結果1着取れんでもそれなりの順位に持って来れる訳や。
良く言えばレース中に動じんように見える。傍から見たら、それが凄味なんと違うかな」
アグリキャップの東海ダービー、オールカマーでも安東克己のそういった性格のおかげで勝てたのは否めない。
「まあ、悪く言えば克己の性格のチャランポランなところが、レースだと上手く作用しとるんやな。
逆に章一は真面目や。しっかり情報集めて乗る馬の能力も性格も把握して。その馬の持つ力を十全に出す騎乗をしっかりやっとる。その点は克己もやっとるけど、ワシャ章一の方がその点は上回っとると思う。
東海ダービーのマーチトウホウの直線、しっかり考えとったんやろ」
河原は東海ダービーの直線で、マーチトウホウをアグリキャップに合わせに行った。
馬体を合わせることでマーチトウホウの闘志を引き出し、アグリキャップを唯一上回る一瞬のキレる脚に賭けたのだが、アグリキャップの伸びに屈した。
「乗っとる馬に1着取らせるためにベストな騎乗プランを考えて挑む。それは章一のええとこなんと違うか。プラン通り行かんこともレースじゃ良くあるけど、それを補うのは結局は騎乗経験やろ。去年の東海ダービーも取った、一昨年の東海ゴールドカップも取った、その経験は章一の糧んなっとる筈やで」
久須美調教師はそう言うと、残りの缶コーヒーを一息に飲み干し、立ち上がる。
「どうや? まあ100勝もしてない元ヘボ騎手の意見やから、あんまり真剣に取られても困るけどな」
久須見調教師は手に持った缶コーヒーの缶をゴミ袋に入れ、そのゴミ袋を持ち河原章一の近くに行く。
河原章一も一息で缶コーヒーを飲み干し、袋に入れる。
その表情は、多少は晴れたようにも見えるが、何か言葉に出来るほどに納得した訳では無さそうだった。
「章一、この後も時間あるんやったら、片付け手伝ってくれ」
そう言って久須美調教師はゴミ袋を乗って来た軽トラの荷台に積む。
一人で考え込むよりは体を動かしていた方がまだいいだろうとの気遣いだった。
河原章一もマメヅルの束を抱えて軽トラの荷台に乗せた。
「今日の追い切りでキャップ乗って、どうやった?」
作業をしながら久須美調教師が河原に聞く。
今朝は東海菊花賞の追い切りを行っていたが、単走で2400mを目標タイム2分40秒で最後の2ハロンを全力で走るという形で行っていた。
「……正直、今まで乗ったどの馬よりも強いと思います」
河原章一も作業をしながら言葉を返す。
その言葉に関しては、ここ数週間調教でアグリキャップに乗った河原章一の本心であった。
「これまでのどの馬よりも大人と言うか……こちらの指示に本当に素直に従ってくれますし、一度追い出したときの伸びも長いですし……騎手冥利に尽きる馬、ですね」
「そうか。やったら章一、まだ悩んどるんかも知れんけど、キャップのことだけは信じて乗ったってくれや、頼むで」
「……はい」
切りの良いところまで草刈り作業をし終わると、久須美調教師は「ま、乗ってけや」と言って河原を軽トラの助手席に乗せる。
陽の光が少し力を抜きつつある頃に、久須美調教師と河原は円城寺の厩舎ブロックまで戻っていった。
喜田調教師は、フェートローガンの出来に満足していた。
10月19日にレースを使っているので、今回は軽めの追い切りにしていたが、最後の2ハロンの上がりだけでも十分なものだった。
世間ではフェートローガンこそが東海公営最強と
昨年の東海ゴールドカップでは確かにナカオライデンを破って優勝したが、やはり斤量差で辛うじて上回ったと感じており、勝負は今年、フェートローガンがナカオライデンと同等の斤量を背負う状況になってからはっきり着ける、と期するものがあった。
だが、ナカオライデンのまさかの骨折引退により、その機会が巡って来ることは無くなった。
そんな中、気鋭の4歳馬アグリキャップがフェートローガンに挑戦してくることになった。
18戦16勝2着2回で14連勝中。その中には中央GⅢオールカマーの勝利も含まれる。
ナカオライデンが競馬場を去った今、フェートローガンが真の東海の王者だといことを証明するためには格好の相手となる。
喜田調教師は4日後の東海菊花賞が楽しみで仕方なかった。
ただ、一つ懸念材料があるとすれば、騎手である安東克己の様子がいつもとはやや違っていたことだった。
アグリキャップの主戦も安東克己は務めており、フェートローガンと乗鞍が被った東海菊花賞で、どちらを選ぶかは馬主の
その後出走した前走オパール特別A1でも安東克己の提案により、直線での内へのささり癖対策で追い込みへの脚質転換を図り、見事に着差以上の圧勝を飾った。
喜田調教師もフェートローガンが新たに見せた新境地に興奮すら覚え、安東克己も会心の笑顔を見せた。
その後、調教でも安東は屈託なくフェートローガンへの素直な賛辞を惜しまず手を抜くことも笑顔を絶やすことも無い。
だが、騎手になる前から面倒を見ていた喜田調教師にとっては、安東の笑顔の裏に微かに憂いが潜んでいるように感じられた。
その憂いについて喜田調教師が安東にそれとなく水を向けても、安東は口に出すことはなくはぐらかしている。
喜田調教師にはその憂いについて一つだけ思い当たることがあったが、安東克己にあえて直接確かめることはしていない。安東克己が言いたくないのなら、無理に聞き出しても仕方のないことだからだ。
懸念はあるが、今や押しも押されもせぬ笠松ナンバーワン騎手に育った愛弟子を信頼する。
これまでも口うるさく何かを教えてきた訳ではないのだから。
己で考え己で実践し、いよいよ詰まった時に聞かれたら、考え得ることを精一杯伝えればいい。
真の東海公営最強の座を証明する日は、4日後に迫っている。
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