第30話 電話




 阿栗孝市が夕方自宅に戻ると、妻から、久須美調教師から少し前に電話があった、と聞かされた。

 時間は18時を回っている。

 久須美調教師は既に厩舎にはいないかもな、とも思ったが、阿栗は久須美厩舎の番号に電話を掛けてみた。


「もしもし、久須美厩舎です」


 2コールもしないうちに電話が取られ、久須美本人が電話に出る。


「阿栗です。久須美さん、電話貰ったようで、どうかしましたか」


「ああ、阿栗さん……あまりいい話やないんですが、とり急ぎお伝えしとこうと思いまして、会社の方はご迷惑かと思ってご自宅に連絡したんですわ」


「そうでしたか……もしかして安東くん、ですか」


「はい。アグリキャップの騎乗、断ってきましたわ」


 久須見の言葉は、阿栗もある程度予想していたことではあったが、それでもやはりショックではあった。


「やっぱり、師匠の厩舎の馬は断れんてことですか」


「克己本人は、そうは言うてなかったです。ただ、克己が言うには、アグリキャップは自分でなくても勝てる馬や、と」


「そんな、アグリキャップには安東くんが一番合っとる」


「ワシもそう言いました。けど本人にしかわからん部分なんでしょうな。逆に言ったらフェートローガンは克己が乗ったらまだまだ力を引き出せるって思うとるってことでしょう」


「あんなバケモンみたいに強いのに、まだ強くなるって安東くんは思とるんか。エライことや」


「まあ、実際のとこはわかりません。克己も口下手やし、おそらく色んなことを考えた上での結論でしょう。軽口も叩かず、エライ神妙な様子でした」


 まあそうだろう。

 実際問題、16の頃から所属して世話になっている自厩舎の馬で、尚且つ現時点で最強と目されている馬を普通なら断れるはずもない。

 本来ならこちら側がそうした事情を鑑みて、ローテーションが当たらないようにするか、騎手交代を申し入れるか配慮するべきだったのだ。

 そこを、スケベ心で依頼したのだ。

 阿栗も久須美も口には出さなかったが、東海公営最強の称号を得たい。そして、その前に笠松一の名手の心を繋ぎ止めるくらいにキャップは強いと思いたい。そうした考えがあった。

 そのスケベ心のため、おそらく相当苦渋の決断を安東にはさせてしまったのだ。


「どうします、阿栗さん。まだ10月26日の最後の4歳戦『岐阜金賞』の出走登録は間に合います。もし克己に乗り続けてもらいたいんなら、ローテーション変えれば可能性はありますが」


 久須美の言葉に、阿栗は少し心が揺れた。


「安東くん、ジャパンカップは乗ってくれるんやろ?」


「いや、それが、以降のキャップの騎乗からは完全に降りるちゅうて来ました。

 ジャパンカップともなると事前に美浦行って調教も乗らんと勝てんと思うが、おそらくそんなに自分は時間が取れんちゅうて。

 まあ相手さんのローテーションを克己も漏らす訳には行かんからはっきり言いませんでしたが、11月23日にある『全日本サラブレッドカップ』にフェートローガン、出す予定があるんでしょうな」


「ほうか……」


 11月27日のジャパンカップで安東克己が駆るアグリキャップが、中央、世界をあっと言わす。

 そんな阿栗の夢想は夢と消えた。


「……岐阜金賞は止めとこ。1900mやろ? ジャパンカップの前に1回2400m走っとく意味でも予定通り東海菊花賞でフェートローガンと戦っとこうや。それが安東くんに苦渋の決断させたワシらの当然のけじめっちゅうもんやろう」


「……わかりました。ほな、キャップのヤネ騎手、どないしますか」


「東海菊花賞は、安東満彰くん、河原章一くん、名古屋の黒塚くん、その辺りの誰かで東海菊花賞に乗鞍が無さそうな騎手に、久須美さんから頼んでみてくれんかな」


「なら調教でもある程度乗っといてもらわなあきませんから、明日にでも声かけてみますわ。で、ジャパンカップもその騎手で行くっちゅうことでいいですかな」


 阿栗は電話の向こうの久須美の言葉にしばし沈黙した。


「……ジャパンカップは、ちょっと考えがあるんや。とりあえず、久須美さんが声かける騎手には、ジャパンカップの騎乗はまだわからんて正直に言うておいて欲しい」


「……わかりました。ほしたら、ヤネ騎手決まったらまた連絡します」


「久須見さん、よろしく頼みます」


 そう言って阿栗は電話を切った。

 電話を切ると同時に、ふうぅっ、と深い溜息が漏れた。

 半ば以上はこうなることは覚悟をしていた。

 だが、実際になってみると喪失感が半端ではない。


 あれや、東海クラウンとき、布津野くんが言うとったとおりや。


 ――遅かれ早かれ、キャップと安東さんのコンビは分かれてしまうんですね。だったら、こうして騎乗している姿を、良く目に焼き付けておかないと――


 もしも、ワシの中央の馬主資格が12月に取れたとしたら、ジャパンカップが笠松所属で出る最後のレースになるんや。

 安東くんとのコンビは、結局多くてあと2戦で終りやった。

 なら、ちょっと早くなっただけのことやないか。

 

 阿栗はそう考えて自分を納得させようとしたが、ぽっかりとした喪失感が埋まることは無かった。


 話し声が終わったのに動く気配がない阿栗の様子を妻が見に来ると、阿栗は電話の前で下を向き立ち尽くしている。


「あら、あなた、久須美さんにフラれでもしたの、そんなにしょげちゃって」 


 尽きぬ後悔と喪失感から現実に引き戻してくれるいつもの調子の妻の声。 阿栗は妻に感謝しつつ、空元気を出し、自分もいつもの調子で返事をする。


「いや、ワシも久須美さんも、まとめてフラレたんや、笠松一のええ男に」


「あらあら。あなたの男の趣味って、案外高嶺の花狙いなのねえ」


 割烹着を着て、小首を傾げてきょとんとした表情で言う妻。

 阿栗と一つ違いなのに、こうした本気かどうかわからない子供っぽい仕草をすることがある。

 それが阿栗の妻の良いところであった。


「まあなあ、高嶺の花は取りに行かんと、向こうから落ちては来んからなあ。玉砕することもあるわな。しゃーないしゃーない」


 阿栗は妻に合わせてそう言うと、少し気分が軽くなった。

 客間においてある充電台から電話の子機を取り、とりあえずさっきの久須美との電話で思い付いた相手に電話をしようと自分の書斎へ向かう。


「すまん、もう一か所電話せんといかん。メシは電話が終わったらにしてくれるか」


 阿栗がそう妻に伝えると、妻は大丈夫ですよ、あとはお酒のお燗つけるだけですから、と平然としたものだ。

 阿栗は、少しイタズラ心が湧いた。こう言ったら妻がどんな反応をするか。


「電話する相手は、女なんやけどな」


 そう言ってみたが、もう台所の中に戻っている妻の声は変らない。


「なら早く電話してあげて下さいね、向こうさんも予定があるかも知れませんから」


 うちの妻には敵わん。

 阿栗は心の中で妻に脱帽した。



 阿栗は子機を持って自分の書斎へ行き、仕事では使っていない名刺ファイルの中から目的の名刺を探し出した。


 名刺の電話番号を見て、子機のプッシュボタンを押そうとするが躊躇ちゅうちょしてしまった。


 突然過ぎないだろうか。

 一度しか面識がない。それもほんのわずかな時間。

 社交辞令を真に受けた田舎者扱いされるかも知れない。


 だが、躊躇ちゅうちょは一瞬のことで、すぐに振り切ってプッシュボタンを順番に押していく。


 ピ・ピ・ピ プルルルルルルルル……プルルルルルルルル……


「もしもし、グレイトフルレッドファームでございます」


 30代後半らしき女性の声が受話器から聞こえてくる。


 阿栗は少し緊張しながら喋り始める。


 グレイトフルレッドファーム様でよろしいですか? 私、岐阜県岐阜市に住んでおりまして、先日のオールカマーで優勝したアグリキャップ号の馬主をしております阿栗孝市と申します……その節は……








「おーい、ショーイチ、ちょっとええか」


 次の日の朝7時、自厩舎の馬の調教を付け終わった河原章一を呼び寄せたのは、五島ごとう志来しき調教師だった。


「なんですか、調教師せんせい。それなりに、良くなってきていると思いますよ」


「そうか。まあどうにか次のC級戦、勝ち負けんなってくれるとええけどな。

 そらそうと、お前、11月3日アグリキャップの騎乗依頼来とるんやが、どうする?」


 調教を付けていた馬の調子を聞かれるかと思っていた河原章一は、師である五島調教師の言葉を聞き、唖然あぜんとした。


「いや、んな訳ないでしょ、調教師せんせい。克己を代える理由無いやないですか」


「いや、克己から断られたみたいやで。さっき、久須美さんから聞かれてな。『五島調教師せんせい、東海菊花賞調教師せんせいんとこの厩舎の馬出しますか』つってな。おらんおらん、『岐阜金賞』に全力や、て答えたら、『やったら東海菊花賞のキャップのヤネ、河原くんにお願いしたい』ちゅうことでな。

 克己はフェートローガン選んだっちゅうことなんやろ。

 ほんで、どうする?」


 河原章一にとってそれは青天の霹靂だった。

 アグリキャップと安東克己は、4歳戦線で常に河原章一とマーチトウホウの前に立ちはだかる巨大な壁だった。

 何度ぶつかっても超えられない大きな分厚く高い壁。

 その壁が出なかった岐阜王冠賞で、ようやくマーチトウホウは4歳タイトルを獲得できた。

 口さがない者からは、王者不在で転がり込んだタイトル、などと言われもした。

 そうした言われように悔しい思いを抱いたのも確かであった。

 だが、東海ダービーのはっきりした敗戦で、馬の力の差を認めざるを得なかった。

 

 そんなアグリキャップに、俺が?


 河原章一が考えていると、五島調教師は騎乗を受けるべき、と言葉を発した。


「ちょっと前から噂はあったけど、やっぱりアグリキャップ、中央行くらしいで。笠松所属で中央のレース出るっちゅう意味やなく、阿栗さんが中央の馬主資格取ったら移籍させるらしい。

 ほんでジャパンカップに笠松所属で行くの決まっとるから、東海公営のレースで走るのは、もうあと何戦も無いやろ。

 ほんであの馬が出れるレースも、もうビッグレースでないと観客に納得されん。

 ほんでそんなレースは、フェートローガンかて出るやろ? なら克己は戻らん。

 なあ章一、あんなどえらい馬に乗る機会、逃すの勿体ないと思わんか」


調教師せんせい……ええんですか」


「ええに決まっとるやないか、だいたいワシャ嬉しいんやで。

 アグリキャップが『岐阜金賞』に出て来んのが判ったんやから。最後の4歳タイトル戦にあんなバケモン来られたら泣くとこやったわ」


「ありがとうございます……調教師せんせい

 ならマーチで『岐阜金賞』も、絶対獲ったります」


「当たり前やろ、トミトシに『秋の鞍』の借り、返したらな。ほんで11月20日水沢の『ダービーグランプリ』代表の座も、頂くで。

 せやからキャップの調教ばっかりかまけたらアカンからな。きっちりマーチの調教も頼むで」


 そして最後に五島調教師はイタズラっぽい表情でこう付け加えた。


「乗ってる馬厩舎に戻したら、すぐ久須美さんとこ行かんと他のもんに取られるかもわからんぞ? 名古屋の黒塚んとこも聞きに行きそうな勢いやったでな、久須美さん」


「わかりました、戻ったらすぐ久須美調教師せんせいんとこ行って受けるって大声で伝えます」


 そう言って河原章一は騎乗したまま専用馬道に馬を進めていく。


「焦って信号無視して、車に馬ぶつけんなよー! 横断歩道は人馬一旦停止やでー!」


 五島調教師はその背に、からかいの追い打ちをかけるように大声で叫んだ。







  











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