第28話 馬のいる風景





 ピピピピピピピピピピピピピピ……


 うるさいなあ、わかってるわよ、起きろってんでしょ、わかった、わかったけど眠いの私は……どこよ、昨日の私の悪意の塊は……


 目も開けずに両手でバタバタと枕元の目覚まし時計を探っていた榊原さかきばら直子なおこだったが、ようやく探し当てたと思った目覚まし時計は左手の甲に当たった拍子に転がってしまい、再び所在不明だ。

 うつ伏せに体勢を変え一大決心で上半身を起こし薄目を開けると、安いパイプベッドのヘッド部分の柵と壁の間に挟まっている目覚まし時計を発見する。

 カーテンを閉じた部屋の中はまだ薄暗いが、蛍光塗料を塗られた針はその存在を身の程知らずにもアピールしていた。


 この子ったら、私をよくも手こずらせてくれたわね、えいっ!


 目覚まし時計の上部のアラーム停止ボタンを押すと、観念した目覚まし時計は沈黙する。


 ふふふ、いくら昨日の私の命令に忠実であったとしても、あんたの主人は常に今日の私なのよ……己の無力さを思い知りながら眠りにつきなさい、私も寝るから……


 そんなことを考えながら榊原直子は枕を抱えて再び心地よいまどろみに身を任せた。


 夢の中で直子は、先輩の富士田ふじたあやのようなデザイナーズブランドのスーツを着こなし、光GENJIの諸星克己似の、やはりスーツ姿の男性にエスコートされて、現実では一度も行った事のないディスコabimeのドレスコードチェックを抜けて中に入る。

 うわあ、キラキラしたお星さまが一杯だあー。


 ピン・ポーン!


 ディスコにはおそらく似つかわしくない貧相な音が響く。


 何この音?


 ピン・ポーン!

 ピン・ポ・ピン・ポ・ピン・ポ・ピピピピピピピンポーン!


「うるさいなあ!」


 自分の声で目が覚める。

 止めた目覚まし時計を見ると、6時半の少し前。


 その瞬間に閃くように思い出した。


 今日は彩先輩と一緒に笠松競馬場へ取材に行くことになっていた!

 彩先輩が笠松へ行くならどうしても見ておかないといけないものがあって、それは早朝しか見れないと言っていたので、約束は5時半に彩先輩のマンションで待ち合わせの筈だった……


 ヤバいいっ!


 直子がダッシュでドアに駆け寄り、覗き穴からドアの前の人物を確認すると……


「すいません、彩先輩! 5分、5分で用意しますぅっ!」


 大声でそう伝えると、直子は洗面所に飛び込んだ。






 15分後、榊原直子は富士田彩の運転するマツダ サバンナRX-7 オープンモデルの助手席に座っていた。

 生憎雨がパラつく空模様のため、ルーフは閉じている。

 

 助手席に座る直子は身を縮めている。

 5分と言ったがドタバタと10分近く準備にかかった直子。

 玄関前で腕組みをしつつ呆れた表情をしていた富士田彩に何度も謝ったが、彩はふうっと大きな溜息を一つつくと「急いで車に乗って。このアパートのすぐ前のあの車」とだけ言って先に車に乗り込んだので、直子も急いで助手席に乗ったのだ。

 それ以降会話がない。


 直子が縮こまっているのは、会話がないことも一つの要因ではあったが、それ以上に無言の彩が駆るRX-7がブッ飛ばしており、必死に手足を踏ん張っていたからでもあった。

 100m道路の久屋大通りを飛ばし遠くに見えていたTV塔があっという間に真横に来て後ろに消え去る。

 県庁前を左折し国道22号線をひたすら北上。

 殆ど信号にも引っ掛からず笠松競馬場外馬券売り場の駐車場に到着したのは7時15分頃だった。


「直ちゃん、着いたわよ。降りて」


「場外馬券売り場、ですか?」


「そうだけど、見せたいものは違うわ。カメラ、忘れないで」


 そう言うと富士田彩はパラつく小雨の中、赤い傘を差して県道178号線の歩道を笠松駅の方向に歩いて行く。

 榊原直子もあたふたとバッグの中から折り畳み傘とカメラを出し、折り畳み傘を広げて差して後を追う。

 彩先輩、赤い傘に今日もスーツで、すごく大人だあ。

 レースクイーンなんかより、傘が似合ってるなあ。

 直前まで気まずい思いをしていたのに、そんなことはすっかり忘れた直子は彩の後ろ姿に見とれた。


 富士田彩は、150m程歩いたところで、とある信号交差点の少し手前で立ち止まった。

 直子も立ち止まると、彩が「直ちゃん、あれを見て」と、あるところを指さす。

 直子はその指す指の先を凝視したが、何の変哲もない信号交差点だ。

 

「えーっと、交差点、ですけど」


 信号交差点ではあるが、ずーっと信号が変わる気配はなく、車道側がずっと青だ。

 おそらく歩行者が渡る時だけボタンを押すと信号が変わる、歩行者用の信号なのだろう……ううん?


「あ、彩先輩、歩行者用の押しボタンが、すんごく高いところにっ」


 通常の位置にも押しボタンは付いているけど、身長3mくらいの人間が押す高さにも何故か押しボタンがっ!

 何なに、この辺の人たちって、みんな身長高いのおっ!


 プッ、と彩が吹き出す。


「直ちゃん、笠松の人たちだって、身長は私たちと変わらないわ」


「で、でっすよねっ! そうじゃないと、名鉄も笠松だけ大きな特別な電車にしないといけないですもんねっ!」


 そう言いつつも直子はカメラでその高い場所に付いている押しボタンの写真を何枚か撮る。


「直ちゃん、あれが押しボタンが高い位置にある理由よ」


 彩がそう言って、高い位置の押しボタンの更に上を指す。


 直子が見上げると、単なる横断歩道の標識だ。が……


「うっ、馬ぁ!?」


 横断歩道を示す青い標識に、馬に乗った人のシルエットが白抜きで描かれている。 


「馬がここ、通るんですかっ?」


 直子の問いかけに彩はいたずらっぽく笑うと、また無言で指を差す。

 指さしたのは目の前の交差点から続く遊歩道のような道の先。遊歩道は木曽川の内堤防の上に続いている。

 てっきり直子は堤防上を散策するための遊歩道なのかと思っていたが、そうではなかった。

 ヘルメットを被った人の頭が、ぴょいん、ぴょいんと跳ねながらゆっくりと堤防の向こう側を上がって来る。


 唖然としてその堤防を上がって来る人物を見ていると、その人物の少し前に動物の耳らしきものが見えた。

 ずっと注視しつづけているとやがて動物の頭が現れた。

 馬だ。

 馬に乗った人が、堤防に上がって来る。


 だから上の人が跳ねてるみたいに上下に揺れてたのか、と直子は理解した。


 堤防上に全身が現れた、ところどころブチのように白くなっている馬と、馬に乗っている人は、堤防上から遊歩道を通って交差点まで降りて来る。

 交差点まで差し掛かると、馬に乗った人が高い位置に付いている押しボタンを押した。

 一連の動作に目が釘付けになる直子。非日常的な光景の中で、馬がとびきり目を惹く。

 

 なんだろう、あの馬、凄くユーモラスで愛らしい感じ。

 そうか、顔っていうか顎のあたりが張ってて、顔がちょっと大きくてふくよかな感じなんだ。

 人間で言ったらエラ張り顔だね。


 ついそんなことを考えていた直子だったが、ハッと気づいてカメラを構え写真を撮ろうとした。


「直ちゃん、ダメっ! 馬はとても臆病な動物だから、カメラのフラッシュに驚いてしまうわ」

 

 彩に制止されたため、カメラを構えることは止めた直子だったが、馬に乗った人が交差点脇で信号が変わるのを待つという、非日常な光景には見とれ続けてしまう。


 まだ朝の出勤時間には少し早いらしく、県道の車の交通量はそれほどでもないが、人馬は信号が変わるまでゆっくりと待ち、信号が変わるとアスファルトの上をカッポカッポと足音を響かせて県道を渡り、そのまま真っ直ぐ建物の陰の道に進んでいく。


「お姉ちゃんたち、この馬だったらカメラのフラッシュに動じないから、写真撮ったって良かったのに」


 馬に乗っている人が直子たちに向かって笑いながらそう声をかけたが、立ち止まらせたりはせずそのまま進んで行く。


 馬の頭が建物の陰に隠れると、彩が「今なら写真撮ってもいいわよ」と言ったため、急いでカメラで写真を撮った。

 おそらく建物の陰から出た馬の後ろ半身は写っているはず。


 直子は写真を撮り終わると「彩先輩、見せたかったものってこれですか?」と彩に訊ねた。

 

「そうよ、これは笠松だけの風景。名古屋にも、中央競馬の競馬場にもない、笠松だけ。これを見てもらわないと、笠松競馬のことを知ったとは言えないと思ってね。

 ここから1,2km離れた円城寺っていう地区にある厩舎から、朝は調教のためにみんな笠松競馬場まで来るの。馬専用の馬道っていうのがずーっと厩舎まで続いているのよ。そこの遊歩道みたいに見える道も専用馬道なの。

 今日みたいに笠松競馬の開催日だと、レースに出走する馬もレースの前には厩舎からここまで歩いてくる。

 けど、レース前のナーバスな馬に、見知らぬ人間が興味本位で近づくのは良くないからね。

 だから、早朝に見に来ることにしたんだよね」


「す、すいませんでしたあっ!」


 直子は心から彩に謝った。

 限られた時間しか見れないものを見せてもらうための早い時間の待ち合わせだったのに、睡眠の快楽に負けてしまった自分が本当に恥ずかしかった。


「いいのよ、とは言えないわね。ダメよ直ちゃん、もしあなたが今後バイトじゃなくどこかの編集部に就職したとしたら、取材アポに遅刻するなんて、二度と相手方に取材させてもらえなくなるから。しっかり反省して」


「はい……心に刻みつけます」


「とはいえ、何度電話しても全く気付かずに眠れるなんて、呆れを通り越して面白すぎたわ。玄関のチャイム押しても起きなかったらどうしようかと思ったけど、起きてくれて良かったわ。直ちゃん、喫茶店のモーニング、奢りなさいよ」


 笑顔でそう言う彩に、直子は「は、はいっ! 喜んで!」とすぐに返答した。

 じゃあ車に戻りましょうか、と言って早朝場外馬券売り場の駐車場に戻り始める彩。

 直子の方を向いて優しく一言言った。


「直ちゃん、本当に運が良かったよ。あの馬がアグリキャップ。こないだ中央で勝った馬。見れたのは直ちゃんのお寝坊のおかげ、かもね」


 あの馬がニュースでやってた馬なんだ!

 何だか、すごくユーモラスで可愛らしい馬だったなあ。


 直子のアグリキャップへの最初の感想はそれだった。

 




 笠松競馬場はまだ開場していない時間だったため、その後二人は一旦岐阜市内へ移動し、喫茶店でモーニングを直子の奢りでのんびり食し時間を潰した後、笠松競馬場と合わせて紹介するため、金華山や長良川の鵜飼いの観覧船乗り場などを取材した。


「ねえねえ、彩先輩、ご実家は岐阜なんでしょう? 立ち寄ったりしないんですか?」


 直子は彩にそう訊ねた。

 彩は大学近くの名古屋市星が丘のマンションで一人暮らしをしているが、岐阜に実家があると以前聞いていたからだ。


「……今日はやめとくわ。一応バイトの取材で来てるんだしね。直ちゃん、そろそろ笠松競馬場に戻って中を見に行きましょうか」


 彩はさりげなくそう言って断った。


 ちぇー、せっかく素敵な彩先輩のご実家を見るチャンスだったのにぃ。

 きっと優雅な彩先輩を育んだ、清楚でエレガントな感じなんだろうなー。


「勝手に人の実家に変な幻想押し付けないでね。行くわよ」






 二人が笠松競馬場に戻ったのは午後2時近くだった。

 岐阜市内から笠松までは車で15分程度の距離で近い。

 10月5日。メインレース東海クラウンにアグリキャップが出走することもあってか、笠松競馬場の来場者は平日水曜日にしては盛況だった。


「えー、彩先輩、いつも競馬場ってこんなに混んでるんですかぁ?」


「いつもはこんなに混まないわ。今日の最終レースに朝見かけたアグリキャプが出るから、それを見に来た人たちが多いんじゃないかな。ちょっとでも賑わってる時の方が写真撮るにしてもいいでしょ。だからわざわざ今日にしたの」


「へー、そうなんですかぁ。今朝見た感じだと、何か可愛らしいって感じの馬でしたけどやっぱり人気あるんですねぇ」


「アグリキャップが可愛い? って直ちゃんらしいかな。私のお爺様の馬も何度か当たったけど、一度も勝ててない、それくらい強い馬よ……って、あら、お爺様の所有馬の一頭、次のレースに出るみたいだわ。

 彩ちゃん、私ちょっと見て来てもいい?」


「私も行きますよう」


 そう言って直子もスタンドまで彩の後を付いて行く。

 雨は今は止んでいるが、時々思い出したように細かい霧のような雨が舞って来る。


「彩先輩のおじいさんの馬って、どの馬なんですか」


「2番のトミトシヒューマって馬。あら、1番人気みたいね」


 直子は目を凝らしたが、出走ゲートに既に入っているためよくわからない。

 と思う間もなくゲートが開きスタートする。


 2番のトミトシヒューマは出足よく先頭に立つと、そのまま先頭でレースを引っ張っていく。

 ダートの1400mのレースのため、道中は後続の順位の入れ替わりはあるものの、トミトシヒューマが先頭のまま最後の直線に入る。


 ああ、勝てる、勝てるんじゃない、先輩のお爺さんの馬……

 後ろとは2馬身近いリード。

 あともうちょっと。

 すると、3番手にいた馬がじわりじわりと差を詰めて来て、あっと思う間にトミトシヒューマに並びかけると、そのままじわりじわりと差を広げていき、1馬身程離してゴールした。

 トミトシヒューマは2着だった。


「先輩、惜しかったですね」


「うん、でもよく頑張ってくれたと思うわ」


 2人がそう話していると、胸に双眼鏡を掛け、ハンチング帽を被った初老の男性が彩に声をかける。


「富士田オーナーのお孫さんの彩さんやないですか。競馬場でお会いするのは久々ですね。今日はヒューマのレースをわざわざ見に来られたんですか」


飯星いいぼし調教師せんせい。ご無沙汰しております。ちょっと他の用事で大学の後輩と一緒にこちらに来ましたら、たまたまお爺様の馬が走るのを知りまして」


「そうですか。たまには富士田オーナーと一緒に厩舎にも顔を出して下さい。オーナーもこの頃彩さんと話してないって寂しがってましたから」


「ええ、また都合が付きましたら伺うようにいたします」


「またお待ちしています。では失礼」


 そう言うと飯星調教師はスタンドから去っていく。


 ――都合なんて、付ける訳ないでしょ。


「え、彩先輩、何か言いました?」


 彩の小さな呟きを聞き取れなかった直子はそう聞き返す。


「え? いや何も言ってないよ。ところで直ちゃん、一応メインのアグリキャップのレースは見るとして、それまで時間あるからさ、売店とか場内の立ち寄りスポットとか、それまでに取材しちゃおう。さ、行こ」


 彩はそう言うとスタンドを後にする。

 直子もその後を追う。


 追いながら直子は、彩がさっき何かつぶやいた時の表情が憂いを含んでいたことが気になっていた。








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