第26話 夜の厩舎内
今この瞬間、アグリキャップの競走馬としての未来は、森茂雄が握っている。
東海地区の4歳戦で連戦連勝、中央競馬のGⅢすらも勝ってしまった強い競走馬。
自粛ムードで大っぴらには騒がれていないが、少しづつその強さと名前が東海地区の一般の人間にまで知られつつある馬。
そんな馬を、薬物疑惑の渦中に叩き込むかどうかは、この俺の行動一つにかかっている。
どうするんだよ、アグリキャップ? どうしようもないだろう。
どんなにオマエが競走馬として凄かろうと、オマエの競走馬としての運命は俺が握っているんだ。
このオヤツに口を着ければ、3年前の中央のあの馬のようにレッテルを張られ、レースに復帰することはもう出来なくなってしまうんだ。
左手方向に馬房が並んでいる。
中の馬たちは眠っているのか静かだ。
懐中電灯で直接照らすと、馬を起こしてしまう。
茂雄は茶色い紙袋から一塊になったツル草の束を取り出し、懐中電灯の発光面に空になった紙袋を被せる。
茶色く薄い紙袋を通して光量の落ちた懐中電灯の僅かな光を頼りに、茂雄は馬房のプレートを確認していく。
アグリキャップ号。
そう書かれたプレートが掛った馬房を見つけた茂雄は、仄暗い喜びを感じつつ、右手に持ったツル草の束を馬房に下手投げでそっと投げ入れようと手を後ろに引いた。
ガッ
後に引いた茂雄の手首を、後ろから誰かが掴んだ。
「!?」
何が起こったのかわからず咄嗟に後ろを振り向くと、間近につばを後ろ向きにしてキャップを被った男のシルエットが一瞬目に入る。
「う」わああぁぁ、と悲鳴を挙げる前に、シルエットが動いた。
茂雄の右手を掴んでいるのとは反対側の男の手が光って動いた気がした瞬間、左の肩から胸の真ん中まで鋭利なものでズバッと切断された感覚が茂雄を襲った。
同時に茂雄は声も無く意識を失った。
暗い。
俺は……ああ、そうだ、アグリキャップの馬房にツル草を投げ入れようとしたら、後ろに居た誰かに止められて、斬られた!
慌てて閉じていた目を開けて、斬られた感覚のあった左肩から胸にかけて触ってみる。
横合いから差す淡い光を頼りに触った手を確認するが、軍手に血が着いているようには見えない。
下を向き、斬られた感覚が走った左胸から腹の辺りを見ても傷も何も無く、着ている雨合羽にも破れ一つない。
あれは幻覚だったのかと思い、今いる周囲の様子を確認しようと茂雄は辺りを見回す。
目の前に自分の両足が投げ出され、上半身は何かにもたれかかっている。
見た感じ、路地のようなところだ。横合いから差す淡い光は離れた街灯の光。
よく見ると最初に忍び込んだ円城寺厩舎の塀の外側のようだった。
茂雄は塀にもたれるように座り込んだ姿勢で意識を失っていたことになる。
背負っていたナップザックは茂雄のすぐ脇に置かれていた。
中を確認すると、入れっぱなしになっていたものはそのままで、茂雄が手に持っていた懐中電灯と空の茶色の紙袋も中に入っていたが、紙袋の中身のツル草の塊だけは見当たらなかった。
塀に手を突きながら立ち上がり、忍び込んだ電柱のところまで行くと、有刺鉄線の支持柱にくくりつけていたトラロープが外されて電柱の脇に落ちている。
見上げると有刺鉄線も切れてはいるようだが、一見すると張っているかのように見える位置に戻されていた。
一体何が起こったのかはわからない。
時計を見ると0時30分の少し前で、正確ではないが30分程度気絶していたことになる。
茂雄はこの後の行動を考えた。
アグリキャップの厩舎に、もう一度忍び込む時間はまだある。
だが、肝心の「競走馬にとっての違法薬物をまぶしたツル草の束」は見当たらない。
もしかしたら厩舎内に落としており、戻れば見つけられるかも知れない。
だが、森茂雄はもう一度厩舎に侵入しようとは思わなかった。
その部分だけ
誰に何をされたのか、自分が何で厩舎を囲う塀の外で目を覚ましたのかはわからないが、もう一度侵入するつもりがないなら、ここに長居はしないほうがいい。
茂雄はトラロープを拾いナップザックに入れ背負うと、足音を立てないように出来る限り急いでその場を離れた。
木曽川の堤防まで出ると、茂雄はなりふり構わず走ってアルトワークスを停めてある駐車場まで急ぎ戻る。
走っている最中、茂雄は自分でも不思議なことに、ワクさんに脅されて違法集団の犯罪行為に加担させられたことによる絶望感や怒り、アグリキャップに薬物入りのツル草を与えようとした時に感じた仄暗い高揚感など、その感情を覚えたことを記憶してはいるものの、それがどこか遠い記憶のようになってしまっており、今現在に起こっていることだという実感を感じていない。
これからアルトワークスに戻ってまたワクさんに失敗報告をしないといけないということも、普通なら忌避したいと思うはずなのに、遠い出来事のように感じており現実感が湧いてこない。
駐車場に止まっているアルトワークスが見えて来て、その横に誰か人影が立っているのがぼんやり見えても、不思議と警戒心は湧かず、茂雄はそのままアルトワークスのところまで走っていく。
茂雄はハアハアと息を整える。
アルトワークスの横に立っている人影は、周囲の光の量が足りないのと、細かい霧雨のせいで良く見えないが、つばを後ろに回して帽子を被っているようだった。
「鍵は付いてる」
その人影は言った。
声の感じ、茂雄と同年代くらいか。
「あの多量のカフェイン入りオヤツは、処分させてもらった。早く帰った方がいい」
厩舎内で俺を気絶させた奴なのか。
森茂雄は正体不明な人物に対する恐怖や、気絶させられた怒りなどの自身の感情の動きがないことは不思議に思いつつも、アルトワークスに乗って自分を待っていた男がどうなったのかを訊ねる。
「ワクさんは……」
「助手席で気を失ってる。森茂雄くん、あんたにやったのと同じことをした。『斬った』。邪心、欲望、過度な恐怖心、みたいな部分だけ。わかるだろう」
森茂雄の理性はその人物の言葉が荒唐無稽だ、と冷静に判断した。
だが一方で、森茂雄の感情は、その人物の言っていることが正しい、と本能的に感じていた。
言語化するなら、今夜の出来事で自分の感情が揺れ動いた部分だけ、何故か遠い過去の出来事で付随する感情が風化しているような、或いは自分が体感したことのない本の知識で知った出来事のように自分の感情が付随していないような感じ方になっている。
それは、その人物が言ったとおりのことが自分に起こっているからだ、としないと本能的に納得がいかないのだ。
「『斬った』って言っても、完全に切り離してしまっている訳じゃない。時が経つと徐々にまた融合する。心配するな。
でも、今の状態は、森茂雄くんが人生を新しくやり直してみたいって思うのなら、過去の邪心や欲望に囚われずに新しく自分をやり直せるチャンスでもある」
「やり直せる……?」
「『斬った』対象の情報は限定的だがわかる。森茂雄という名前もそれでわかった。
……森茂雄くんがアグリキャップに感じた感情は、嫉妬、羨望、言葉にするとそういうものだろう。今なら自分でも認められるんじゃないか」
その人物の言葉は当たっていた。連戦連勝を続け、東海ダービーでは殆ど全ての馬と騎手に妨害されながらも勝ち切るアグリキャップの強さを見て、森茂雄は自分にない強さを競走馬のアグリキャップですら持っていると感じて、許せなかったのだ。
「今なら冷静に、自分の内面を見つめ直せるってことですか……」
「そういうこと。自分に何が出来て何が出来ないのか、じっくり考えてくれよ。
そして、それは助手席で気絶している
その人物は、更に言葉を続ける。
「涌井忠は、まあ言ってしまうと発達障害、この時代の言葉で言うと知〇〇れだ。養護学級に入るか入らないかのボーダーライン上くらいのね。
養護学級に入るのは嫌だったようで必死で周囲についていこうとしていたみたいだが、周囲にはイジメられてて、性格は歪んでしまった部分も確かにある。
金銭を介してでないと、他者と対等以上の関係が築けないという思い込みが確かに強い。
でも、金銭抜きでも対等に付き合ってくれる存在がいるってことは、涌井忠にとっては新鮮な経験で、考え方にも好影響はあったようだ。
ありていに言えば、森茂雄くんは涌井忠にとって唯一の心許せる人間だったみたいだね。
森茂雄くんに、ここまで来る理由をなかなか話さなかったのも、涌井忠なりに森くんに迷惑をかけまいとした配慮ではあったみたいだ。
それを責められたことで、好意を裏切られたと感じて陰湿な怒りを持ったみたいだけれど。
でも、純粋な部分も当然あったんだよ。
だから、今の状態なら、やり直せる。憎悪も切り離されているからね。
ただ、涌井忠は、あまり自分の感情を言語化するのが得意じゃないみたいだから、誰かが側で伝え導いてやるといいんじゃないかって、俺は思うけどね」
そう言うと、その人物は駐車場の奥、真っ暗になっている方向へ歩き出した。
だが、数歩進んだところで一旦足を止めて、言った。
「競走馬の違法薬物の検査結果が出るのは数日経ってからになる。一度検査する施設に検体を送らなきゃならないからね。だから失敗したってバレるのは数日後だ。涌井忠が起きたら、闇金の一味には手筈通り上手く行ったって報告するように伝えておいてくれ」
そう言い終わるとまた歩みを進めていく。
その背に森茂雄は問いかける。
「バレる前に、数日以内に逃げろ、ってことですか?」
男は歩みを止めず、もう姿は闇に溶け込んでいたが、声だけは返って来た。
――涌井忠の『斬った』邪心から、一味の情報はわかった。
別に逃げなくても、君にも涌井忠にも、もう奴らは何も言ってこないようにしておくよ。
そっちの心配は、もうしなくても大丈夫だ――
その声を最後に気配は消えた。
残された森茂雄はとりあえずアルトワークスの運転席に乗り込み、エンジンを掛け、助手席のワクさんを見た。
倒した助手席のシートで、ワクさんは大口を開け、微かなイビキをかいて眠っている。
呑気なもんだ、ふざけやがって! と1時間前の自分なら苦々しく思い、報復することを考えただろう。
だが、男が言う「邪心、欲心」が切り離された今の自分は、そうは感じていない。
一緒にバイトをしていた頃や、競馬に興じたワクさんは、案外と真面目で純粋なところもあった。
ワクさんも今の自分と同じような己の邪心や悪意と切り離された感じ方になっていて、もしも周囲の環境を変えられるのであれば、案外しっかり人生をやり直せるのかも知れない。
――ハハ、シゲちゃん、さっきは簡単に人は変らんって
名古屋競馬場でワクさん自身も言ってたじゃないか、あの時は悪い意味だったけど、逆に今なら良い方向に変われる可能性だってあるんだ、今なら。
どっか、人の悪意が少ない自然の中で、ワクさんと一緒に俺もやり直してみるか。
とりあえず明日の、いやもう日付が替わったから今日のバイトが終わった後、ワクさんにそう持ち掛けて見よう。
森茂雄はそう思いながら、アルトワークスを発進させ、堤防道路を南に下って名古屋方面に帰って行った。
「富貴にして故郷に帰らざるは、錦を衣て夜行くが如し」 1988年10月5日(水) 笠松競馬場 東海クラウンA1A2 了
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