第25話 侵入




 時は戻り10月4日夜。

 

 ワイパーの速度を最も遅くしても、拭き過ぎてキキィとワイパーがきしんだ音を立てる。

 だが切ると、細かい雨粒が噴霧されたようにフロントガラスに付着し、視界をにじませる。

 鬱陶うっとおしいことこの上ない天気の中、ワクさんの聞きたくもないダラダラとした話を聞かされながら、森茂雄は虚無の状態で笠松を目指し車を走らせている。


 国道155号線が稲沢市荻原の交差点で右折するのを直進し県道に入る。

 そのまま北上し、尾濃大橋で木曽川を渡り岐阜県に入ると、木曽川添いの県道184号線を北上した。


「シゲちゃん、このまま堤防走ってって、名鉄鉄橋の脇の河川敷駐車場に車停めてや」  


 茂雄は言われるがままにアルトワークスを走らせ、5分程度でワクさんの指示通りの場所に到着した。


「さって、じゃあシゲちゃん、行ってきてや」


 茂雄が駐車場に車を停めると、ワクさんが尊大な態度でさも当然のように言い放つ。


「何で俺が……自分でやるようなこと言ってたじゃないか」


「いやー、ワシも年やし。もうあちこちガタが来とって、ちょっと激しく動くの無理やから。結局アグリキャップに夜中のやりに行くだけの簡単な仕事なんや、アタマ良くて若いシゲちゃんがやった方が時間もかからず早い事済むやろ?」


 そう嫌味ったらしく言うと、ワクさんはナップザックの中から茂雄に謝礼として払うつもりだった茶封筒だけ取り出して懐にしまうと、ナップザックを茂雄に放ってよこした。


「そん中に雨合羽や懐中電灯なんかの必要なもん入っとる。小糠雨こぬかあめとはいえ濡れると風邪ひくやろ? ここで着て行きや」


 茂雄がためらい、ナップザックを手にしたまま動かずにいると、ワクさんは助手席のドアを開けて降り、セカセカと運転席側に回り込むとドアを開けて茂雄が手に持つナップザックからゴワゴワの雨合羽を取り出し茂雄に押し付けた。


「早よしてや、シゲちゃん。あんま時間かけとると、早よう出て来る厩舎職員が来て見つかってまうかもわからん」


 そう言うとワクさんはらしからぬ素早さでアルトワークスのエンジンを切り、鍵を抜き取った。


「ワシ、免許は取れなんだけど、動かし方くらいは知っとる。オートマやろ、楽勝や。まあ最悪、運転せんでも鍵だけ木曽川に放ん投げたってもええんや。ワシャ名鉄で帰りゃええ。困んのはシゲちゃんや。明日からバイト、行けんくなるやろ。

 早よ行って早よ戻って来たら返したるわ」


 ワクさんはそう言うと鍵をジャージのポケットに突っ込む。


 茂雄は仕方なくノロノロと雨合羽を羽織った。


「ほな、シゲちゃんとりあえず、鞍掛神社まで行ってくれや。そこに尻込みしよった厩舎関係者…確か中島っちゅう男が待っとる手筈んなっとる。そいつに聞いて厩舎地区ん中、入るんやで」


「え、ここから歩いてくの……」


「近くまで車で行ったら怪しまれるやんか。たかだか1、2kmの距離や。若いシゲちゃんやったら問題ないわ。もう11時半なるで、早よ行った方がええんちゃうか」


 この期に及んで、断る術はなかった。

 いや、手段を選ばなければあるにはある。

 例えば、目の前で勝ち誇っているワクさんを殴り倒し鍵を取返した後、そのままアパートに戻らず実家なりへ行方をくらませる。

 ただ、その場合はワクさんが筋者に茂雄のことを喋ったら、実家もおそらく突き止められてしまう。

 結局無駄だ。

 ワクさんの口封じをしない限り意味がない。

 口封じ……ワクさんを殺すしかない。

 だが、殺人なんてそこまで極端な行動を自分は取ることができない、結局俺は小心者なんだ、と茂雄は自嘲気味に諦める。


 森茂雄は車を降りて、ナップザックを背負い駐車場から堤防道路へ上がる道をトボトボと歩き出した。


 後方ではバタンと車のドアが閉まる音がし、キュルキュルキュル……と無駄に長い時間セルモーターが回され、エンジンがかかった。ワクさんは車内で待つつもりらしい。


 茂雄は堤防上に出ると、笠松競馬場前を通り過ぎ、鞍掛神社へ急いだ。

 風が強く、小糠こぬか雨が雨合羽のフードに吹き込んでくる。


 森茂雄は歩きながら自分の浅はかさを後悔し続ける。

 パチンコ屋でワクさんと怪しい男を見かけた後、すぐに逃げていれば……

 道中でワクさんののらりくらりな話で癇癪を起さなければ……

 そもそも、ずっとこんなフラフラしていないで、きちんと定職に就いていれば……


 そんな、どうしようもない後悔をしているうちに、10分程で鞍掛神社に着いた。


 街灯で照らされる狭い参道には誰の姿も見えない。

 少しホッとする。

 参道を社の方へ向かって歩を進めると、不意に後ろから押し殺した声で問われる。


「涌井って奴か?」


 茂雄は振り向いた。

 2m程後ろに作業着らしきものを着た中肉中背の男が立っているが、街灯の明かりからは逆光になるため顔は見えない。


「ワクさん……涌井さんの代理です」


 茂雄はなるべく平静に小声で返事をしたつもりだったが、緊張のためか擦れた声が出て、僅かな長さの言葉もやっとの思いで吐き出す。


「……やりに来たんだな?」


「……そうです」


「一回しかを言わないから良く聞いとけ。

 県道に出て右側の信号折れて真っ直ぐ進んだら、円城寺厩舎の塀にぶつかる。右に2番目の路地の2番目の電柱際の塀の上の有刺鉄線は外れてる。そこから厩舎敷地内に入れそうで不用心だ。入ったらすぐ前が25号厩舎だ。こないだの中央重賞勝った馬がいるらしい。その厩舎の窓ガラスは。そこから鍵外して中に入られたら困るよな。警備員がいて防犯カメラもある門からしか普通は入れないけどな」


 男はそれだけ言うと踵を返し、足音を極力立てないように足早に鞍掛神社の境内を立ち去った。


 茂雄はしばし茫然としていたが、我に返って今のうちにナップザックの中身を確認しておこうと、安いナップザックの口紐を開ける。

 茶色い紙袋に入った、滑り止め軍手、懐中電灯、カッターナイフ、適当に束ねてある黄色と黒のナイロン製トラロープ。

 

 軍手をはめ、懐中電灯を持ち、残りの物はナップザックに入れたまま背負って、茂雄はさっきの男が言っていたとおりの道を辿り出した。


 円城寺厩舎の周りはぐるりと高さ3mはある塀に囲まれており、塀の上には忍び返し効果を期待して外側に斜めに飛び出るように3重の有刺鉄線が張られている。


 もし捕まったら、俺もこれよりもっと高い塀の中へ送られるんだろうか。

 そんなことを考えながら、塀に沿って男の言っていた電柱まで移動する。

 見上げると、確かに電柱の後ろの塀の有刺鉄線は、支柱間の1m弱程度3本とも切れて垂れ下がっている。

 茂雄は人や車が通り掛からないか周囲を見回し、誰も来ていないことを確認すると電柱を登る。

 塀の上に手が届く高さまで登ったら塀に乗り移り、有刺鉄線の支柱にトラロープをかけ、逃げる際に塀を昇る手段を確保する。そして塀の反対側へ。

 塀の一番上に手を掛けぶら下がるようにして、物音を立てないように地面に降りる。

 懐中電灯を点け、厩舎の建物を直接照らさないようにしつつ、窓ガラスの割れているところを探す。

 25号厩舎の塀とは反対側に出ると、普段軽トラックなどが通る通路になっている。

 その通路沿いの窓が、確かに割れていた。

 茂雄は割れた部分から手を入れ、鍵を外して窓をそーっと開け、窓から中に入った。

 中に入ると窓ガラスの破片は殆ど窓際に落ちており、偶然の飛石で割れたようには見えなかったが、離れた床にわざとらしく直径3cm程の石が不自然に転がっている。

 鞍掛神社に来た男が細工したのだろう。


 茂雄は、ナップザックからの入っている茶色い紙袋を取り出した。

 この時茂雄は、違法な集団の競馬賭博の陰謀に無理やり加担させられているという怖れや焦燥よりも、自分がアグリキャップの運命を左右する決定権を握っているという事実に高揚感を感じつつあった。


 あの、東海公営どころか中央で勝てる実力を持った強い競走馬が、今自分が手に持っているを馬房に入れるか入れないかで、その後の運命が変わるのだ。


 どうするんだよ、アグリキャップ? どうしようもないだろう。

 どんなにオマエが競走馬として凄かろうと、オマエの競走馬としての運命は俺が握っているんだ。

 このに口を着ければ、3年前の中央のあの馬のようにレッテルを張られ、レースに復帰することはもう出来なくなってしまうんだ。


 





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