第24話 東海クラウンA1A2 ダート1800m




 10月5日の笠松競馬場は、朝から小雨がパラつく雨模様だった。


 早朝2時に出勤したスタッフから厩舎の窓ガラスが割れていると報告があり、調教師の久須美くすみ征勇まさおは管理馬1頭1頭の様子を見て回ったが、特に体調を崩している馬は居なかった。

 レース当日で最も気になっていたアグリキャップも、久須美が慌てて様子を見に行ってもいつも通りに飼葉桶を鳴らしエサの催促をする。馬体にも異常は無く、体温も平熱で変わりはない。


 今朝のほぼ曳き運動のような軽めの調教を見ても、アグリキャップの様子に変わった様子は見られなかった。

 窓ガラスが割れていたのは、おそらく車かバイクが小石でも飛ばしたためだろう、と久須美調教師は自分を納得させ、調教終了後にガラス業者に新しいガラスを入れてもらうように手配した。


 東海クラウンのレース前、久須美調教師は雨合羽を纏い、笠松競馬場の装鞍所で円城寺の厩舎からおよそ1.5kmを厩務員の川洲に曳かれ歩いてきたアグリキャップの様子を見る。

霧のように細かい雨を受け、アグリキャップの馬体は艶やかに光っている。

 やはり体調を崩している様子はない。

 アグリキャップは馬体重を量るための計量待ちをしているが、引き手綱を握る川洲を困らせることも無く落ち着いている。

 ようやく前の馬の計量が終わり、アグリキャップは川洲に曳かれ所定の計量場所に乗る。


 馬体重は496㎏で、前走+5㎏。

 レース間隔が空き過ぎると、厩舎ではのんびり過ごし調教駆けも然程さほどではないアグリキャップのレース勘と闘争心が鈍ってしまう。

 ここで一叩きして、あとは11月3日に向けて仕上げていく。


 斤量だけが他の馬に比べ飛び抜けて重い57.5㎏を背負うことになったため、最悪負けもあり得るが、目的は本番の競走をあまり間を開けず経験させておくことなのでかまわない。

 ただ、あまりにひどく惨敗した場合はローテーションの見直しを検討しないといけなくなるだろう。

 とはいっても他の馬との力関係で見るに、おそらく今日も勝てる。


 久須見調教師の頭の中で、夜の柳ケ瀬のネオンサインの光が瞬く。

 久須美調教師は今日のアグリキャップの出来に満足した。




 久須見調教師は、関係者移動用マイクロバスの待機場所で騎手の安東克己と打ち合わせ後、馬主の阿栗孝市の居るスタンド席へ移動した。

 馬主席のある3階へ向かうエレベーター前で阿栗と落ち合った久須美は、意外な人物が阿栗と一緒にいるのを見て軽く驚いた。


「なんや布津野くんやないの、どないしたん?」


 美山育成牧場でアグリキャップの世話をしていた布津野ふつの顕元けんげんであった。

 布津野の出で立ちは、美山育成牧場で働いていた時と変わらず、キャップのつばを後ろに回し、ジーンズにTシャツ、今日はモスグリーンのSA1のジャンパーを羽織っており、実にラフな格好だ。


「久須見調教師せんせい、ご無沙汰してます」


 布津野顕元は後ろに回したキャップを取って脱帽すると久須見にそう言ってお辞儀をする。

 布津野の艶のある毛量の多い頭髪は、最近薄くなってきている久須見にとっては垂涎ものであった。


「布津野くん、美山の仕事終えてまた稲穂牧場に戻るんやけど、今日キャップのレースあるから見て帰ろうと思って立ち寄ってくれたらしいわ」


「ほうか、またええ仔馬出してくれや。期待してるで」


 久須見がそう言うと、布津野は社長富士夫専務裕司に伝えておきます、と返答した。 

 

「しかし久須美さん、せっかくキャップの凱旋レースやのに、この天気はツイてないわなあ」


「スカッと晴れてくれたら、もう少しお客さん入ってくれたかも知れませんな。でも、天気や自粛ムードの割にはお客さん、来てくれた方です。有難いことですわ」


 本日の笠松競馬場は、いつもの閑散とした様子ではなく結構人が入っている。

 久須見の目分量だと1000人強くらいは来場しているのではないかと思えた。

 仕事を抜け出してきたサラリーマン風の客が多いが、滅多に見かけない女性客の姿もそこそこ見受けられた。


「さっき、馬券売り場へ行ってきましたけど、雨と人で、けっこう蒸してましたよ。キャップ、やっぱり人気ですね」

 

 布津野は応援馬券を買いに行っていたようだ。笠松の場内の天井の低さは、人が多ければさぞ熱気が籠るだろう。


「キャップ、調子はどうなん? 久須美さん」


 阿栗は久須美にそう訊ねる。


「まあ、悪くはないっちゅうか、普段と変わりませんな。大一番は来月ですから少し太目残りの仕上げにしとります」


「ほうか。まあ斤量がちょっとアレやけど」


「まあ、思ったよりは背負わされましたな。ただ、フェートローガン倒すってこと考えると、これくらいのハンデで負ける訳には行きません」


 フェートローガンは、春以降は常に他の馬以上の斤量を背負って走り、それでも勝っている。

 フェートローガンの前走、9月18日のオータムカップでは他の馬の最重負担斤量が55㎏なのに対し58.5㎏を背負っていた。


「おそらく東海菊花賞でもキャップの負担斤量は年齢差でフェートローガンより1㎏軽い程度で、他馬に比べると重い斤量背負わされると思います。ある意味予行演習ですわ」


「わかったわ、久須美さん。でもキャップの脚元、レース後良くケアしといてな」


「ええ、その点は毎回気ぃつけてます。川洲は細かいとこまで目ぇ届く奴ですから、ちょっとした異変も見逃さんとケアしてくれてますよ」


 あの、レース後、厩舎にアグリキャップに会いに行っても構いませんか、と布津野が久須美に申し出る。


「レース後なあ、まあ構わんけど、けっこう戻るの遅くなるで。後検量もあるし、あと馬体検査もや。6時過ぎんなるけど、ええの?」


 それでいい、と布津野は言う。


「それやったら、終わった後布津野くんも一緒に1杯どうや? 行きつけの小料理屋やけど」


 阿栗が布津野を誘うが、布津野はその後は少々用事がありまして、と断った。


「残念やなあ。きみと呑む機会、滅多にないから。いつかまた誘った時は是非都合つけとくれな」


 阿栗の言葉に布津野は、ええ、その時は是非、と笑顔で返した。






 阿栗はスタンド3階の特別席で、布津野と共に観戦した。

 久須美はいつものことながら、レース後にすぐにアグリキャップの元へ向かうため待機所近くのスタンドから見ると言って一緒には来なかった。

 東海クラウンは本日の最終レース。

 阿栗達のいる特別席からは、下の一般席の様子も見える。

 生憎の天気で、いまだに霧のような小雨がパラつく中だが、中央の重賞を制した笠松の英雄を近くで見ようという熱心なファンがスタンドを埋めている。

 内馬場にあるパドックでは、東海クラウンに出走する9頭の競走馬が厩務員に曳かれて周回している。

 スタンドの観客の注目は、川洲に曳かれゆったり歩くアグリキャップに集まっている。


「これだけの人が応援してくれる馬を持てて、ホンマに感無量や。馬主冥利に尽きるってもんやな」 


 阿栗は思わずそう言葉を漏らした。

 笠松を盛り上げるために馬主になったのだ。

 いつになく大勢の人が入った笠松競馬場を見れて、阿栗は一つ目的を果たせたように感じた。


「阿栗オーナーが馬主だからこそですよ。他の方が馬主だったら、今日のこの光景は無かったんです。

 それにしても、アグリキャップを見に来た人ばかりなのか、単勝オッズが凄いことになってますね」 


 特別席の中に設置された小型電光掲示板に流れる文字がオッズを表示する。

 本日のアグリキャップの枠順4番の単勝オッズは1.1倍となっており、2番人気以下を大きく引き離している。


「オールカマーの次の日、TVの夕方ニュースでもキャップの勝利、流してくれたから皆さんの目に留まってくれたんやな。まああんなことがあって大っぴらに騒ぐっちゅう雰囲気でも無くなってまったけど」


 布津野も一般席の観客を見ながら言う。


「でも、陛下のお気持ちを推測するようで不遜ですけど、もし今の世間の様子を陛下が知ったとしたら、何て言われますかね。朕の具合が悪いのに賭け事なんぞにうつつを抜かすのは怪しからん、とは言われないんじゃないかと思いますけど」


「まあ、そうやろな。陛下はそんな御方やないやろ。終戦の次の年、行幸で岐阜にもお越しになった時、ホンマ豆粒みたいにしか見えん遠くからお姿拝見したけど、ずっと周囲の我々庶民に手を振り続けておられ、何というかえらい気さくな方でなあ」


 阿栗は、その当時のことを懐かしむように、目を細めて笑顔で話す。

 1929年生まれの阿栗は、戦時中の教育を受けていた世代だ。それまで現人神あらひとがみと言われていた天皇の声を終戦の玉音放送で聴いた時、阿栗は16歳だった。勤労奉仕先の工場で同僚と聞いた時は天皇の肉声や、と思う前に敗戦したという事実の衝撃の方が上回っていた。

 だが、次の年、全国行幸の一環で岐阜にお越しになった時に見た陛下のお姿は、紛れもなく一人の人間だった。ずっと一挙手一投足を周囲に注視されても感情を表に出さず、ただ柔和な笑みを浮かべて周囲を気遣う姿。あれを日々ずっと続けられるのは、同じ人間として並み大抵のことではない。

 あの方は自分の命を左右する容体に陥ったとしても、それを気に病むことを周囲に強いるような方ではないと阿栗は感じていた。


「我々民草に何か強いたりすることは陛下の本意やない。強いとるのはマスコミやら何やら、一部のもんや。御世みよが長かったで、こういう事態の時、我々はどう振る舞ったらええんか、誰もわからん。だから過剰になってまうんやろな」


 阿栗がそう話すうちに、騎手がパドックで騎乗する。

 今日の安東は4枠の色、赤の勝負服と帽子を着用し、アグリキャップに騎乗した。


「おお、昔話なんてしとる場合やないな。今日も安東くん、しっかりやってくれそうや」 


 安東克己を乗せたアグリキャップはパドックを1周すると、スタート地点の2コーナー奥までキャンターで移動していく。

 57.5㎏の斤量を感じさせない動きであった。

 

 安東さんが鞍上っていうこともキャップが人気の理由なんでしょうね、と布津野が言う。


「そらそうや。笠松一の名手なんやから。できたら中央移っても乗り続けてもらいたいもんやけど」


 阿栗はそんな、叶うはずのないことをつい口にしてしまう。

 中央競馬会JRAは、地方で騎手経験があろうとも、中央で騎手として騎乗するためには白井の競馬学校を卒業し中央の騎手になることを義務付けている。

 例え安東がその道を選んでまで中央の騎手に転身したとしても、アグリキャップに騎乗できるのは早くて3年後のこと。

 どう考えても現実的ではない。


 遅かれ早かれ、キャップと安東さんのコンビは分かれてしまうんですね。だったら、こうして騎乗している姿を、良く目に焼き付けておかないと。


「……そうやな、その通りや」


 布津野の言葉を阿栗は噛みしめた。


 ゲートに入る前にいつもの武者震いをするアグリキャップ。

 

 ゲートが開くと、好スタートを切り、2番手集団につける。

 鞍上の安東は、やや上半身を起こした姿勢で手綱を操ってアグリキャップを制御している。

 スタンド席の前、ホームストレートをそのままの隊形で駆け抜けたアグリキャップは、2コーナーを抜けバックストレートに入ると徐々に前に進出していき、3コーナーに入るところでは先頭に立っている。

 そして、赤い帽子と勝負服の安東を乗せてそのままグングンと後続を突き放していく。


 何やろう、人馬一体やな。

 安東くんの手綱にキャップは即応えていて、見ている者に齟齬を全く感じさせない。

 ホンマに、ずっと乗っててくれんかな……


 阿栗の感慨をよそに、レースはそのままアグリキャップが1着でゴールする。

 雨の不良馬場でコースの砂が締まってスピードが出やすかったこともあり、2着に7馬身の大差をつけての楽勝だった。





 夕方、久須見調教師は円城寺厩舎ブロックの警備員詰所前で待っていた布津野顕元を久須美厩舎まで連れて行った。


 布津野は久須美調教師と厩務員の川洲に許可を得て、アグリキャップの脚を触っていた。

 特に球節部と蹄を念入りに撫でまわし確認する。

 立ち会っていた川洲は瞬きをした一瞬、布津野の手が青く光っているように見えた。セラフィーナ=ヒュッティネンの時のように。

 もう一度目をしっかり見開き布津野の手元を見直すが、何も変わったことはない。布津野の手は普通の手であった。


 布津野は確認を終えたのかアグリキャップの首筋を撫でると今日も良く頑張ったね、川洲さんにしっかりお世話してもらってくれよとアグリキャップに声を掛けた。


「すいません、川洲さん。無理聞いてもらってありがとうございました」


 布津野は川洲に礼を言う。


 そんな布津野に川洲は、思わず訊ねた。


「何かこないだのセラさんもそうだけど、布津野君もキャップ触る手が光ってたように見えたんだけど、気のせいかな」


 布津野は悪戯を軽く咎められた時のように照れ笑いを浮かべて言った。


「俺らのおまじないみたいなもんなんです、馬の脚や体を撫でるのは。これからも怪我せず元気でみんなの夢を乗せて走って欲しいって願いを込めて。

 本当に光ってたなら、祈りが通じてるってことかも知れません、川洲さん」


 布津野の答えに、川洲は無理やり自分を納得させるしか無かった。

 現実的に考えて、そんなことがある筈がないのだから。 


「ところでキャップ、検査結果はどうでした?」


「レース後の? 何の問題もなかったよ。ただ、薬物検査の検体、いつもより多く取られたけど」


「そうですか、キャップも注射多くされて嫌だったでしょうね」


「普通の馬ならそうなんだろうけど、キャップは辛抱強いのか、あんまり気にはしてなかったよ」


「なら、良かったです。川洲さんみたいに親身になってお世話してくれる人がいるからこそ、キャップも人がすることが少し嫌なことでも受け入れてくれるんだと思います。川洲さん、これからもキャップのお世話、よろしくお願いします」

 

 布津野は川洲にまたしても礼を言った。


「おーい、布津野くん、もうええの?」


 厩舎の事務机にいた久須見が、布津野と川洲の様子を察して声をかける。


「はい、大丈夫です。久須美調教師せんせいも、有難うございました」


「なら、帰るついでに外まで送ってくけど、川洲、最後きっちり点検して閉めといてくれよ、頼むで。何かあったら、ワシん家連絡してくれ。うちの女房に伝えてくれたら、多分ワシにきっちり伝わるから」


 久須美がそう川洲に声をかけると、川洲はわかりました、と返事をする。

 朝割れていたガラスは、ガラス業者が午後イチで取り換えており直っている。


「なら布津野くん、出よか。でもええんか、阿栗さんの酒席出んでも。けっこう旨いもん出してくれる店やで。ワシも行くから良かったら一緒に乗っけてくで?」


 そう久須見に聞かれた布津野だが、これから名古屋でどうしても外せない用事がある、と言ってやはり断ったため、久須美は名鉄笠松駅まで布津野を送っていくことにした。







 

 







 

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