第23話 弱い者が叩く





 茂雄はワクさんのひたすら縋るような目線に、更に怒りが燃え上がった。


 ただただ卑屈で、人としてのプライドすら無いのかよ、情けねえ!

 

 茂雄はワクさんを殴りつけようとした。

 ワクさんはひっ、と言って手で顔を守ろうとする。


 その時茂雄の耳に、さっきワクさんの腕が当たり、ボリュームが上ったカーステから流れる曲のフレーズが入り込んできた。


『弱い者たちが夕暮れ~更に弱い者を叩く~』


 怒りで満ちた茂雄の耳にも、その曲を歌っている歌手のかすれた声で頼りなく、だけど自分の気持ちをしっかりと形にした、そのフレーズは届く力を持っていた。


『その音が響き渡れば~ブルースは加速していく~』

『見えない自由が欲しくて~見えない銃を撃ちまくる~本当の声を聴かせておくれよ~』


 茂雄はハッとして、振り上げた手をゆっくりと降ろした。

 そして、ゆっくりとポケットに手を入れ、CABINを取り出すと口に咥え、火を着けた。

 煙を狭い車内にくゆらせながら、茂雄はカーステから流れるその曲に耳を傾けた。

 フルコーラスは流れず、1番だけで曲はフェードアウトする。


『お聞きになった曲は、「THE BLUE HEARTS」11月23日発売予定のニューアルバム「TRAIN-TRAIN」から、アルバムタイトル曲の「TRAIN-TRAIN」でした。彼らはニューアルバム発売に先駆けてプロモーションツアー「パイナップルの逆襲」ツアーを10月3日の山形からスタートさせており、名古屋公演は11月13,14日の二日間名古屋市公会堂で……』


 ラジオDJの曲紹介が流れる中、森茂雄はワクさんに向かってタバコを勧める。


「ワクさんも吸う?」


「いや、ワシはハイライトやから……」


 ワクさんはまだ少し怯えた様子だったが、それでも断る。

 タバコの嗜好は、余程でない限り譲れないものだ。

 茂雄は自分のタバコをしまいつつ、そして言った。


「ごめん、ワクさん」


 ワクさんはそれには返答せず、茂雄の言葉の意味を図るように戸惑いの表情を浮かべる。

 茂雄はそんなワクさんの様子を気にせず言葉を続ける。


「俺、正直ワクさんの方が自分より不幸な人間だって思っててさ。ワクさんと一緒に競馬やったりするのも、自分より下の人間がいるのを見て、俺より下の人間はいくらでもいるって安心するためだったりするんだ」


 短くなりつつあるタバコの煙が目に入り、顔をしかめた茂雄は一度言葉を止め、灰皿に灰を落とす。


「酷い人間なんだ、俺って。だからワクさんが今日、俺にどっか乗っけてって欲しいって頼んできた時も、ロクな用事じゃないだろうけど、どんなしょーもない用事なんだろう確かめたいなって、底意地悪く思って引き受けたんだ」


 茂雄は最後に胸いっぱいにタバコの煙を吸い込むと、盛大に吐き出しながらタバコを灰皿で捻り消した。

 そして頭の後ろで手を組み、倒れ気味のシートにもたれた姿勢を取った。


「実は俺も早めにパチンコ屋来てたんだ。ワクさんが、どう見てもその筋の人間って男から紙袋渡されてるところ、見たんだ。ワクさんのことだからどうせ借金して、それで脅されて何かさせられるんだろうなって思ってさ。逃げようと思ったのさ。

 でも、ワクさんが筋者に、俺に逃げられたせいで頼まれごと果たせなかったとか言い出したらどうしよう、とか考えちゃってさ、そんな訳ないのにね。迷ってるうちにワクさんが来て、済崩なしくずしに車に乗っけちゃった。俺も自分の行動、素早く決められない、決断力が無い情けない男なんだって思った。流されるままで、ワクさんより酷いかも知れない」


 自分の弱さは以前から薄々感じていたことだった。

 ただ、その弱さと正面から対峙する勇気がなかった。目を逸らしていた。

 だから、ワクさんが目的も言わずに俺をただ金で利用してるって思うと腹が立った。最低の自分より最低なワクさんに使われる俺って何だ、と。


「ワクさんに当たったのは、結局俺自身の弱さを直視したくなかったからなんだ。ワクさんに当たることで誤魔化そうとしてた。だからごめん」

 

 ワクさんなりに俺に気を遣って、俺を巻き込みたくないから俺に目的も言おうとしなかったんだろうに、と茂雄は言葉を続けた。


 さっき耳に入って来た曲の歌詞が、まさに今の自分のことのようだと衝撃を受けた茂雄は、ようやく自分が抱えているものと向き合う勇気が出た。

 それで、ワクさんに自分の気持ちを正直に話したのだった。


 ワクさんは、茂雄の言葉を黙って聞いていたが、聞き終わるとゴソゴソとナップザックを漁って茶色い紙袋を取り出した。


「シゲちゃん、中身見てみ」


 そう言ってワクさんは紙袋を無造作に茂雄に放ってよこす。


 茂雄が紙袋を手に取ってみると、軽い。

 恐る恐る中を見ると、一塊になった、ツル草の束が入っていた。


「……麻薬の原料か何か?」


 茂雄が精一杯冗談めかしてそう訊ねると、ワクさんはニカっと笑いながら「そんな訳ないやん」と答える。


 茂雄が困惑した表情を浮かべると、ワクさんは笑みを浮かべながら話し出した。


 シゲちゃんの言う通りや、ワシ、あっちこっちで借りた金がえらく嵩んでもうて、まあシゲちゃんが見たって言う人のところから金借りて、借金一本化したんや。

 ワシのそれまでの稼ぎやと返せる額は微々たるもんやから、金貸しの手伝いしたら利子分くらいは少しづつ返したってことにしたる、言われて金貸し手伝うようになったんや。

 て言うても、取り立てなんてせんよ?

 見てのとおりワシャ貧弱やし。

 まあ、上の人にいわれるまま、あっこにこれ置いてこいだのって使い走りみたいなことや。

 まあ届けるモンはババ排泄物とか、そんな汚ったないモンやったり、夜中にデカい石投げ込んだり、立ち退かん頑固者のとこへのイヤガラセが多かったりするけどな。

 

 茂雄が薄々想像していたのと同じような感じではあったが、もう少し卑劣な、聞きたくもないことをワクさんは話す。


「急に金回り良くなったのは?」


 茂雄が話を変えようと気になっていたことを聞くと、ワクさんは少し得意げに話し出す。 


 あれな、その社長金貸しの手下がノミやっとってな。

 その手下が言うとったの聞いたんや。

 あのレースに出走する一番、二番人気の関係者も社長金貸しから金借りとって、返済滞ってるからちょいと空気入れ八百長たって。

 ほんで賭けたら来たわ、中穴。

 大本命が来んから、狙いも簡単に絞れたで。

 まあウハウハやったけど、金持っとるのバレてな。隠しといた分以外は社長金貸しに持ってかれたけど。


 そしてワクさんは少し悲し気な真顔で言った。


「ワシ、シゲちゃんのことは好きやったんや。ワシも大概クズみたいな人生辿ってきててな。学校の勉強もようできんかったから、中学出てすぐ働き出しても行く先々でバカにされてイジメられて。どうにか所帯持っても女房には愛想尽かされ子供連れて出てかれるしな。

 シゲちゃんくらいや、表立ってワシのことバカにせんかったのって」


「ワクさん……」


「ワシ、シゲちゃんとダラダラ競馬してんの、ホンマ楽しかったで。金出さんと誰もワシのことなんか相手にしてくれんのに。シゲちゃんだけやった、金のやり取りせんでもワシのことまともに人として付き合ってくれたの。

 でもなあ……」


 ワクさんの言葉のトーンが変わった。


「今日の用事だけは絶対やらんといかんのや、シゲちゃん。だからシゲちゃんが嫌や言うても、絶対連れてってもらう。

 ワシ、アホやから気づかなんだけど、シゲちゃんの言う通りや。

 これ果たせんかったらワシは社長金貸しの手下にボコボコにされてまう。ワシだけがそんな目に遇うの、嫌や。シゲちゃんも道連れにしたる」


 茂雄は、ワクさんの無表情な顔を初めて見た。

 そして、自分が墓穴を掘ってしまったことに気づく。

 おそらく茂雄が口にしなかったら、ワクさんには筋者に茂雄のことを言い付けると言う発想はなかった。

 だが茂雄が口にしたことで、ワクさんは茂雄が恐れていたことをそのままやる、と茂雄を脅しているのだ。

 この世には、思った以上に愚鈍で、己の為なら卑劣になれる人間がいるのだと、茂雄はようやく思い知った。

 茂雄の全身から冷や汗が流れ力が抜ける。


「シゲちゃんの持ってるそれ、単なる雑草や。堤防なんかに生えとるツル草。笠松の馬のエサにしとるらしくて、馬もようけ食べるんや。

 ただな、ワシもようわからんけど、何かまぶしとるらしい。競走馬の禁止薬物だって話や。

 社長金貸しが手下にやらせとるノミ屋の方で儲け話が動いとるらしい。それでそれを絶対食わせてこいって言われとるんや、しくじれん。

 シゲちゃん、笠松まで行ってもらおか。

 ここまで聞いてまったら、もうシゲちゃん無関係とは言えんからなあ」


 ワクさんは放心している茂雄の手から素早く紙袋を取り返すと、勝ち誇ったような口調でそう茂雄に言った。


 茂雄はしばらく動けずにいた。

 心は絶望に真っ黒く覆われているのに、思考の上っ面ではニゲル・ムリダ・ホウホウ・ナイ、ニゲル・ムリダ・ホウホウ・ナイ……と無駄に空回りしている。


 「シゲちゃん、早よ出してや。早よせんと、協力者から社長金貸しにバレるでえ」


 ワクさんの無慈悲な催促。

 その声に促され、茂雄はようやくノロノロとした動作でハンドルを握り、車をバックさせコンビニの駐車場から出る。

 国道155号線を津島市に向かってアルトワークスを北上させていく。

 森茂雄は、底なし沼に両足を突っ込んだような、絶望と虚無が入り混じった気持ちで車を走らせ続けた。

 その気分と同調するかのようにフロントガラスにはまた降り出した雨がポツリポツリと当たり出し、岐阜が近づくにつれて雨は激しくなっていく。

 助手席のワクさんは、そんな茂雄とは対照的に、楽し気な様子で茂雄が聞きたくもないことを喋っている。


「これ食わせる馬って、アグリキャップや。

 オールカマー勝って、もう東海にはほとんど敵がおらんって思われとるやろ?

 だから消えるとオイシイんやて。

 次戦は12日中京の『ゴールド争覇』らしいって言われとったんやけど、明日の東海クラウンで決定したって先週わかったから、今晩決行になったんや。

 一般戦にアグリキャップ使うなんてオイし過ぎる言うとったで、人気が一本被りんなるから。飛んだら大波乱やろ?

 知っとる? シゲちゃん。アグリキャップ、めっちゃ大食いなんやで? オールカマーの後のスポーツ新聞に載っとったわ。アグリキャップにとってみたらワシらの持ってくこのエサ、夜中のオヤツやで? きっと喜ぶわ」

 

 そんな内輪話を聞かされれば聞かされる程、茂雄は泥沼に囚われ沈んでいく。

 報復を恐れて引き返せなくなっていく。

 ワクさんはそれをわかっていて尚も話し続ける。


 

 ――これな、競争は行われるってところがミソらしいんや。

 圧倒的な一本被りの人気。ノミ屋の客も殆どアグリ絡みの馬券買うやろ? レース自体もおそらくアグリキャップやったら余裕で勝つやろ。

 で、勝った、払い戻しよこせや、って客が言ってきた時に、実は禁止薬物が……ってなって競争不成立。仕方ないねー言うて呑める訳や。

 でまあ、自分らはそのこと知っとる訳やから他の馬券、アグリがおらんレースで見立てた時の馬券を普通に買っとけば、まあデカいし。

 でな、ノミ屋を通さん、普通に馬券買う客――こないだのオールカマーでアグリキャップ知ったって客。おそらくご新規さん多い訳やんか。そいつらが買い支えてくれるから、社長金貸しらが他の馬の馬券を少々多めに買ってもオッズの変動は少なく済む。結果ウハウハのボロ儲けって訳や。 

 

 アグリキャップの関係者って、けっこうガード固くてな、厩舎の人間もオーナーも誰も闇金みたいなとこから金摘まんでないらしくて、なかなか弱み握れんから絵ぇ描きづらかったみたいなんや。アンカツもあんな酒好きでだらしない男やのに、その辺りはしっかりしとってなあ、ある意味トップ取る人間はしっかりしとるんやな。


 でも流石に今回はオイシ過ぎる機会でこれ逃す訳にはいかんってことでな、笠松の他の厩舎のもんで社長金貸しんとこに頭上がらんカネを借りている奴に頼んで、忍び込めるように手配して貰った、と言う訳や。

 そいつに食わせに行ってもらえれば、ワシらがわざわざ行かんでも良かったのになあ。流石にそこまでやってバレるのは困る言うて泣いてゴネよったらしいわ。


 シゲちゃん、せやからソイツが悪いんやで、恨むならソイツ恨んでくれや――














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