第21話 富貴にして故郷に帰らざるは、錦を衣て夜行くが如し




 オールカマ―の勝利直後、勝利騎手の安東克己は競馬新聞等のメディアの取材を受けた。

 矢継ぎ早に次々と質問をされるが、安東克己は普段口数は多くても、ロジカルに何かを説明するということは苦手なタチだったため、無難な受け答えに終始した。

 反対に調教師の久須美は饒舌であった。

「必ずやってくれると思っていた」

「牧場で初めて見た時からモノが違うと思っていた」

 など、勝ったこともあって結果的に強気な内容が多かった。

 ただ、競馬メディアが求めていたものは、中央よりも劣った環境で健気に頑張っている地方馬が苦労の末に掴んだ栄光といった部分だったようで、久須美調教師の話の殆どが活字になることはなかった。 


 馬主の阿栗にも記者が話を聞きに来た。

 普段は全くインタビューなどされることがない阿栗は面食らったが、聞かれるままに、アグリキャップの生い立ちなどと共に勝利の喜びを話した。


 普段も安東や久須見は地元競馬紙「競馬ガッツ」や全国紙「中日スポーツ」の地方競馬欄担当者から雑談のような取材はされていたが、今回のように全国紙の取材は初めてであった。

 翌日の全国紙のスポーツ欄にオールカマーの結果と阿栗たち関係者の談話は載ったが、それほど大きな扱いではなく、2年振りの地方馬の快挙として競馬に興味のある者の関心を少し引いた程度であった。


 だが、地元である東海地区では違った。

 

 地元の中日スポーツ東海版には、表面トップこそ6年振りの優勝に近づく中日ドラゴンズの試合結果に譲ったものの、裏面では「アグリキャップ」の文字が大きく踊った。

 だけでなく安東、久須美、阿栗のコメントも大きく扱われ、アグリキャップが生まれた時は足が外向しており競走馬になることすら危ぶまれたことも取り上げられ、大きな挫折から栄光を掴み取った物語としても報道されたのだ。


 アグリキャップの快挙は地元の複数のTV局からもインタビューされ、夕方の地方ニュース枠のスポーツコーナーで結果が放送された。

 東海地区では、地元の笠松競馬の馬が中央競馬のGⅠ馬2頭を破り優勝したということで、中日ドラゴンズの優勝マジックとともに大きな盛り上がりの起爆剤になりうる種が播かれたのだ。

 折しも9月17日に開幕したソウルオリンピック。

 名古屋が開催都市として立候補していたが、ソウルに敗れたことを無念に感じていた東海地区の住民たちも多く、その鬱憤をはらすかのような快挙だったのだ。

 このまま行けば、東海地区で大フィーバーを起こしていただろう。


 だが、翌日の9月19日夜、宮内庁から日本中を震撼させる発表があった。

 今上天皇がひどく体調を崩されている、というものだった。

 

 これまでも何度か天皇陛下が体調を崩され報道されたことはあったが、それまでの報道とはトーンが全く違っていた。

 翌20日は、朝から全てのメディアが天皇陛下の体調について報道した。憚られるため重体や重篤などの表現は使われなかったが、よろしくないということだけはメディアを見ている者たちに伝わる。

 そして、全ての国民が漠然と感じていた、昭和の御世みよは何となくこれからも続いていくものだということが錯覚であった、と改めて突きつけられた。

 そして、メディアから一部CMの音声を消したり、バラエティ番組の放送を取りやめたりするなど、自粛ムードが形成されていった。



 そんな中、9月24日土曜日の夕方、阿栗は行きつけの小料理屋で久須美、安東を呼んで一席を設けた。

 世は自粛ムードだったため競馬の開催も不謹慎なのでは、と言う声もあったが、当面の開催は継続することになっていた。

 だが、阿栗はアグリキャップのオールカマー優勝のパーティの開催は自粛することにして、周囲にも伝えていた。

 とはいえ自粛ムードによって酒を出す飲食店で売り上げが落ち込みを見せる店も多くなっている。

 行きつけの小料理屋の女将に泣きつかれたこともあり、阿栗は久須美、安東とささやかに祝杯を上げることにしたのだった。


「安東くん、昨日はおめでとう。ま、一杯やって」


 阿栗が安東の持つ杯に日本酒を注ぐと、安東は「ありがとうございます、いただきます」と言って杯を干した。

 安東は昨日の名古屋開催の4歳重賞「秋の鞍」で、トミトシシェンロンに騎乗し勝利していた。


「こんなご時勢なので、あまり大っぴらに騒ぐ訳にはいきませんけど。まあ、兄の馬、横取りしたみたいで申し訳ないっちゅう気も、ちょいとありますし」


 東海ダービーでは安東克己の兄、安東満彰みつあき騎乗で3着だったトミトシシェンロンは次走の「岐阜王冠賞」でもマーチトウホウの3着と敗れていた。前走「薄暮特別」では千田光男に乗り替わったが2着。そしてようやく安東克己騎乗で実に7戦ぶりに勝ったのだ。


「言うても、前走は千田くんに乗り替わっとったし、ここんとこ惜敗続きやったトミトシを見事勝利に導いたんやから、そんな気にすることないと思うで。馬主からしたら勝ってくれそうな騎手に依頼したくなるんは当然や。受けるか受けんかは騎手次第。安東くんは依頼が来たから乗った、ほんで勝ってくれた。それだけのことや」


 阿栗がそう言ったのを受けて、久須美が安東に訊ねる。


「克己、これからもトミトシ乗るんか?」


「キャップ次第ですわ、テキ調教師。キャップの次走はどうなります?」


 安東克己が逆に訊ねる。

 騎手としては、勝てる馬に乗りたい。今年の4歳馬では、アグリキャップに適う馬は東海地区には見当たらなかった。

 

「まあ自粛ムードん中で遊びにかまけてる、なんて目でも見られますし、陛下の容体によっては開催中止んなることも有り得ますが……でも私らは馬のおかげで食ってる訳ですから。阿栗さん、キャップも走らせんと、競走能力維持するだけで一杯一杯です。次戦についての話、ええですか」


「久須見さん、そりゃええけど、前決めたローテでええんと違うの?」


「基本そうなんですが、次の目標の『東海菊花賞』の前の一叩きは決めて無かったんで。『東海菊花賞』は11月3日で、ちょっと間が空きます。で、その前に一叩きしたいんですが、良さげな重賞は10月12日の中京の『ゴールド争覇』なんですわ」


 久須見には実は別の候補レース候補の腹案があり、それを阿栗に伝えようとしていたが、それを続ける前に安東克己が久須見の言葉に割って入った。


「ちょっと待ってください、テキ調教師。キャップ、『東海菊花賞』に出すんですか!」


「ああ、そのつもりや。もう克己にも伝えてええですよね、オーナー」


 久須見の言葉に、阿栗は頷いた。

 だが、久須美を手で制し、阿栗は自分で安東に話しだす。


「実はな、安東くん。キャップは、来年中央に持ってこうと思っとる」


 安東克己は驚いたが、意外ではなかった。

 昨年の中京盃を勝った後に、アグリキャップに中央移籍前提の売却話があったことは安東の耳にも薄々入っていた。


「キャップは売らん。ワシが中央の馬主資格を取って、ワシが責任を持って中央に持って行く。もし中央で通用しなかったら、また笠松戻す。そう思っとった。

 でも、ついこないだ、中央のGⅠ馬にも勝ってくれた。おそらく中央でもキャップはやってくれると思う。そう思わせてくれたのは安東くん、君のおかげや、ホンマありがとう」


 阿栗は安東に頭を下げる。安東も頭を下げて礼を返す。


「中央の馬主の申請はもうやっとる。鷹端たかはしさんに相談しとったけど、8月終りに申し込んだ。鷹端さんの話だと、おそらく今年の終りまでには資格審査、通るやろうってことや。となるとキャップの東海公営での戦いは年内一杯や。

 せやから、中央に行く前に、キャップが東海公営で一番強い馬やってことを証明したいんや」


「……ほんで『東海菊花賞』ですか」


 安東克己の言葉には、苦悩が滲んでいた。


「そうや。今現在の東海最強馬と目されとるフェートローガンに勝つ。勝ってキャップが東海最強だと証明したい。そのために『東海菊花賞』に出したいんや。

 安東くんにとって、酷なこと言うてるのはわかっとる。

 フェートローガンの主戦もやっとる安東くんに、フェートローガンかキャップか、どっちか選んでもらわんといかんのやから。

 ほんで、この話はフェートローガンの馬主、鷹端さんにも伝えとる」


「鷹端さんは、何て?」


「そら、鷹端さんかて勝ってくれる騎手、乗せたい気持ちは一緒や。馬主やったら当然。やから、安東くんが選んだ方で恨みっこなし、ってことになった。

 ただ、こないだ安東くんがオールカマー勝ってくれたおかげで、ジャパンカップの内定取れた。

 ワシはホンマに、安東くんが一番キャップに上手く乗ってくれる騎手やと思っとるから、11月27日のジャパンカップも安東くんで行きたいって、そう思っとる」


 阿栗はそう言って、また安東の盃に酒を注いだ。


「ただ、無理強いはできんし、さっき言ったようにワシも鷹端さんも安東くんが断ったからって、もう自分とこの馬に安東くんを乗せん、なんてマネはせんよ。笠松で安東くん程勝ってくれる騎手はいないんやから。

 ただ、安東くんにしたら、どうしても断れん義理もあると思う。それを曲げてでも、とは言えん。

 それに、まだ少し先の話や。

 返事は今すぐせんでもええ。考えてくれるだけでも有難いんやから。さ、やってやって」


 安東はまた杯を無言で干した。


「ん、まあワシも阿栗さんも、克己が悩むやろうからどう切り出そうかって迷ってたんやけど、ええ機会やったわ。どっちに乗るか、克己が決めたらええ。ワシも阿栗さんと一緒。無理強いは出来んから。

 ところで、一叩きの件なんですが、ええですか」


「それ、『ゴールド争覇』でええんと違うん?」


「『ゴールド争覇』やと、芝のレースですし、ちょっとキャップの脚に負担掛からんか心配ってのと、今度は11月3日までの間がちょいと短いんですわ。東海最強に挑むんやから、ちょいとそれなりにこっちも稽古つけときたいんです。

 なんで、笠松の10月5日、東海クラウンに出したいと思ってますが、どうですか」


「東海クラウンて、一般競争やなかった? キャップ、まだクラス分けんなってないやろ」


「キャップの場合、獲得賞金がもう余裕で250万超えてますから、4歳でも11月待たずにA級の一般競争出せます。ちょっとハンデがきついかも知れませんが、ほんでも4歳ってこともありますし、そこまでの斤量にはならんと思います」


 そう言いつつ、今度は久須美が阿栗の盃に酒を注ぐ。


「久須見さん、なんでそんなにそのレース押すんや?」


 久須見は阿栗の盃に酒を注いだ後、自分の盃にも酒を注ごうとしたが、安東克己が徳利を取り、久須美の盃に注ぐ。

 久須美は盃に口を着けながら阿栗に話す。


「阿栗さん、キャップの知名度、こないだのオールカマーの後から随分と上がってるのはご存じでしょう」


「そうやなあ。何か本業の方でも言われるわ。まあ自粛ムードの中やし大っぴらには言われんけど『アグリキャップの馬主さんだったんですね』って。何か、照れくさいような変な気持ちやなあ、急に」


 阿栗も感慨深げに盃を干す。


「まあでも、知ってもらえるっていうのは幸せなことや思とるけどな」


「でしょう? 実は9月19日と20日の二日間だけでも、笠松競馬組合に信じられんくらいの問い合わせが来たらしいんですわ、アグリキャップは次いつ走るんやって」


「そうなんやな……有難いわ」


「で、まあ、何というか、思たんですわ。せっかく関心持ってもらえたキャップですが、折悪く、こればっかりはどうしようもないことではあるんですが、でも、知ってはもらえたと思うんです。

 どれだけ関心持ってもらえたかはわからんですけど、地元のもんたちに俺らみたいな田舎もんでもやれるんや! って希望持ってもらえたらと思うんです。

 やったら次戦、準地元の名古屋にするよりは地元の笠松にした方がええんやないかなって」


 久須美は盃を机に置き、続ける。


「阿栗さんもご存じのとおり、笠松は地方競馬でも財政基盤弱いほうです。なるべく多くのお客に、それこそ今回のことでキャップを初めて知ったって人たちに、出来たら見に来て欲しいんですわ。足運んで欲しいんですわ。あわよくば馬券買って欲しいです。ほしたら、レースに出す調教師も、乗る騎手も、もっと腕磨かなならんってなって、笠松の発展につながるんやないかと思うんです。

 生憎の自粛ムードではあるんですが、ここで地元のレース走っとけば、また以前のように足運んでもらえる日が来た時に、前より多くのお客が来てくれるようになる、そんなことを願っとるんです」


 久須美のその気持ちは、阿栗にもよく理解できた。

 阿栗自身、元はといえば地元笠松を盛り上げるために、と口説き落とされて今に至るまで笠松の馬主をやっているのだから。


「『富貴にして故郷に帰らざるは、錦を衣て夜行くが如し』か」


 阿栗は自分の盃に酒を注ごうとしながら話し出したが、安東が徳利を差し出し、杯を満たす。

 阿栗はその酒をキュッと干すと、続きを話し出す。


「楚の項羽が秦を滅ぼした後、言うたって言葉や。

 伝わっとる話やと、あんまりいい意味では言われとらん。

 項羽が天下取ったと調子ん乗って、子供じみた考えを押し通して部下に失望されたっちゅう故事やからな。

 けど、実際のとこ、項羽は調子ん乗った訳やないんかも知れん。

 せっかく栄光掴んだ時、地元に凱旋したらな、モノや金や子供を兵に出して応援してくれとった地元のもんが寂しがってまう、やから地元に報いてやりたい、ホンマはそういうことやったんやないかって気ぃするわ。

 地元の多くの人にキャップのこと知ってもらえたんやから、こんな自粛ムードの中でも、それを無駄にしたらいかんのやろな。

 久須美さん。キャップの次戦は東海クラウンで行こうや」


 阿栗がそう言って快諾する。

 阿栗は久須美の盃に、また日本酒を注いだ。

 久須美も阿栗の盃に注ぎ返し、そして安東の盃にも注ぐ。


「克己、東海菊花賞はともかく、10月5日の東海クラウンは乗ってくれるんやろ? 頼むで」

 

「安東くん、東海菊花賞の返事は東海クラウンの後でええから。とりあえず、次も頼みます」 


 久須美と阿栗に頼まれた安東は、東海クラウン、当然乗らせてもらいます、と返答した。

 ほな、もう一回乾杯しよか、と阿栗が言い、乾杯と発声し3人は一斉に盃を干した。


 盃を干しながら安東克己は、とりあえず今この場で去就を決めずともよいことに安堵した。

 








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