「富貴にして故郷に帰らざるは、錦を衣て夜行くが如し」 1988年10月5日(水) 笠松競馬場 東海クラウンA1A2
第20話 持ちかけられた手伝い
9月18日、森茂雄は名古屋の自宅のボロアパートで昼過ぎも昼過ぎ、14時近くに起きた。
警備のバイトが土日は休みだったので、ファミコンでドラクエⅢをプレイしていたのだ。寝たのは今朝の9時過ぎだった。
ドラクエⅢは今年の2月に発売になり、発売の数日前から列を作り徹夜で並んで買い求める客の姿がニュースになっていたが、森茂雄はさすがに何日も徹夜してまで発売当日に手に入れようとは思っていなかった。
だが、その後も近所のファミコンショップにドラクエⅢが入荷してもすぐに売り切れ。そして他の新品ソフト3本を購入しないと買えないという状況だったため、入手をほぼ諦めていた。
しかし先日、たまたま仕事帰りに立ち寄った行きつけのファミコンショップで、奇跡的に中古で出ていたドラクエⅢを見つけた。
前の日の稼ぎの残金と、その日の日当を併せれば、どうにかタバコ一箱が買えるくらいの金を残しつつ、ドラクエⅢを買える。
森茂雄は少しも
森茂雄はそれ以来、食う寝るバイト以外の時間は全てドラクエⅢに費やしていた。
14時に起きた森茂雄は空腹を覚え、近所のコンビニまで買い出しに行く。
近頃ドラクエⅢばかりやっていたので読んでいなかったジャンプ、マガジン、サンデーの他ヤンジャン、ヤンマガ等雑誌をひたすら立ち読みした後、近頃気に入っているデラックス牛丼弁当とマヨネーズ味のポテチ、そしてコーラの1.5ℓペットボトルを買ってアパートに戻った。
とりあえず弁当を食べながらTVを付けると、東海TVで「スパーク!競馬」をやっていたのでもぐもぐとデラックス牛丼弁当を頬張りながらボーっと見る。
今日の「スパーク!競馬」の最後の中継はオールカマーだった。
ながら見をしていると、アグリキャップの文字が目に入る。
えっ、アグリキャップの奴、オールカマーに出てるのか?
ワクさんなら知ってたんだろうが、近頃はドラクエⅢにずっとかまけていたおかげで、競馬場には足を運んでいなかったため、ワクさんには会っておらず、アグリキャップがオールカマーに出ることも知らなかった。
中央に挑戦?
勝てる訳ないだろ、笠松の馬が。
身の程知らずにも程がある。
負けろ負けろ。
――えー、山川さん、人気のスズエレパードが一番人気、それからマキシムビューティーが2番人気、あと、僅かなところでリュウコウチャンプ、キングスターが3、4番人気ということなんですが、力量の比較というのは、どういう風になさってますか。
――結局そのー、公営競馬とね、中央競馬の尺度が難しくてね、どういう物差し使おうかと考えたら結局無くってね、調教で最終的に決めたんですけども、やっぱりこの1番人気、2番人気というのはGⅠホースということでね、えー、キングスターも中央的に言えばGⅠホースですしね、えー、なかなかやっぱりリュウコウチャンプもGⅠホースですしね、大井の皐月賞の位置づけのレース勝ってますから。
TVから流れる山川幸次郎の解説も、アグリキャップには一切触れない。
そりゃそうだ、地方とは言え関東の大井や船橋、高崎なら山川幸次郎も目にする機会だってあるだろうが、中部地方の笠松なんて、余程のことがないと立ち寄りゃしないだろう。
そんなところで4歳チャンピオンなんて言ってても、日本全体から見れば大したことなんてないに決まってる。
レースが始まると、アグリキャップは後ろから数えた方が早い位置を追走している。
そんなところから走っても届くものか。
そう思っているうちに第3コーナー、第4コーナーで上がっていく。
しかも、前が広く空いている。
直線に入ってからは伸びるスズエレパードにただ一頭迫っていき、差し切ったところがゴールだった。
「何だよ中央の騎手も馬も。だらしねえな」
森茂雄は、悪態をつきながら、食べ終えた牛丼弁当の空箱を袋に入れ、1.5ℓのコーラのペットボトルをラッパ飲みした。
TV画面にはウイニングランをするアグリキャップと安東克己が映っている。
――いやー、スズエレパード、先程も何度も申し上げたようにパドックから本馬場に入っての落ち着き、貫禄が違うんですよ。対してね、アグリキャップ、悪い言い方をすれば、とてもこれからレースに向かうような気がですね、感じられなかったんですね。逆にそれがかえって力を無駄にせず、普段以上の力をね、出せたんじゃないかと、そう思いますね。
――山川さんから見てそうでしたか。
――ええ、スズエレパードはね、競馬を知ってますよ。道中の流れも速くて前目の位置につけてですね、直線に向いて抜け出す、横綱相撲でした。1年3カ月振りの復帰戦でこれだけ強い競馬ができるというのは、この後も期待できますね。またね、3着のブランニューデイも、よく頑張りましたね。最もね、有馬記念を見れば、意外でも何でもないんですけどね。
勝った馬にはほとんど触れずに2着、3着の中央馬の話をする解説者。
そうなんだよ、笠松の馬なんて勝てると思われてなかったんだよ、東京人からすると。
アグリキャップだって、田舎でちょっと強い4歳馬程度の扱いなんだ。
所詮、田舎のお山の大将がまぐれで勝ったと思ってるのさ。
――そうですねえ、まず先程申し上げましたように、落ち着いて競馬に入れたことが良かったですね。それとですね、やはり4歳馬ということで、斤量が軽かったのも大きかったと思いますね。仮にですけど、同じ斤量だったら結果はね、変わっていた、そう思いますね。あとは騎手の安東くんですか、実に上手く乗りました。会心の騎乗と言っていいんではないでしょうかね。
やはり、まぐれ勝ちだと思ってる。その証拠に取って付けたような理由しか挙げていない。
安東克己の騎乗は確かに笠松一の名手の面目躍如といった見事なものだったが、それに応えるパフォーマンスを見せたアグリキャップの能力の高さを認めるようなことは一切言っていない。
どうせ、そうさ。
東京から見た地方なんて、賑やかし、引き立て役、そんな扱いだ。
言葉の端々に無意識だろうがそうした態度が滲んでいる。多分事前に取材なんかもしちゃいない。
森茂雄は何となく面白くない気分になり、TV画面をゲームの画面に切り替えた。画面は昨日攻略途中だったネグロゴンドの洞窟内だ。
森茂雄はペットボトルを傍らに置くと、ドラクエⅢの続きをやり出す。
アグリキャップのことが嫌いなはずなのに、アグリキャップを軽くみられることに気を悪くしている矛盾した自分の思考に触れたくなくて、クライマックスの近いドラクエⅢに意識を無理やり切り替えた。
次の週。
森茂雄は久しぶりに競馬場に足を運んだ。
東海公営の名古屋競馬場だ。
JRAの今週の開催は阪神と新潟で、中京競馬場でのレースは開催されていない。馬券だけなら阪神のレースは買えるが、森茂雄は何となく目前のレーストラックで走っている馬を見ないと競馬をしているという気がしない。
だから、レースが開催されている
やはりワクさんはいた。
「おう、シゲちゃん、久しぶりやなあ。何しとったん?」
ワクさんは、茂雄の姿を見つけると、競馬紙片手に笑顔で声をかけてくる。
この人も変わらないな、と嬉しくなったが、あまりに予想どおりで何一つ変わっていないことに対して、軽い侮蔑の気持ちも一瞬よぎる。
「ん、他にやることあったから。ワクさんは変わらんね」
そう茂雄が言うと、ワクさんは「この年だとそう簡単には変れんもんや。シゲちゃんもワシの年んなったらわかるわ」と気にすることもなく返答する。
今日の名古屋競馬場は、重賞は開催されていない。
メインレースも一般競争で、来場者はそこそこの入りだった。
「ワクさん、次のメインは何買うつもり?」
茂雄が気なしにワクさんに訊ねると、ワクさんからは意外な答えが返って来る。
「ん、もう今日は終いにしてもええんやけどな。目当てのレースは終わったし。まあシゲちゃんが買うんやったら、もうちょい付き
普段は有り金全てを使って全レースに賭けている、ワクさんらしくない返答だった。
茂雄からすると、あのワクさんが? といった意外な気持ちになる。
「ワクさん、珍しいね、いつもだったら悩みに悩んで予想絞り出してるのに」
「ハハ、シゲちゃん、さっきは簡単に人は変らんって
ワクさんは、何故かニヤリとした笑みを浮かべてそう言う。
「ま、そうやな、あえて買うなら1番人気は絶対飛ぶから、2番人気から流したら大怪我はせんな」
常になく自信満々で断言するワクさんに、益々森茂雄は違和感を覚えた。
が、とくにそれを口にすることはなく、ワクさんと連れ立って馬券の購入に向かう。
茂雄はとりあえず一番人気を外し、2,3番人気の4枠と6枠を流して買う。
隣で馬券を購入するワクさんにちらりと目をやると、たまたま財布を開けているところだったが、その財布の中には常のワクさんらしくなく、万札が分厚く入っている。
茂雄は、何か見てはいけないものを見たような気がして、すぐに目を逸らした。
メインレースの結果は5-6で、3番人気と5番人気の馬が来た。
森茂雄は当てはしたが、買い目を絞れておらず少し浮き程度の儲けだった。
ワクさんも似たようなものだったが、まあこんなもんやろ、と上機嫌だった。
「シゲちゃん、帰りメシ食ってこ。おっちゃんがおごったるから。ステーキでもしゃぶしゃぶでも焼肉でも何でもええで」
シゲさんにそう誘われた森茂雄は、特に行きたい店も思い付かなかったので、シゲさんと共に市営バスで市街地まで出てチェーン店の『ステーキのあさくま』に入った。
「ワクさん、羽振りがやけにいいじゃない。最近、仕事変えたの?」
ステーキを頬張りながら茂雄がそう訊ねると、ワクさんは歯が悪いから分厚い肉はよう噛み切れん、といって注文したハンバーグステーキをぐちゃぐちゃと咀嚼しつつ「知り合いに頼まれたことしてどうにか日々凌いどる」と返答する。
そんなことで財布の中身の大金を稼げるんだろうか、あれはどう見ても100万円は下らなかった、と茂雄は思った。
それが顔に出ていたのだろうか、ワクさんは口の中のものを飲み込むと言い訳がましい事を言う。
「あ、今日はな、シゲちゃん来る前のレースで当てたんや。2レースくらい中穴来たんを1点買いで突っ込んで。やから気にせんでええで」
そして続ける。
「実はな、今日はちょっとシゲちゃんに頼みたい事あるんや」
ワクさんからの頼み事。
これまでは、ワクさんに頼まれ事をされたことは殆ど無い。
馬券を買うタネ銭の貸し借りもしたことがない。
逆に茂雄もワクさんに頼みごとをしたこともない。
何か、これまでお互いにそこだけは一線を敷いていた。
「あ、変な事やない。ちょっとシゲちゃんに車出してもらいたいだけなんや。きちんと謝礼は出すし」
森茂雄は車を持っていた。
普段の警備のバイトで、山の中の高速道路の拡張工事現場に回されることが多かったのも、現場まで車で行けたからだった。
対して、ワクさんは車を持っていない。
警備のバイトで一緒だった時も、いつも対になるバイトの車に同乗させてもらっていた。
「車出すって、今日? さっき競馬場で呑んじゃったから今日は無理だって」
茂雄は競馬場に行く時は大抵呑むので、車で競馬場には行かないことにしている。
飲酒運転の取り締まりは緩いが、万が一飲酒検問に引っ掛かったらバイトに支障をきたしてしまう。
「いやいや、今日やないよ。そんなんわかっとるて。10月11日の夜や」
ワクさんは慌てたようにそう言った。
茂雄はワクさんの様子から、何か胡散臭いものを感じた。
だが、急に羽振りの良くなったワクさんに対しての好奇心の方が勝る。
少し考えた振りをした後、茂雄は答えた。
「……いいよ、次の日のバイトに影響出ない時間だったら」
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