第19話 黄色いビオラの花ことば




「ハツラツー、頑張りマシタ! 安東サン! 黄色いビオラで咲きましタヨー!」


 阿栗の隣のセラフィーナは小さく何度もジャンプして喜びを表す。


 周囲の観客は、外れた馬券を空に投げ捨てており、紙吹雪のように馬券が舞っている。

 セラフィーナの隣で話していた男は自分の馬券を撒き終わり、悔しさを発散すると「お姉ちゃん、オーナーさん、勝利おめでとう。強かったね、アグリキャップ。俺、今度のジャパンカップはアグリキャップも応援するよ。出るんでしょ、ジャパンカップ?」とセラフィーナと阿栗に話しかけてきた。


「ありがとう! ジャパンカップ、出るで! またアグリキャップ、応援してください」


 阿栗がそう答え、男に握手をすると、その周囲の観客からも拍手が沸き起こった。

 阿栗たちが周囲の観客たちに拍手されている中、「スパーク!競馬」の音声が流れている。


 ――スズエレパードが横綱相撲かと思われたんですが、まさかの東海公営の4歳馬が素晴らしい脚で見事に差し切りました。

 ――東海公営、恐るべし。一昨年のジョウタローに続き、今年はアグリキャップ! 産経賞オールカマーを制しました!


 解説の山川が喋り出す。


 ――いやー、スズエレパード、先程も何度も申し上げたようにパドックから本馬場に入っての落ち着き、貫禄が違うんですよ。対してね、アグリキャップ、悪い言い方をすれば、とてもこれからレースに向かうような気がですね、感じられなかったんですね。逆にそれがかえって力を無駄にせず、普段以上の力をね、出せたんじゃないかと、そう思いますね。


 ――山川さんから見てそうでしたか。


 ――ええ、スズエレパードはね、競馬を知ってますよ。道中の流れも速くて前目の位置につけてですね、直線に向いて抜け出す、横綱相撲でした。1年3カ月振りの復帰戦でこれだけ強い競馬ができるというのは、この後も期待できますね。またね、3着のブランニューデイも、よく頑張りましたね。最もね、有馬記念を見れば、意外でも何でもないんですけどね。


 ――あっとコースレコードですね。2分12秒2です。山川さん、勝ったアグリキャップについてはいかがですか。


 ――そうですねえ、まず先程申し上げましたように、落ち着いて競馬に入れたことが良かったですね。それとですね、やはり4歳馬ということで、斤量が軽かったのも大きかったと思いますね。仮にですけど、同じ斤量だったら結果はね、変わっていた、そう思いますね。あとは騎手の安東くんですか、実に上手く乗りました。会心の騎乗と言っていいんではないでしょうかね。


 ――なるほど、山川さん、ありがとうございました。

 ――新潟競馬場メインレース、第34回産経賞オールカマーは、公営笠松所属のアグリキャップの優勝で幕を閉じました。

 ――それでは中継をスタ


 誰かが、スイッチを切って中継は聞こえなくなった。


「オーナーさん、ウイナーズサークル行かなくていいのかい」


 セラフィーナに話しかけていた観客の男が、阿栗にそう訊ねる。


「おっとそうやった、久須美さん、セラさん、下へ行こか」 


 阿栗と久須美、セラフィーナは周囲の観客がよけて作ってくれる道を通り、下へ降りるエレベーターのあるアイビススタンドの中へ向かう。

 両側に分かれた周囲の観客はささやかな拍手で3人を讃えてくれている。


 阿栗と久須美は気恥ずかしさが勝っていたが、セラフィーナは「みなサン、ありがとうゴザイマす」と笑顔を振りまきながら堂々と歩く。


「セラちゃん、あんた大したもんや」


 久須見がやや呆れ気味にそう言うと、セラフィーナは「イーエ、頑張ったのはハツラツですヨ。ハツラツが頑張れたのは久須美センセイのおかげ。久須美センセイにハツラツを委ねたのは阿栗オーナー。だから、ワタシは照れ屋のお二人の代わりに観客にお礼を言っているだけデスヨ」と平然としていた。


 いやー、異国の娘さんは芯が強いちゅうか、大らかっちゅうか、大物としか言えんな。

 阿栗は感心した。


 道を開けて拍手してくれている観客の中に、白のつばの広いキャベリンを被りオーバル型のサングラスを着け、白のサマーワンピース姿の30代後半と思しき女性がいた。

 

 その女性の前にさしかかると阿栗たちはその女性に話しかけられた。


「そちらの外人のお嬢さんが叫んでいた、黄色いビオラって何のことでしたの?」


「今日の安東サンの勝負服ガ、黄色いビオラみたいナ色合いだったんデス。ですカラ、今日はビオラが咲いた日デス」


 セラフィーナが悪びれずに答える。

 その答えを聞いた女性は「そうでしたの」と言って笑みを浮かべる。


「黄色いビオラの花言葉は幾つかあります。『慎ましい幸せ』『小さな幸福』そして『田舎の幸せ』。

 けれど、今日あの馬が勝ったことでそれらは破れるかも知れませんね」


「どういうことです?」


 阿栗が思わず聞き返す。


「ご気分を害したのなら申し訳ありません。悪い意味ではないんです。ただ、あの馬はおそらく地方競馬の強い馬では収まらないでしょう。

 今後阿栗さんが何かお困りになった時、お力になれることがあるかも知れません。

 申し遅れました、私こういう者です」


 女性は阿栗に名刺を手渡した。


「グレイトフルレッドファーム代表、高田美佐江さん、ですか? 申し訳ありません、私、馬主の端くれに身を置いておりますが、とんと無知で存じあげず」


「いえ、主人と一緒に小さな生産牧場を営んでいる者です。牧場のことも主人がほとんど行っておりまして、私は名ばかりの代表です。今日の条件戦と新馬戦に、うちと提携している牧場の生産馬が出るので足を運んだのですが、思わぬ良い勝利を見させていただきました。

 では、お時間取らせてしまい申し訳ありません。またお会いできることを楽しみにしております」


 そう言うと女性は阿栗たちに一礼し、その場をすうっと立ち去った。







 ウイナーズサークルで口取りの記念写真を撮る前に、セラフィーナはアグリキャップとのスキンシップを取っていたが、アグリキャップの4本の脚、特に右前脚を丹念にさすっていた。


「ウン、悪くなってないデスネ」


 厩務員の川洲は、セラフィーナがそう言いながらアグリキャップの脚を触る両手が、何だか薄く青く光っているように一瞬見えたため、目をしばたかかせてもう一度目を凝らした。

 すると顔を上げて川洲を見返すセラフィーナと目が合う。 


「川洲サン」


 一瞬真顔になって真っ直ぐこちらを見るセラフフィーナに、川洲はドキッとした。

 トキメキではない。美しい魔女が秘密を見たことを咎め、見た者に呪いを掛ける、何故か川洲はそんなことをイメージしてしまったのだ。


「ハツラツ、後で足裏掘って欲しいみたいでスヨ。めくれた芝ガ足の裏に挟まっテ、ムズ痒イみたいでスネー」 


 笑顔でセラフィーナが川洲に伝える。


「はい、やっときます。キャップの蹄は蹄葉炎起こしやすいんで、いつも馬房に戻ったら必ずやってるんで」


「スミマセン、川洲サン。お仕事に口出ししちゃったみたいデス、ゴメンナサイ」


 そう言って謝るセラフィーナの表情は変わらず笑顔で、特に恐ろしい訳でもない。

 川洲は、さっきは何であんな風に思ったんだろう、と我ながら不思議に思った。

 






 1988年9月18日 新潟競馬場 オールカマー  了



 

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