第18話 決着
パドックでアグリキャップに乗り、厩務員川洲の誘導に従って周回しながら安東克己は他の出走馬の様子を見ていた。
やはり、このレースの相手は1番のスズエレパードやろな。
1年3カ月ぶりの復帰戦とは思えないほどに落ち着いている。
海老沢騎手もスズエレパードとコミュニケーションを取っているが、落ち着かせるためではない。
マキシムビューティは馬体重を勝っていたときと同じまで絞って調整したという噂だが、今現在の適正馬体重よりは落ちてしまっているように思える。
馬自身が競走馬であるという在り方に疑問を持っているのではないかと安東は感じた。
名手刑部行雄が、どれだけ馬の走る気持ちを引き出せるかだろう。
地下馬道を通り本馬場へと向かう間、安東は今日の展開を考えている。
おそらくスズエレパードは出遅れない限り1枠1番の枠順を生かし、先行していくだろう。
ベストはスズエレパードの斜め後ろくらいの位置につけて、スズエレパードの呼吸を計りながらスズエレパードよりも一呼吸早く仕掛けて前に出て行くこと。
新潟競馬場のこれから走る2200mは外コース。
本日の外コースの使用は、第3レースの3歳新馬戦1600mと第8レースの4歳400万下1600mの2レースのみ。
1600m競争の発馬地点は第2コーナーポケット付近であり、第1、第2コーナーの芝は代替開催3週目の本日であってもそれほど痛んでいない。
先行馬にとっては非常に有利だ。
久須美調教師の先行するようにという指示は、それを狙ったものだろう。
ただ、調教は新潟競馬場内で行っていたとはいえ殆どがダートコースしか使用させてもらっておらず、新潟競馬場2200mのゴール位置をアグリキャップははっきりわかっていない。
だから10番の自分とアグリキャップの間に他にハナを狙っていく馬がいたら、テンのスピードを上げようと気合いを入れるとスタートからその馬と競り合ってアグリキャップがかかってしまう可能性が高かった。
その場合は無理をせず他馬を風除けにして終いの勝負に徹しよう、と考えた。
地下馬道を抜け、本馬場に出る。
目の前に開けるコースの幅は広い。
安東克己は前検量の時間になるまで何度も見返した今日のレースビデオを思い返す。
外コースの使用回数は少ないとはいえ、内ラチ沿い3頭分くらいの芝は荒れており土が見えて茶色くなっていた。
この点、勝負所で必ずポイントになってくるはずだ。
川洲が曳き手綱を外し、アグリキャップの首の辺りを撫でて「頑張ってこいよ」と声をかけた後、安東にも「安東さん、キャップの底力、引き出してやってくださいよ」と言葉を掛けた。
「おう、わかっとる。あんまムチも使わんように気ぃつけるわ、安心して待っとってくれ」
安東は川洲にそう伝えると、スタートゲートのある4コーナーまで、本馬場を返し馬で向かいつつ芝の状態を確認した。
ゲート入り前に、アグリキャップはやはり立ち止まっていつもの身震いをした。
これによってアグリキャップの気合いが入る。
あらかじめ安東が伝えていたが、初めてその動作を見た新潟競馬場の係員はアグリキャップがゲート入りを嫌っているのかと思い身構えた。
そんな係員に目もくれず、アグリキャップは身震いを終えると、すんなりと自らゲートに収まった。
コッポッ!
ゲートが開くと同時にアグリキャップはスタートを切った。
悪くないスタートだ。
ホームストレートを全馬横一線で走り出す。
その中でアグリキャップの2頭横、8番の名古屋所属のヒロノファイターがハナを取ろうとグングンと前に出て行く。
アグリキャップの隣、9番のガルーダもヒロノファイターと競り合うように前に出ようとしていたが、ヒロノファイターの出足に負けたと判断したのかヒロノファイターの後ろにつく。
安東はアグリキャップを内、9番ガルーダの後ろに寄せる。
外からスーッと上がっていくのは11番キングスター。
更に大外から前に出ていった16番ブランニューデイが足を飛ばし、ヒロノファイターへと競り掛けてハナを主張する。
前はバチバチにヤリおうとるな。
前に出てすぐ内に入れたヒロノファイターより、芝の状態がいい外を通って来たブランニューデイがおそらく脚色からするとハナを取りそうや。
怖いスズエレパードは、ハナの奪い合いには加わっていないが、すんなりと最内で3番手4番手辺りの位置をキープしながら走っている。
今のアグリキャップの位置は、後ろから3番目。
すぐ内の横には2番スプリームボーイ、その内に6番リュウコウチャンプ、と3頭並んだひと塊の一番外側。
だが、内のスプリームボーイらよりは良い状態の芝の上を走れており、アグリキャップも楽に追走している。
アグリキャップの後ろには1馬身程離れて5番ニナガワバーレル、その1馬身後ろにシンガリで15番ファブリック。
豪脚での差し切りを今日も狙っているのだろうか。
第1コーナーから第2コーナー、馬列の隊形は変わらずそのままバックストレートへ。
新潟競馬場のバックストレートも長い。
バックストレートに向いた時、アグリキャップが少し行きたがろうとした。
笠松と名古屋にはこれだけ長い直線はないため、アグリキャップは直線の先にゴールがあると勘違いしたようだった。
まだやで、焦んなやキャップ。
行く気をハミの制御でいなし「まだや」と伝えると、アグリキャップは安東の指示に従いペースを保つ。
全体の隊形は、それほど縦長にはなっていない。
先頭のブランニューデイからアグリキャップまではおよそ7馬身。
3番手、4番手のところで馬群が横に膨らんでいるためだ。
バックストレートで少しでも前にいいポジションを取ろうとして番手争いが激しくなっている。
この位置で、もうしばらく我慢や。
番手争いのせいでペースが少しだけ速くなっとる。
だがどこかで少し緩む。
そこを狙って上がってくんや。
しかしズズエレパード、枠順生かして絶妙にええポジション取っとるな。ブランニューデイから付かず離れず、ヒロノファイターが内に入れんように、前を塞がれんように走っとる。
あれで普通に直線全力で伸び切られたら捉えられるんか。
先頭のブランニューデイが3コーナーに入り、右に曲がっていく。
安東はアグリキャップの位置を、少し前に持って行く。
アグリキャップの横に居た内の2番スプリームボーイはここで遅れ出した。
スプリームボーイを抜かし、9番リュウコウチャンプとの間はあえて閉めずに空けておいた。ここで内に入れば痛んだ芝の上を通らなければならない。
笠松や名古屋ほどコーナーのRはきつくはないが、いずれかの馬が外に膨らんだらそこを突いて行く。
地方競馬とは違い馬群の密集はそれ程ではないので、斜行や進路妨害を取らるか取られないか、ギリギリの隙間でも突いてやろう、さもなくば勝てない、と安東は腹を決めた。
3コーナーに入ると前を行く9番ガルーダと4番メークアブレイブの間に隙間ができる。ここか、と安東は一瞬思ったが、内にいたリュウコウチャンプが見逃さずその隙間に入って行く。
後手を踏んだか。
だがまだあと800mある。
前の馬群の最内9番ガルーダの足色はまだ持っているようだが、中間の緩みない流れで消耗しているようだ。
これは、最内が空く。
安東はそう直感し、アグリキャップを内に持って行く。
前の5,6番手集団は横に広がり抜け出そうとして外に膨らんで行っている。
前を見ると、先頭のブランニューデイの後ろにピタリとスズエレパードがつけており、ヒロノファイターはスズエレパードの外側を苦しそうに回っている。
さらにヒロノファイターの外から13番マキシムビューティが前に出ようとしている。鞍上の刑部は無理には追っていないが、馬の走るリズムに合わせて僅かづつ走りに勢いをつけるように扶助している。
上手いな、と安東は感心するが、そこばかり見ている訳にもいかない。
マキシムビューティの後ろは団子状態だ。
前の馬群を抜けられれば、進路は自由に取れそうであった。
3コーナーから4コーナーのカーブの頂点を過ぎる時、ついに9番ガルーダが外に膨らんだ。
よっしゃ、いただき。
安東は最内に入った。
4コーナー中間で、3番手につけていたヒロノファイターがすぐ前にいる。
直線に向けて、他の馬は馬場状態の良い外に膨らんで出て行っている。
ヒロノファイターは、スタートから飛ばしてきたため脚はもうほとんど残っていない。直線に入る直前にヒロノファイターの騎手の戸部は必死で鞭を振るっている。
ヒロノファイターの2.5馬身前に先頭のブランニューデイ、その後ろにスズエレパード。
直線に入るとスズエレパードが満を持して仕掛ける。
ブランニューデイに馬体を併せるようにしながら前に出る。伸びる。
安東は、4コーナー出口で一杯になりつつあるヒロノファイターを交わすと、アグリキャップに鞭を入れた。
直線では先頭を追う他の馬は芝の良いところを走ろうと外、外に寄って追っている。
一度内に寄ろうとしたガルーダも、緑の芝を求めて外に進路を取っている。
安東とアグリキャップにとって、嘘のように前が
3コーナーまで芝のええとこ走って脚貯めとったんや、キャップ、ここで芝悪かろうと行かなしゃーないで!
つーか、普段はダート走っとるんやから芝めくれとっても、行くしかないやん!
安東は手綱をしごきつつ、もう1度アグリキャップに鞭を入れる。
アグリキャップが、前に沈み込むように低い姿勢で加速する。
――ブランニューデイ、まだ頑張っている、直線入ってまだブランニューデイ先頭!
――スズエレパード、白い帽子がスズエレパード、馬場中央からスズエレパードだ!
「そんな中央でもないやん、ブランニューデイの僅かに外やん」
阿栗は漏れ聞こえる実況に、悪態をつく。
「キャップはどこや」
「内の4番手、今ヒロノファイター交わして上がってくとこですわ!」
「安東サン、黄色いビオラの花でスヨ!」
――スズエレパード、さあ東のGⅠホーススズエレパードが先頭だ、200を切るところ、スズエレパード先頭!
――内ではまだブランニューデイ、粘っているが!
――その後ろから、後ろから一頭、これは10番のアグリキャップ、公営の4歳馬だ!
「ハツラツー、ガンバッテ!」
「いや、もういい、もういいって、十分見せ場作ってるから、お姉ちゃん!」
「ハツラツー!」
セラに場所を譲ってくれた観客は、1-8の枠連でも買っているのか。
――1年と3カ月ぶりのレース、スズエレパード先頭!
――アグリキャップ、ブランニューデイを交わした! 脚色はいい、届くか、届いてしまうのかー!
――スズエレパード先頭か、並んだ、内スズエレパード、外アグリキャップ!
「ハツラツー!」
「行け―!」
阿栗とセラはゴール前の瞬間、声を絞り出した。
声の音圧が愛馬と騎手の背を後ろから少しでも押してくれと願う。
――勝ったのは、アグリキャップ!
――わずかに外、アグリキャップが首を下げたところがゴール板!
――公営の、笠松の4歳チャンピオンが、東のGⅠ馬を差し切りましたー!
「よっしゃ!」
「よっしゃ!」
阿栗と久須美は同時に同じ言葉を叫んだ。
そして顔を見合わせると、どちらともなく握手した。
安東克己はゴール板を過ぎた後手綱を緩め、アグリキャップの首を軽くポーンと叩いた。
思い返すと淀みなく流れるぺースの中で、4コーナーから直線入口までが唯一全体のペースが緩んだところだった。
空いた内に入り、ただ1頭緩ませずに前との差を詰めた。息を入れたのもほんの一呼吸だけ。後の直線は全力で追いっ放しだった。
「ようやったぞ、キャップ。お前、ホントに大した馬や。ようキツイ指示どおりに動いてくれたな。ありがとな」
ついアグリキャップの首を優しく撫でつつ小声で話しかける。
感謝しかなかった。
「今日はやられたよ、あんちゃん。次あったら、こうは上手く行かせんからな」
隣を検量室へ向かうスズエレパードの鞍上、海老沢騎手が安東克己にそう声をかけた。
「1周回って来たらどうだい、滅多にないだろう中央で勝つなんて」
反対側からも声を掛けられたので安東がそちらを向くと、マキシムビューティーの刑部行雄騎手だった。
安東は、胸の奥から熱い感情がこみあげてきた。
喜びだ。
自分の騎乗が、憧れていた中央の騎手たちに、それもGⅠを取った騎手たちに認められたのだ。
嬉しくない筈がない。
安東は思わず顔を伏せた。
安東のゴーグルに、水滴がポツ、ポツと垂れる。
安東の涙だった。
拭こうかとも思ったが、ゴーグルを外せば泣いているのがバレる。
「ありがとうございます、強かったです中央! 馬も騎手も! また、相手んなってください!」
顔を伏せたままそう大声で言うと、安東克己は他の馬たちが検量室へと向かって行く中、ただ1頭アグリキャップを1コーナーに向けた。
アグリキャップをウイニングランさせている間、安東克己はどうやって川洲に涙を見られないようにゴーグルを外すか、そればかり考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます