第16話 パドック
阿栗とセラフィーナは、パドックで久須見調教師とともにアグリキャップと安東克己が周回しているのを見守っていた。
アグリキャップは安東克己騎手を背に、至って普通にパドックを周回している。
今日のメインレースのオールカマーを見に新潟競馬場に足を運んだ観客数は発表されていないが、今週の中央競馬の関東開催は新潟のみのため、かなり多い。
馬の状態を見ようとパドックを見下ろす観客は鈴なりになっている。大声を出すことを制止する案内看板はあるものの、大勢の人間が話すざわめきは、やはり普段とは違った雰囲気を醸し出しており、繊細な馬はそれだけでも落ち着きを欠いている。
「パドックですらこんなにようけ見に来る人が
阿栗はパドックを最後に一周する愛馬の様子が落ち着いているのを見て安心した。
アグリキャップを曳く厩務員の川洲の方が、かえって注がれる視線の多さに慣れず緊張している様子が見て取れる。
アグリキャップは、そんな川洲に首を曲げ頭を擦りつけるような仕草をした。
突然のことに川洲は驚いたが、川洲がアグリキャップの頭を撫でると、アグリキャップは満足したようにまた元のように歩き出す。
「川洲も晴れ舞台で緊張しとるみたいやけど、キャップの方が川洲を落ち着かせようとしとるみたいやな」
久須見調教師がその様子を見て呟く。
確かにアグリキャップに頭を擦りつけられてからは、手綱を曳く川洲の動きはしゃきっとしたようだった。
「ハツラツ、川洲サンの動きが固いノ、面白ガッテます。何ダヨー、どうシタんだよーッテ」
「世話しとる担当馬に心配されとるようじゃアカンな、と言いたいところやけど、まあ川洲らしいっちゃらしいわ。
しかし凄いなセラちゃん、馬の考えてることわかるんか?」
久須見がそう聞くと、セラフィーナは「解かりますヨ。ここのおウマさんタチも色々考えてマス。ウルサイナーって思ってる子もイますし、もう走りたくナイヨーって思っテる子もイマス」と至って普通に言う。
「例えばどの馬は走りたくないって思っとるん?」
阿栗が他の馬主も近くで出走させる所有馬を見守っている手前、周りに聞こえないような小声でセラフィーナに訊ねる
「あの子トカ、あとあの子もそうでスネー」
周囲に配慮した小声でセラが控えめに指差したのは、13番のマキシムビューティと15番のファブリックだった。
「そうか、でもあの馬、GⅠ二つも取ってる馬やけど」
「うーん、前はどうだったかわかりまセンけド、今はソウ思っチャッテるみたいデスネ」
マキシムビューティは確かにエリザベス女王杯の2着後、勝てていない。
一部の競馬マスコミからは確かに闘志の消失を指摘されてはいた。だが大多数の見方は陣営の言うように牡馬との混合レースでも牡馬並みの負担重量を負わされることが要因と思われていた。
陣営は定量戦で牡馬よりも負担斤量が2㎏軽いこのレースに、クラシック期にコンビを組んでいた「西の天才」
馬体重も最後に勝利したローズステークスと同じ594㎏に絞っており、阿栗や久須見の目にはよく仕上がっているように見えている。
また、セラフィーナが指したもう一頭の馬ファブリックは、昨年の皐月賞前哨戦スプリングステークスで、刑部行雄を背に最後方から一気の追い込みで前年の東西3歳チャンピオンをまとめて差し切る剛脚を披露し、一躍クラシックの主役に躍り出た馬だった。
しかしその後は不運もありクラシック戴冠できず、オーナーサイド主導の牧場での調教に繊細な性格が耐えられず低迷を続けていると噂されていた。
だがファンは一度見た閃光のような末脚が復活することを信じているようで、今日も5番人気に支持されている。
セラフィーナの指摘は当たっているようにも思えたが、阿栗と久須美には判断が付きかねた。
「セラさん、走る気マンマンな馬はおるかね?」
「みんなこれからレースダッてことはワカッてますけど、初めテの場所と雰囲気デそれどころジャナイっておウマさんが、けっこう多イですネー。
でも、ハツラツは平気みたいデス。
あと、ハツラツみたいに落ち着いてるおウマさんもいまス。あの子とアノ子でスネ」
「スズエレパードとブランニューデイか。流石に経験豊富なだけはあるってことやなあ」
「スズエレパードは風格ありますな」
「デモ、落ち着きはハツラツが一番デス。早くゴハン食べたいって思ってマス」
「まあでも、キャップはゲート入りする直前に変わりますからな。克己にもさっき今日の乗り方伝えましたし、少なくとも掲示板には間違いなく入ってくれるでしょう」
久須見は自信を持ってそう言った。
美山育成牧場で充実した夏の過ごし方をしたアグリキャップは、元々の地を這うような低く力強い走りが更に力強さを増している。
更にここ新潟競馬場はコースの高低差が2m程度、それも緩やかなものなので美山育成牧場で身に付けたピッチ走法で走る必要もなく、いつも通り走ることができる。
安東克己には、坂道の緩い新潟競馬場のコース特性上、直線が長い割には前が止まらずそのまま残る傾向があるので、スタートからなるべく前目につけるように伝えている。
「安東サン、ハツラツを叩くの控えてくれるとイイんデスけド」
「それはきっちり伝えといた。克己の馬を動かす技術ならムチに頼らんでもやれるはずやからなって」
アグリキャップに騎乗する安東は、今日はJRAから貸与された貸勝負服を着ている。
枠色と同じ黄色の胴、袖地に、白の斜め縞が1本入ったものであった。
「阿栗さん、中央の馬主資格、どうなってるんです?」
「8月下旬に申し込んだけど……突然どうしたん、久須美さん」
「いや、阿栗さんが中央の馬主んなったら勝負服も自分の決めなあかんから、あれどうです? って聞こうかと思ったんですわ」
「地方やったら枠と同じ色の勝負服を騎手が用意するから、確かに今まで勝負服のこと考えたことなかったわ。でもあれはちょっとなあ」
「デモ、あの勝負服、ビオラの花みたいでカワイイですヨ」
「秋の可憐な花みたいに、今日の安東くんとキャップも咲いてくれるとええんやけどなあ」
そう会話する3人の前から、出走馬たちが次々に地下馬道に入って行く。
厩務員の川洲に曳かれて地下馬道に入って行くアグリキャップと安東克己を、3人は期待を込めて見送った。
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