第15話 調整ルームの安東克己




 阿栗が新潟競馬場の係員を探して頼んでみたが、出張馬房地区への立ち入りは許可されなかった。


 その代わりと言う訳ではないのだろうが、出張馬房地区の前のゲートまで案内され、調教師の久須美とは話をすることができた。


「久須美さん、キャップの調子はどうやろか。昨夜の電話では元気やって言ってたけど」


「相当調子は良いですよ。ただまあ、相手も強者揃いだもんでね。どれだけキャップが通用するのか、ワシ自身も見てみたいっちゅうのが本音ですな」


 久須見はいつもの久須見らしくなく、ワクワクしているようであった。


「ダイジョーブですヨ、久須美センセイ。ハツラツは必ず頑張ってくれマス」


「セラちゃん、キャップの言うことわかるんか?」


「わかりますヨ。多分今頃ハ、早くレースを終わらせテゴハン食べたいっテ思ってるはずデス」


「まあ確かに、キャップはメシのことしか考えてないんとちゃうか、て思う事がワシもあるわ。でもレースの本番前んなると気合いが入りよる。ホンマ不思議な馬やて」


「ハツラツ、走ること嫌いじゃないですし、レースに勝つと久須見センセイも厩務員サンも安東サンも喜ぶってワカってますカラ。だから今日もダイジョウブですヨ。

ところデ、安東サンは居ないんでスカ?」


「克己やったら、多分まだ調整ルームにおるんやないかな。あいつああ見えて研究熱心やから、中央のジョッキーの乗り方とかジッと見て研究しとると思うで」


「そうデスカ。ハツラツがあんまりムチで叩かないデって言っテタの伝えヨウと思ったんですケド」


「それやったらワシが伝えとくわ。キャップの蹄、川洲が世話してくれとるおかげでしっかりしてきたけど、なんせ蹴る力強いから蹄鉄の減り早くてけっこう打ち換えせんといかんのだわ。せやからあんまり蹄の負担になる風車ムチみたいなんはやめとけ言うとくわ」


「久須見センセイ、安東サンにヨロシクお伝えくださいネ」


「わかった、任しといてくれ」


 阿栗は初の中央重賞出走にもかかわらず、久須美が過度の緊張をしていないことにホッとした。

 調教助手の毛受に指示したとおりに調教もこなせていたのだろう。やるべきことはやれたという一種の達成感を久須見から感じた。


 あとは見守るのみだ。


「久須見さん、勝ったら今夜は新潟の旨い地酒で一杯やろうや」


「おっ、ええですな。その後は雪国美人のいる店でバーッとひとつ」


「久須美さん、お嬢さんおる前やから」


「いやいや、セラちゃん、こりゃ失礼。ま、とにかく旨い酒楽しみにしといて下さい。じゃ阿栗さん、後程パドックで」


 そう言うと久須美は馬房に戻って行った。

 阿栗とセラは、その姿を見送った。





 調整ルームは騎手がレース前に外部の人間と接触し、八百長などが画策できないように前日から行動を拘束する、そのための場所だ。

 笠松競馬にも当然あり、安東ら騎手はレース前は必ずそこで過ごさねばならないが、はっきり言ってやることが無く暇だ。だから騎手同士で酒を飲んだり麻雀をしたりして時間をつぶしている。


 だが、今日の安東克己は、新潟競馬場の調整ルームの割り当てられた個室にいた。


 以前阪神競馬場で開催された騎手交流競走に招かれ、初めて中央競馬の騎手調整ルームに入った時に、笠松とは違ってきれいなもんや、さすが中央、と感心した。

 更には騎手が空いた時間に研究できるようにということなのか、まだ一般には普及していなかったビデオで中央競馬の過去のレースが見れるようにしていたのには驚いたものだった。

  

 そして安東克己は、今まさに中央競馬のレース映像を見ている。


 これまでの様々な中央競馬のレースを資料としていつでも見れるこの環境は、実は研究熱心な安東にとっては夢のようだった。


 安東克己は、自分の騎乗フォームがあまり綺麗ではないことに密かにコンプレックスを抱いている。

 中央競馬の騎手たちの騎乗フォームは人にもよるが、いわゆるモンキー乗りでもアメリカ式に近い者が多く、前傾した騎乗者の背を馬の背と平行にして空気抵抗を減らす乗り方をする。

 対して安東もモンキー乗りではあるが、上半身をやや起こし、手綱や鐙を通して馬を操るヨーロッパ式の乗り方に近く、見栄えの点では中央の騎手たちに劣る。

 安東の乗り方は笠松競馬での実戦を通じて身についた乗り方であり、急に変えられるものではない。それは安東本人もわかっていたし、逆に中央騎手とは違う自分自身の強みとなっている部分もあると、誇る部分もあった。

 だが、そうした自負と憧れから来るコンプレックスは別物である。

 それこそ、昨夜は好きな飲酒も控えてレースビデオに没頭した。

 おかげで早朝のアグリキャップの調教までに起きるのが大変だったが。


 中央の騎手たち、特に今日のオールカマーで2冠牝馬マキシムビューティーに乗る刑部行雄は、自身の体幹が馬の背とほぼ平行になる見事なフォームで、しかも馬の走る上下動にも体がほぼ揺れることがない。

 それだけでなく、ゴール前では馬を剛腕で押せる。剛柔兼ね備えている。

 騎乗フォームだけで言えば、昨年デビューして新人最多勝記録を樹立し、今年4月に最年少で100勝を達成したという栗東所属の滝夕貴の騎乗フォームは長身を折り曲げて頭が腰よりも低い位置を取っており、美しさと安定性は刑部以上かも知れない。

 だが、騎手としての総合力は刑部がおそらく現在日本で一番であろう。


 今日の開催で刑部は既に2レース騎乗している。そしてこの後の9、10レースにも騎乗し、本日のメインレースである11レース、オールカマーにも騎乗する。

 トップジョッキーならではである。

 それに引き換え、安東克己の本日の乗鞍は第11レース、オールカマー一鞍のみだ。

 地方競馬騎手が、地方招待競走オールカマーで出走する騎乗予定馬以外の中央のレースに乗ることはJRAが認めていないのだ。

 

 安東克己は本日開催のレース映像が上がってくるたびに、それを何度も何度も繰り返し見ていた。

 それは刑部や、他の騎手の騎乗方法の研究というだけではなく、自身にとって未知の場所となる新潟競馬場のコースの特徴や馬場状態を知るためでもあった。

 安東克己にとって、笠松競馬場は言わば庭であり、名古屋競馬場も勝手知ったる他人の家という感覚だ。おそらく名古屋の戸部尚実騎手も笠松と名古屋が逆になる程度で同じ感覚だろう。

 だが、新潟競馬場をはじめ中央競馬の競馬場は、騎乗する機会が全くない安東たち地方競馬の騎手にとっては全く未知の場所になる。

 何度かオールカマーに参加しているベテラン地方騎手なら、例年開催されている中山競馬場であれば何となくコースのクセを覚えているかも知れないが、代替開催となった今年、新潟競馬場で乗ったことのある地方騎手はおそらく誰もいない。

 逆に中央競馬、特に関東の美浦を拠点とする騎手にとって新潟競馬場は勝手知ったる庭になる。更にいえば新馬戦や未勝利戦のレースに乗ることで、刻々変わる今日の馬場状態を実際に確認した上でオールカマーに臨むことができる。

 地方騎手に対して中央の、美浦所属の騎手たちはとんでもなく大きなアドバンテージを持っていた。


 何もせんかったら、めっちゃ俺ら地方騎手に不利やからな。完全ドアウェーや。

 中央の騎手の華やかさには憧れる。稼ぎもええらしい。

 やが、意地は見せんと。意地見せるためには知っとかんと。

 キャップの調子はめっちゃええ。

 今日の調教、レース当日やから軽くキャンター程度やったけど、キャップの脚取りは軽く、輸送の影響は全くないようやった。

 けど、調教ん時も芝が荒れるからって理由で芝コースの内側に入れんように仮柵されとったから、本番で走るコースの様子、実際のところはようわからんかった。

 せやから、映像見て少しでも最新の馬場状態を知らんといかん。

 中央の皆々様を一発驚かしたる、そのために少しでも情報入れとかんとな。



 オールカマーの出走予定は15時45分。

 前検量は70分前からだから、14時35分までに検量室へ行けばよい。

 早い朝食後にサウナで体重を測ったら体重もリミットに収まっていたので、前検量でバタバタすることもない。

 安東がちらりと時計を見ると、13時30分。

 係のもんに、さっきの第7レースの映像上がってたら借りて来よう、と安東は思った。



 いつかは刑部さんや滝に負けんくらいええフォームで乗ってみたいけど、そんなん後回し。

 まず、今日勝つんや。








 

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