第13話 休養中のアグリキャップ
8月に入ってすぐに、馬主の阿栗と久須美調教師が美山育成牧場にやって来た。
目的は当然アグリキャップの状態確認である。
午前中の10時頃に訪れた阿栗と久須美に、芳田は現在のアグリキャップの馬体重や状態を伝える。
「馬体重は495㎏前後をキープしてます」
「東海ダービーから10㎏増やったら、悪くはないな」
「そうですね、臨時で入った従業員が、よくやってくれてます」
「ほうか、どんな人らなん?」
「ドイツで3年程総合牧場で働いてから、今年までは三石の生産牧場に居たそうです」
「ほえー、ドイツかいや。頑丈な馬作る国やっちゅう話やけど」
「アグリキャップも、ここに来てから足元傷めることもなく過ごしてますよ」
三人は話しながら、アグリキャップの放牧地まで移動する。
「おや、他にも休養馬おるんやな」
「そんなに多くはないですけどね。やっぱり笠松で放牧はそんなに定着してないですし、来年は受け入れられるかわかりませんから」
「久須見さん、あれ、フミノノーザンやん」
「ホンマですな。あっちはトウコウシャーク」
「あとはマーチトウホウもおりますけど、私は休養馬には殆ど関わっとらんので、後は担当しとる従業員に説明させますね」
そう言って芳田はアグリキャップの放牧地まで二人を案内すると、引き運動エリアで2歳馬の馴致を行っている布津野を呼びに行った。
阿栗と久須美は、アグリキャップの放牧地の牧柵越しにアグリキャップの様子を眺める。
放牧地のアグリキャップはのんびりと放牧地の草をもぐもぐと食んでおり、尻尾をゆっくりと振って随分とリラックスしている様子だった。
「キャップ、何だか大きくなったようやが、ワシの気のせい?」
「いや、阿栗さん、大きくなっとりますわ。太ったっちゅうんじゃなく、身が入っとります。トモだけでなく前躯もがっしりしとりますわ」
久須見は感心した。
美山育成牧場に放牧に出したのは、アグリキャップにとって気分転換になってくれればいいと思ったからだったが、状態も悪くないどころか、むしろ良くなっている。
「こりゃ、戻してすぐレースに出しても十分勝ち負けしますな。ええ状態保ってますわ」
「久須美さん、あんたの言う通り放牧出して良かったわ」
阿栗と久須美がアグリキャップの様子を見ながら会話していると、やがて布津野がそこに馬具を持ってやって来た。
「なんや、稲穂牧場の……布津野くんやないか。今年どないしたん、稲穂牧場の方はええんかい?」
久須見が布津野にそう訊ねる。
阿栗も布津野を見て驚いている。
「毎年6月末から9月半ば頃にかけては稲穂牧場の方は長期で休みいただいてるんです。今年は育成と休養馬の管理もやってみたくて、こちらにお世話になってます。
そう言えば阿栗オーナーと久須美先生は、今年はいつ頃稲穂牧場へ行かれる予定なんですか」
「来週あたり1度行って、10月アタマにもう一度かな」
「でしたら、フーコの様子見て来て下さいね、元気に育ってるんで」
「スマイルワラビーの87やね。どんな感じ?」
「笠松に牝馬限定戦がもう少しあったら重賞は取れそうだと思いますよ。早めにここに送って下されば馴致も手掛けられるんですけど」
「ん、見に行って良さげだったら、布津野くんに手掛けてもらえるうちにこっち送るように裕司くんと打ち合わせしとくわ。
ところで布津野くん、ここでキャップ、どんな過ごし方させてんの」
「日中はほぼこの放牧地でのんびり過ごしてますね。夕方になってから引き運動をやって、その後30分ほど乗り運動してます。ここの坂道を
坂道に、近くの木材屋さんから出る木屑を細かく砕いたのを敷いてるので脚に負担もあまりかからないようになってます」
「ほうか。飼葉は何やってんの」
「朝と夕の飼葉は
「よう食うけど、食い物が無くならないように自分で工夫しとるんやな。大したもんや。久須美さんとこ預けとるけど、預託料のうちの飼葉代、他の馬に比べて倍かかっとる」
「阿栗さん、そこはしゃーないですわ。飼葉代、あれでも多少オマケしてますから。
ところで布津野くん、鞍持って来とるちゅうことは、いつもやってる乗り運動見せてくれんの?」
「ええ。動きも確認されたいかと思いまして。まあいつも運動してる時間とは違いますけどね」
そう言うと布津野は馬具を持ってアグリキャップに近づく。
アグリキャップは草を食んでいた頭を上げて馬具を持っている布津野を見ると、プイっと馬体を返し布津野からゆっくり遠ざかる。
「どうしたん?」
「いつもは運動したら馬房に戻ってるので、今日はまだ陽が高いのにもう馬房に戻らされるのかと思って
布津野はそう答えると馬具を置いてアグリキャップに近づき、首を撫でながら優しく話しかけている。
アグリキャップは布津野の肩を甘噛みし、まだ拗ねている様子だったが、布津野が丁寧にコミュニケーションを取るとやれやれというように首を緩やかに振った後、穏やかになる。
布津野はアグリキャップに丁寧に馬具を装着すると、ふわりとアグリキャップに跨り、放牧地の中をゆっくりと
しばらく放牧地の中を歩きまわった後、放牧地の外に出て、放牧地の間の坂道を、1kmほど先の林の入口まで
久須見が見るに、渓谷沿いに開かれた美山育成牧場の坂道の斜度はそこそこきつい。TV中継で見る中央競馬のコース、例えば中山競馬場のゴール前の急坂よりも斜度はついていそうだ。
これは、中央競馬に挑戦する前に、いい準備が出来ていると言っていい。
布津野は
飛びの大きい走りが特徴のアグリキャップだが、この斜度のきつい坂道は飛びを抑え気味にしたピッチ走法で足の回転を小回りにして駆け上がっていく。
布津野とアグリキャップが坂道を何往復かして放牧地の前まで戻ってきた時、久須美は「布津野くん、最後に1本、全力で上がってもらえんか」とついリクエストした。
「調教助手さんみたいには行かないかも知れませんが、それでもいいですか」と布津野は了承した。
「ほんなら、ワシ、林んとこまで行って手を振って合図するから、合図が見えたら走らせてくれ」
そう言うと久須美は坂道を林に向かって昇り出す。
気が急いているのか小走りだ。
「オーナー、ここの坂道、けっこうダラダラ上ってますから、オーナーはここで待ってらした方がいいですよ」
布津野は一度アグリキャップから降り、
「久須見さん、ワシはここで見とるから」
阿栗はそう久須見に呼びかけ、坂道を昇らずに放牧地の牧柵のところで待つことにした。
「そういや布津野くん、ワシ、一度アグリキャップを売ろうと思ったことあったんやけど、そん時に君とセラさんが小声で話してたん思い出して、思いとどまったんや。君、覚えとらん?」
「そんな、オーナーに聞こえるようなひそひそ話してたんでしたら申し訳ないです。今後は二度としないようにします」
「あ、そんなかしこまらんでええよ。布津野くんとセラさんを責めとる訳やない。それに布津野くん覚えてなくても、ワシにとってはキャップに向かい合う自分の姿勢、思い出させてくれた一言やったんや。むしろ感謝しとる。
放牧明けたらキャップを中央のオールカマーで試す。
ワシも中央の馬主資格取って、東海公営だけでなく、中央のレースで力発揮させてやりたいって思っとるんや。
せやから、布津野くん、キャップをええ状態で休ませてくれてありがとな」
「俺だけの力じゃないです。任せてくれてる芳田さんや手伝ってくれるセラのおかげでもありますし。
それにキャップには愛して応援してくれる人の想いを背負って走る力がきっとあるんです。阿栗オーナーが一番キャップのことを想って愛してくれてるんですから、それがキャップの力になるんだと俺は思います」
阿栗が思わずくすぐったくなるようなことを布津野は言う。
「そんな、えらい大袈裟なこと言うて」
布津野は再びひらりとアグリキャップに跨ると、アグリキャップの首筋を撫でながら「キャップもそう言ってますよ」と返答した。
アグリキャップも阿栗の方に首を向け、プルルルルル……と鼻を鳴らした。
「ホンマにかいや……」
阿栗がそう呟くや否や、布津野を乗せたアグリキャップは走り出した。
坂道を林の入口まで上り切った久須美が、大きく腕を振ってスタートの合図を出したからだ。
アグリキャップに乗る布津野は、騎手のようなモンキー乗りではないが、アグリキャップの走る動きに合わせて膝でバランスを取りながらアグリキャップの負担にならないように上手く騎乗している。
坂道の半分くらいの地点からは、全力で駆け上がっているのが阿栗から見てもわかった。
坂道を林の入口まで駆け上がったアグリキャップに少し息を入れさせている間に、布津野に代わり久須美がアグリキャップに乗り、坂道を
布津野は若いだけあってアグリキャップの後ろから走って付いてきている。
アグリキャップに乗った久須美と布津野がゆっくり坂道を下って放牧地で待つ阿栗の前まで戻って来た。
アグリキャップから降りた久須見は、阿栗に言う。
「時計の秒針で計ったんで正確じゃないですけど、なかなかええタイムで走ってますわ。だいたい5
阿栗さん、キャップをここに8月下旬まで預けとってもええと思いますわ」
「そうなんか? ワシゃようわからんけど」
「中央の、栗東トレセンに出来たっちゅう坂路トレーニングみたいなもんですわ。あれも関東のレース場に関西馬が行った時にコースの坂でタイムが出んからって作ったって聞いてます。まあ効果あるかはまだ何とも言えんて話ですけど、少なくとも平坦な笠松で調教するよりかは、ここで坂道昇らせとった方が中央のレース対策にはなると思いますわ」
阿栗は久須美調教師の言葉にうなずいた。
「布津野くん、8月下旬までキャップの世話、よろしく頼むで」
8月25日に、アグリキャップは笠松の久須美厩舎に帰厩した。
濃尾平野のど真ん中の笠松は、平野の気候のために暑さは厳しいが、アグリキャップが帰厩した頃には幾分か暑さも和らぎつつあった。
厩務員の川洲は、2か月振りに会う担当馬が、ひと夏を超えてずいぶんと成長したのを感じていた。
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