第12話 美山育成牧場




 アグリキャップは、7月3日朝の軽い調教後に美山育成牧場に向けて出発した。


 厩務員の川洲は、アグリキャップが入厩して以来初めて長期間アグリキャップが手元を離れるため、何となく落ち着きがなかった。


 馬運車にアグリキャップを入れた後、自分も付いていきそうな様子だったので、見かねた久須見調教師が「こら、川洲! お前が行ったら誰がお前の他の担当馬の世話するんや! こっちゃこい、たわけ」と叱りつけなければならなかった。

 馬運車が見えなくなるまで見送る川洲を見て、久須美調教師はホンマに担当馬思いのええ厩務員になってくれたもんや、と内心では喜ぶ。


 そして、心の中に通常時の美山育成牧場唯一の育成スタッフ芳田を思い浮かべ、頼むからキャップを際限なく太らせたりせんでくれよ、と祈った。

 最近のアグリキャップの調教メニューや要望などは記入して送っている。

 休養明けに少なくとも普段の調教が出来る状態で戻ってきて欲しい。


 一度は阿栗さんと様子見に行っといたほうがええかも知れんな。


 久須見はそう思い、後程阿栗に連絡しようと考えた。





 いやー、ええ二人に来てもらえたもんや。

 五島さん、どっからこの二人見つけてきたんやろ?

 出来たらずっといてくれんもんかな。


 美山育成牧場の常駐の馴致スタッフである芳田健治は、まだ生産牧場から移って来たばかりの2歳馬の馴致を行いながら、この夏限定で働き出した布津野顕元と、セラフィーナ=ヒュッティネンの様子を眺める。


 美山育成牧場に2歳馬が入って来るのが本格的になるのは9月を過ぎてからになる。

 だから6月末から9月末までの限定で2人のスタッフを雇うと五島さんに言われた時は、なんでそんな暇な時に人雇うんや、意味わからん、と芳田は内心反発していた。

 ただ、実際に布津野顕元が6月末に美山育成牧場に来て働き出すと、見方は変わった。

 何と言っても馬を落ち着かせるのが上手い。

 多かれ少なかれ馬は臆病な生き物だ。

 臆病故に気になるものに対して攻撃的になったり、逃げようとして慌てて暴れまわったりする。

 2歳馬にとって、環境が変わった中で近づいてくる見知らぬ人間などは警戒されるのが当然なのだが、布津野が移って来たばかりの馬に近づいても、馬たちは警戒をせず受け入れて、触られると身を委ねるかのよう布津野に寄り添う。

 

 布津野のおかげでずいぶんと馴致が順調に進行しているので、例年よりも相当に2歳馬が仕上がるのが早い。引き綱馴致を芳田が行っても、止まる、曲がるの指示がすんなり入る。

 

 「きみ、稲穂牧場以前どっかでやっとったの?」


 一日の終わりに馬をブラッシングしながら芳田が布津野に訊ねる。


「大学を出てからドイツの牧場で3年程働いてました。生産も育成もやってるところだったので、いろいろ学ばせてもらいました」


 やっぱり経験者だったか、と一応芳田は納得した。

 布津野は、経験者にありがちな驕りめいた言動も見せることもなく、常に芳田を上長として立てる姿勢だったし、本人と話してみると、口数は少ないものの案外気さくな部分もあった。

 芳田は普段二人きりで仕事をしなければならない相方の布津野を気に入った。


 そして、もう一人、7月に入って遅れてやってきたセラフィーナ=ヒュッティネンに関しても、見た目とは違いよく働くことに感心した。


 セラフィーナ=ヒュッティネンが初めて美山育成牧場に来た時、芳田は牧場の玄関前でアグリキャップを乗せた馬運車が到着するのを待っていた時だった。


 水色ワンピースのサマードレスを着用し、その服装にはやや似合わない大き目のバックパックを肩にかけた金髪の女性が牧場の門から芳田に近づいて来るのが見えた。

 山から吹き下ろした風がサマードレスと金髪のロングヘアをたなびかせている。

 芳田の姿を認めたのか、途中から小走りで駆け寄って来るその姿を、芳田はどこか異国の姫君がやってきたのかと思い、まじまじと見つめてしまう。

 

「コチラ、美山育成牧場ですカ」


 駆け寄って来たセラフィーナに訊ねられた芳田はどぎまぎしてしまう。

 風に乗って、セラフィーナのさわやかな髪の香りが芳田の鼻をくすぐったからだ。


「美山育成牧場ですけど、あなたがセラフィーナさん?」


 緊張してややぎこちなく丁寧に返答する芳田。


「ハイ、そうデス! 今日カラこちらにお世話になりまス、セラフィーナ=ヒュッティネンデス、どうぞよろしくお願いシマス」


 その時、丁度アグリキャップを乗せた馬運車が美山育成牧場に到着した。

 セラフィーナに先に事務室に行って待っているように言うと、芳田はアグリキャップを馬運車から出すため、馬運車まで行く。


 馬運車からアグリキャップを降ろした後、馬柵に繋いで馬運車の運転手と事務的な手続きを行っていると「ハーツラツー!」と声が聞こえる。 

 芳田が声のした方を振り向くと、セラフィーナがアグリキャップの首に抱き着いていた。

 アグリキャップも尻尾をブルンブルンと震わせて喜んでおり、セラフィーナの顔をペロペロと舐め回しだしている。

 輸送の疲れを感じさせない元気さだった。


 「ハツラツ、久しぶりダけど元気ですネ。私も会えテ嬉しいでスヨ」

 

 着ているサマードレスがアグリキャップの毛やよだれで汚れることも気にせずにセラフィーナはアグリキャップとじゃれついている。

 せっかくの再会だし、馬房まで連れて行くのをセラフィーナに頼もうかと芳田は思った。


「セラフィーナさん、来て早々で悪いけど、アグリキャップを馬房まで一緒に連れてってもらいたいもんで、着替えてきてくれん? 事務室誰もおらんで使ってくれてええから」


「ハーイ、わかりマシタ。私のことはセラでいいデスヨ。すぐ着替えて来マス」


 そう言って駆け出すセラフィーナは、まるで子供のようでもあった。


 不思議な異国の娘さんだな、と芳田は思ったが、その日以降、汚れることを気にせず馬に対して常に笑顔で接し世話をするセラフィーナのことは認めざるを得なかった。



 アグリキャップは美山育成牧場に来てのんびり過ごしている。


 基本的にアグリキャップの放牧中の世話をするのは布津野かセラだが、二人とも他の2歳馬の馴致も行うので日中のアグリキャップは割り当てられた放牧地で草を食んで過ごしていることが殆どであった。

 2歳馬の馴致が終わった夕方近くの頃に、布津野かセラがアグリキャップの引き運動をゆっくりした後で装鞍して騎乗し、乗り運動を30分程度行う。

 渓谷沿いに開かれた美山育成牧場の敷地内の斜面を駆け上がり、降りる。

 平地の笠松競馬場内で行われる調教とは違い、アグリキャップにとっても自然の中での乗り運動は気分転換になっているようだった。


 一日が終わり夕方の飼葉を付けた後、セラが馬房でアグリキャップの全ての脚を丁寧にマッサージする。

 その時のアグリキャップの表情は目を細めて気持ち良さそうであり、ともすると口をだらしなく開けて眠ってしまいそうになっている。


 2歳の頃に見た時からマイペースな馬だと思っとったが、今でも性格は変わってないようやな。

 この様子を見るに、生まれた牧場でようけ人に愛情かけて世話してもらっとったのが良かったんやろう。

 俺も、妙にマイペースなこいつのことが気になってつい他の馬よりも手をかけることが多かった。

 懐かしいな。

 

 芳田は2人の馬を扱う姿勢と技術が卓越しているので安心して任せていた。

 久須美調教師からは体重増加を心配されていたが、今のところ馬体の成長に見合った体重増加の範囲に収まっていた。


 やがて8月に入ってすぐのある日、久須美と阿栗が連れ立ってアグリキャップの様子を見に美山育成牧場にやってきた。


 

 

 





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