第11話 ローテーション決定





 突然の阿栗の言葉だったが、久須美調教師は何となく予想はついていた。

 

「もう笠松に敵はおらん、そういうことですか」


「そうや。東海ダービー見とって思ったんや。キャップにとってもう東海公営は狭い。普通に走ったら敵はない。せやから普通に走らせてもらえん。そんなん、キャップにとってええこととは思えんくなった。ワシが、ワシのエゴがキャップを狭いとこに閉じ込めとる、そう感じるようになってしまったんや」


 その阿栗の言葉と同じようなことは、久須美調教師自身も東海ダービーのレース中に感じていた。

 アグリキャップは、東海地区の4歳馬としては強すぎるのだ。結果として東海ダービーはハナ差勝利だったが、道中何があってもアグリキャップを自由にはさせないという周囲の思惑の結果だった。


「……まあ、ワシも阿栗さんの気持ち、わからんこともないです。やっぱりあのレース中はワシもちらっと同じような考え、頭よぎりましたからな。でも……やったらどうするつもりなんです? キャップを誰かに売るんですか」


「いや……少しそれもよぎりはしたが……」


佐梁さはりがまた売ってくれって言うてきたんですか」


「いや、佐梁さんからもまた話あった。けど、まだ噂に過ぎんけど佐梁さんとこの会社、脱税しとるんやないかって言われとってな。さすがに馬主資格がどうなるかわからん。そんな人んとこ譲るわけにはいかんよ。

 ただ、何人か他の馬主から話はあったんよ、東海ダービー後に。

 でも、ワシは去年一度売却話を蹴った時、もうキャップを誰かに委ねようとは思わんどこうって決心したんや。せやからワシ自身が中央競馬の馬主資格取ろうと思っとる」 


「もう、手続き始めとるんですか」


「いや、今は色々と調べとる。鷹橋たかはしさんに相談乗ってもらって」


「そうですか」

 

 阿栗が相談しているという鷹橋たかはし義和よしかず氏は、トウコウシャークの馬主であるが、中央競馬の馬主資格も持っており、中央ではマルヨウという冠名で所有馬を走らせている。

 トウコウシャークもやはり岐阜王冠賞に登録しているが、もしかしたら鷹橋氏はその後中央に行かせる腹積もりなのかも知れないと久須見は思った。


 同じ笠松で走っていた馬たちが、次々に力を試しに中央に旅立っていく。

 その馬たちよりも力のあるアグリキャップを、中央で力を試させてやりたいというのは馬主として当然の気持ちであろう。

 久須美は、昨年のように反対するつもりはもうなかった。


「阿栗さん、阿栗さんの気持ちはようわかりました。一度はキャップの売却も思いとどまってくれて、おかげで念願だった東海ダービーも取らせてもらえて、ええ思いさせていただきました。ワガママ聞いてもらってありがとうございます」


 久須見は、改まった口調で阿栗に感謝を伝えた。


「阿栗さんが中央の馬主資格を取ってキャップを中央に持って行くんなら、ワシは快くキャップを送り出せます。ただ、実際中央の馬主資格、書類出して申し込んで、どれくらいで取れるもんなんです?」


「鷹橋さんの話だと早くて3カ月、普通なら半年くらいって言ってたわ」


「それやったら……阿栗さん、一回中央でキャップの力試ししときましょうか」


「久須見さん、どういうことや」


「9月18日に、中央の地方競馬招待競走のオールカマーがあります。そこにキャップを出すんですよ」


「そうか、オールカマー……」


「一昨年、名古屋のジョウタローが1着取ってます。ここで掲示板内に入着出来んようなら、キャップには中央走る力無いってことになりますわ。ほしたら無理に中央移籍せんでも良くないですか。それに」


「それに?」


「阿栗さん、キャップが笠松最強っていうの、まだ早いってことですわ。古馬の最強馬と、まだやってないやないですか」


「……フェートローガンか」


「そうです、フェートローガンですわ。あれも鷹橋さんの馬ですけど、中央のダートのオープン戦勝ってます。芝だと走らんから中央じゃ厳しいって笠松走らせるようになって連戦連勝ですわ。あれと一度でも当たっとかんと、キャップが中央行ってもフェートローガンから逃げたとか言われかねんと思いますよ」


「……いや、鷹橋さんはそんなこと言わんと思うけど」


 阿栗は2杯目のゴッドファーザーを既に干している。

 酔いが大分回ってきているのか、口数が少なくなってきている。

 

 久須美は、阿栗がアグリキャップを中央で走らせることに関しては賛成している。

 ただ、阿栗の話を聞く限りでは、まだ中央転厩は具体的な段階ではない。

 おそらく、今から申請したとしたら来年アタマに中央に転厩するような形になるだろう。それまでの半年、阿栗が東海公営のレースにアグリキャップを出さないというのは、阿栗の気持ちはわかるが感情論に過ぎない。

 調教師としては、馬主が混乱している以上、馬主の気持ちに沿った具体的なローテーションの提示をしなければならないと考えた。


「阿栗さん、岐阜王冠賞は見送ります。ほんで、ここまで走りづめだったキャップに、少しご褒美ってことで放牧出してやることにしましょうか」

 

「……ほんで、放牧明けにオールカマー行くっちゅうこと?」


「そうゆうことですわ。まあ放牧なんて滅多に出せませんが、今年は五島ごとうさん調教師の奥さんがやってる美山の育成牧場、夏の間だけ人手を雇ったってことなんで、キャップを放牧に出すには丁度いいですわ」


「そう言えば、何か知らせ来とったな」


 美山育成牧場は、イナバヤマオーの調教師である五島義重調教師の妻が笠松馬主会の後援を受けて開設した育成牧場で、山県郡美山町で主に笠松に入る2歳馬の馴致を行っている。

 アグリキャップも2歳の10月から3カ月強、美山育成牧場で馴致を受けて久須見厩舎に入厩した。

 いわばアグリキャップにとって第二の故郷のようなところだが、いつもは従業員が1人しかおらず、30頭近い2歳馬の馴致を一手に引き受けていたため、とても現役競走馬の休養を引き受けることはできなかった。

 だが、今年は6月後半から9月頃まで馴致を行う従業員を増員したので、休養馬も何頭か受け入れられると馬主会の構成員には書面が送付されていた。

 阿栗は笠松馬主会の理事を務めていたため、当然通知は届いている。

 ただ、東海ダービー後の忙しさのため、うっかり失念していたのだ。


「8月の盆明けまで放牧に出して、帰厩後みっちり鍛えます。ほんで9月18日にオールカマー。地方馬最先着ならおそらく地方招待枠でジャパンカップ招待されるでしょう。一着取れたら文句なしですわ。ジャパンカップは確か11月の最終週なんで、間が随分と空いてしまいますから、10月中に1戦オープン叩いて、ジャパンカップの前に、11月3日の東海菊花賞でフェートローガンをへこましたりましょうや」


「ジャパンカップて……いきなり国際GⅠやないか」


「そらそうですよ。ジャパンカップで10着以内に来れたら、キャップは世界の馬ん中で10傑ですわ。中央でも立派にやってけますし、世界だって照準に入れられますよ。

 最も、全てはオールカマー次第ですけども」


 阿栗は酩酊していた。

 酔った意識で久須見の提示するローテーションを聞いていると、自分の馬アグリキャップの背中に羽が生え、世界に向かって羽ばたいている映像が見えたような気がした。


「久須見さん、よっしゃ、それで行こうやないか。ワシの手で、キャップを世界に羽ばたかしてやるんや」


「阿栗さん、そう言っていただけるのは調教師冥利につきます。乾杯しましょか、キャップの今後に向けて」


「ああ、そうやな。すまん、悪いけどもう一杯同じの頼むわ」


 阿栗がバーテンにもう一杯同じものを頼むと、久須美が「すまん、ワシももう一杯同じのと、あとチェイサーも頼むわ、二人分」と水も頼んだ。

 阿栗が明日起きた後、先程の会話を忘れて貰っていては困ってしまう。

 水を飲んで、しっかりしておいてもらわねばならない。


 注文の酒が出されると、久須美は阿栗にまず水を勧め、飲ませた。

 阿栗が美味そうに喉を鳴らして水を飲む。


 そんな阿栗を見ながら、久須美は一方でオールカマーに惨敗した場合のことも考えていた。

 放牧するといっても休養馬受け入れの実績が無い美山育成牧場では、どんな状態でアグリキャップが戻って来るかわからない。

 カイ食いの良いアグリキャップのことだから、ヘタしたら馬体重が500㎏を超えてしまい、まるで牛のようになっていることも考えられる。

 そんな状態で中央の招待レースに勝てるかどうか。

 ただ、オールカマーを勝てなかったとしても、東海菊花賞でフェートローガンと勝負になる状態までは持って行ける。

 そして、ジャパンカップ出走権が取れなかったとしても、11月20日に岩手県の水沢競馬場で開催される各地方競馬のダービー馬が集まるダービーグランプリか、地元笠松で11月23日に開催される全日本サラブレッドカップのどちらかには出せる。

 アグリキャップなら、いずれかは勝ち負けになるだろう。


 いずれにせよ、オールカマー次第というこっちゃ。

 

 「ほな、キャップの未来に乾杯しよか」


 少し酔いの醒めた阿栗がそう言ってグラスを手に取っている。

 久須美調教師もグラスを掲げ、合わせた。


 「乾杯」


 ハイボールを味わいながら、久須見調教師はとにかくやれることをやろう、と気持ちを引き締めた。




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