第10話 作戦会議という名のサシ飲み
阿栗孝市は、久須美征勇調教師と話をしなければならないと考えていた。
だが、『東海ダービー』にアグリキャップが勝利したことで、しばらくは多忙のため、なかなか時間が作れない。
いや実際のところ、久須美調教師とは数日おきに顔を合わせてはいる。
『東海ダービー』にアグリキャップが勝利した6月8日当日の夜も、調教師の久須美征勇とは名古屋の錦に繰り出して飲んではいた。
ただ、騎手の安東克己や生産者の稲穂裕司らの面々も一緒で、アグリキャップの今後のローテーションについて真面目に話すこととはならなかった。
どうしても、勝利の歓喜が大きくて景気の良い夢物語に話は膨らんでしまうからである。
また、『東海ダービー』にアグリキャップが勝ったため忙しい、というのは馬主関係者や、地元関係者への感謝のパーティであったりを頻繁に開催しないといけないからだったりする。
それらのパーティにも久須見調教師は出席しているのだが、なかなか阿栗と二人でじっくり話す時間は取れない。
お互いにホストのようなものだし、久須美調教師にとっては営業機会ということもある。
新たな馬主との知己を得て久須見厩舎へ持ち馬を預けるよう交渉したり、地元の有力者で笠松競馬に興味を持った者にセールストークをしたりといった活動は、やはり厩舎を経営する責任者としては力を割かない訳にはいかないのだ。
ようやくそうした外向けの祝勝パーティがひと段落した6月下旬。
久須見厩舎のスタッフに対しての慰労会をようやく開催する運びとなった。
普段から馬の世話を担う厩務員たちの、普段の苦労をねぎらってやりたいと阿栗は思ったのだ。
特にアグリキャップ担当厩務員の川洲は『東海ダービー』勝利の夜、打ち上げには参加していなかった。アグリキャップの馬運車に同乗し、一緒に笠松の久須美厩舎まで戻ってアグリキャップの様子を見ていたためだ。
アグリキャップはレース当日の夜は何ともなかったが、次の日から左前脚付け根にコズミが出ていた。そのため川洲はほぼ毎日アグリキャップに付きっ切りとなっていた。
東海ダービーから2週間程度経った1988年6月24日(金)。
名古屋開催も終わり久須美厩舎のスタッフがほぼ全員出席できるタイミングを見て慰労会をようやく開くことが出来た。
阿栗行きつけの小料理屋の一室を貸し切った、ざっくばらんな席。
阿栗が川洲に労いの言葉をかけると、川洲は酔いが回ったこともあってか感極まって涙を流した。
「キャップは、僕が担当した馬の中で一番強くて、一番賢くて……とにかくあんないい馬を預けて下さった阿栗オーナーと、あんないい馬を任せてくれた
「川洲くん、何言うてんの。キャップがあれだけよう頑張って走れてんの、川洲くんがずっと親身に世話してくれとるおかげやて。ホンマありがとな」
阿栗がそう返すと、川洲は今度は嬉しそうにキャップの普段の様子を話し出す。
レース後であっても飼葉食いが落ちない、普段から他馬の3倍は飼葉を食べる、蹄の裏掘りをする時も素直に足を上げてくれて手がかからない、厩舎で他馬が落ち着かず物音を発てていても我関せずで気にしない、などだ。
担当しているキャップを自慢したくて仕方がないらしい。
周りで飲んでいる他の厩務員たちは、また川洲の担当馬自慢が始まったよ、と苦笑しながら聞いているが、決して嫌味や妬みを感じさせる態度ではなく、普段から川洲厩務員が周囲の人間に好感を持たれている様子もうかがえた。
連日のキャップの世話で疲れていた川洲は、2時間程度の慰労会だったが、お開きの時には酔いつぶれてしまった。
阿栗はタクシーを手配し、他の厩舎スタッフに川洲の世話を頼むと、まだピンピンしている久須見調教師を次の店に誘った。
阿栗は落ち着いて飲めるバーを2軒目に選んだ。
バーのカウンター席に隣り合って着席し、オーダーする。
久須見調教師はハイボール、阿栗はゴッドファーザー。
久須見調教師は阿栗のオーダーを聞いて「こりゃあ、いつもとちゃうな。けっこう深刻そうな話をされそうや」と感じる。
ウイスキー3をアマレット1で割ったゴッドファーザーは甘くふくよかな口当たりに反して強く、おそらく阿栗は酔いたいのであろう。
しかも、阿栗と久須美調教師はよく“作戦会議”と称して阿栗がボトルを入れているなじみの高級クラブで毎回飲んでいたが、わざわざホステスが付かず二人きりで飲めるバーに来たということは、楽しく夢を語りながら飲むのではなく、それなりにシリアスな内容の話をしたいということなのだろう。
東海ダービーの勝利に二人で乾杯した後、ゴッドファーザーにちびりちびりと口を付けるだけでなかなか口を開かない阿栗。
「阿栗さん、改まって話したいことって何です?」
久須見調教師がそう水を向けても阿栗はなかなか口を開かない。
1杯目を飲み干し、2杯目をオーダーする頃、ようやく阿栗が口を開く。
「……祝勝会で色んな馬主と話した。これまで祝う立場でしか出たこと無かったんやけど、あれやな、祝われる立場ってのもなかなか大変や。簡単に酔う訳にもいかんしな。久須美さん、どお? 馬預けてくれそうな人、おった?」
「まあまあ、競馬に興味持ったて言う社長さんもおりましたよ。とりあえず夏、バカンス替わりに牧場巡って仔馬見てみるくらいなら付き合ってもええかって人も何人か」
「良かったやない。牧場巡り堪能してススキノのネオン街でパーッとやって……」
「まあ、ワシの生き甲斐ってゆうたら、ネオン街でパーッと騒ぐことなんでね。だもんで、勝ってくれそうなええ馬見つけると、頭の中にこう、ネオンがパーッと瞬くのが見えるっちゅう感じになるんですわ。キャップなんかまさにそうでしたわ」
阿栗は2杯目のゴッドファーザーに口をつけつつ久須美の言葉を聞く。
そして、吐息を
「小田中さん、フミノノーザン売ることにしたらしいわ」
フミノノーザンは東海ダービーでアグリキャップのハナ差2着だった牝馬だ。
久須美はそれを聞いて軽く驚いた。
「阿栗さん、でもフミノノーザン、確か岐阜王冠賞に登録しとったよ」
「岐阜王冠賞が笠松最後らしいわ。岐阜王冠賞が終わったら伊佐野さんに売って、中央で走らせるそうや」
岐阜王冠賞は7月10日(日)に笠松で開催されるダート1900mの4歳馬限定の重賞レースだ。
実のところ、久須美はアグリキャップの次走を岐阜王冠賞と考えており、今日は阿栗にその確認を取ろうと思っていた。
「フミノノーザンの移籍話はちょいと驚きましたけど、阿栗さん、キャップの次走はその岐阜王冠賞でどないですか」
「キャップのコズミ、ようなっとるの?」
「ええ、まあ。今週に入ってから軽い引き運動開始してますわ。来週からは調教の強度も上げられそうなんで、岐阜王冠賞にはギリ間に合う見通しですわ」
久須見調教師の言葉を聞き、阿栗はクイッとグラスの中の琥珀色の液体を多めに口に含み、ごくりと飲み込んだ。
そして、ようやく意を決したかのように話し出す。
「久須見さん、すまん。キャップはもう笠松、いや東海のレースには出さんとこ思うとる」
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