夏の過ごし方

第9話 夏に向けての稲穂牧場




 稲穂裕司はアグリキャップの『東海ダービー』観戦から実家の稲穂牧場に戻ると、以前にも増して意欲的に働くようになった。


 その日々の働きぶりで大きく変わったことは、笑顔が多くなったことだった。

 それは、父親の富士夫も母親のシズ子も感じ取っていた。


「夜飼い付けてきた。今年のとねっ仔は皆元気いいな。食欲が凄い。皆よく食って、立派な馬格になってくれそうだ」


 母屋に戻って来た裕司は嬉しそうにそう話す。


 シズ子もそんな裕司の様子が嬉しくなる。

 息子が闊達に笑って仕事から戻って来る。そんな些細なことが幸せに感じる。そう感じられることは本当に長いこと無かった。

 自分が病に倒れた時に、絶望感から裕司につらく当たってしまったこともその一つの要因だった。

 それを思うとシズ子は申し訳ない気持ちがこみあげて来るが、裕司と一緒に戻って来たセライフィーナ=ヒュッティネンがそんなシズ子に声をかける。


「お母サン、『Die Zeit heilt alle Wunden』デすよ」


 不意にそう言われシズ子は聞き返す。


「でぃ、でぃざいと?」


「『時は全ての傷を癒す』ってドイツのことわざですよ。副社長の表情が一瞬陰ったから、セラが元気づけようとしたみたいです」


 やはり共に夜飼いから戻った布津野顕元ふつのけんげんがシズ子に言葉の意味を教える。


「セラちゃん、心配してくれてありがとう。何か幸せ過ぎて怖いって、ちょっと思っちゃったの」


 シズ子がそう伝えるとセラフィーナは明るく笑いながら言う。


「ハハッ、お母サン心配しすぎデス。今年の仔馬サンたちは元気イッパイでス。きっと調教師サンや馬主サンのお目に適っテ、みんナ立派な競走馬にナってくれますカラ」


 そのやりとりを聞いていた裕治は、本当に母親は元気になったな、と改めて感じる。

 シズ子の脳出血はクモ膜下出血で、あと数時間処置が遅れていれば助からなかった。

 一度壊死した脳細胞は再生しないため、疾患自体は治癒しても右半身の麻痺と言語障害といった後遺症が残っていたが、今ではそれもほぼ治っている。

 本当にこうして見ていると、5年前のことが嘘のように思える。


「裕司、夜食用意してあるから、ふっくんとセラちゃんと一緒に食べちゃいなさい」

 

「わかったよ、母さん。布津野くん、セラさん、手を洗って食堂へ行こう」


 裕治は笑顔で二人に声をかけた。




「布津野くんとセラさんは、今年も6月末頃まででいいのかい」


「そうですね、社長には了解してもらっているんですけど、今年は僕だけちょっと先に稲穂牧場を離れます。セラは6月いっぱいですね」


 稲穂家の食堂で夜食を摂っている時に、稲穂裕司は布津野顕元に今後の予定を尋ねたところ、そうした返答が帰って来た。

 裕司たちと一緒に夜食のおにぎりを頬張っていた父の富士夫が、咀嚼しながら黙ってうなずく。

 裕司の母シズ子も、食卓につく面々の前に置いてあるコップの麦茶を注ぎ足しながら静かな笑みを浮かべており、知っていたようだ。


 毎年、布津野顕元とセラフィーナ=ヒュッティネンは繁殖牝馬の出産が終った6月半ばから稲穂牧場を離れ、9月初めに戻って来るというのが毎年のサイクルだった。

 6月後半から9月にかけては、その年産まれた仔馬たちを母馬から離乳させる時期に当たる。

 早く離乳が済んだ仔馬に関しては、6月後半から7月には育成牧場に移るものもある。

 この時期は人手はあればあったで欲しいが、母体管理や種付け、出産の時期に比べると比較的融通が利く時期でもあった。


 毎年布津野顕元とセラフィーナ=ヒュッティネンの二人がこの時期に稲穂牧場を離れるのは、稲穂牧場の人件費負担を考えてくれてのことだろうな、と裕司は思っている。


 2人は稲穂牧場の従業員とはいえ、多業種に比べてそれほど良い賃金を出せている訳ではない。

 世間的には日本中が空前の好景気に沸いている。

 中途採用でも手取り20万円を超える企業は探せばいくらでもある。

 そんな中、その3分の2程度の金額で熱心に働いてくれている2人には感謝しかない。

 

「布津野くん、今年は早めにここ離れて、何かする予定があるのかい?」


 稲穂裕治は気なしにそう尋ねた。


「そうですね、今年はちょっと育成牧場の方の仕事もやってみたいと思ってまして、岐阜県の美山育成牧場さんに3カ月弱お世話になろうかと思ってます」


「セラさんは7月から母国に戻るのかい?」


「イエ、私も7月からケンと一緒に美山育成牧場に行きマスヨ。ケンが離してクレないんでス」


「何言ってんだセラ、俺一人で行くつもりだったのに黙って後から申し込んだんじゃないか。美山育成牧場の五島ごとうさんにセラのこと聞かれてびっくりしたよ」


「ケンが水臭いんデス。教えてくれナいなんてひどいデス。遠い異世界ニか弱い乙女を1人で放っぽり出すなんテ、ゴブリン以下の邪悪の権化でスヨ」


「何言ってんの、セラは残っててくれてもいいんだよ。社長も副社長も専務も家族同然に受け入れてくれてるんだし……最も社長たちが良いと言ってくれた場合だけど。それにまた秋には俺も戻って来るんだから」


 布津野顕元は、富士夫のことを社長、シズ子を副社長、裕司を専務と呼んでいる。

 裕司は布津野に専務と呼ばれると、くすぐったく感じてしまう。


「布津野くん、セラさんの気持ちをそんなに無碍むげにしたら良くないぞ」


 裕司は、セラの言葉に聞きなれない言葉があって少し大袈裟だな、と思わなくもなかったが、布津野の方をたしなめる。


「セラには感謝してるんですけど、俺のワガママにそこまで付き合ってくれなくてもいいのに、って思ってしまうんです」


「その気持ちはわからないこともないけれど、そういう気遣いは却って関係性を損ねてしまうものだよ。もっと素直でいいんじゃないか」


 裕司と布津野の2人の遣り取りをそれまで傍で黙って聞いていたシズ子が不意にふふっと笑みを漏らした。

 シズ子にとってみれば、裕司が言っていることは自分達家族が身をもって知った苦い教訓。

 裕司の元妻に気を遣い過ぎる余り、かえって裕司の元妻の焦燥や孤独感を強めてしまい、互いにとっての悲劇に繋がった。

 裕司が布津野に言った言葉は、裕司がようやくその過去を吹っ切れて、教訓として言えたという証であり、シズ子にとっては裕司が自分達に対してのわだかまりもあっただろうに、それも昇華してくれていると感じられ、つい笑みが漏れたのだ。


「お母サン、嬉しそうデスネ」


 シズ子の笑みにセラが気づき、そうシズ子に声をかける。

 

「そうね、セラちゃんが6月いっぱい居てくれるのが嬉しくて……セラちゃんがしてくれるマッサージ、本当に効くから。手が光ってるみたいに暖かい気がするの」


 シズ子は、自分が思ったことを素直に伝えられず、そう言葉を返した。

 今思ったことを素直に裕司に伝えたら、裕司は照れ臭がるだろう。それに長い事生きて来て身に付いた性分は、どうしても根本からは変えられない。

 だから、つい医者にも治らないと言われた自分の体を癒してくれたセラと少しでも長く過ごせることが嬉しいという気持ちを答えた。

 ただ、これもシズ子にとっては本心であった。


「お母サン、そんなに気に入ってくれて嬉しいでス。でも私だけジャなくてケンも、それに裕司さんだっテ、お母さんのこと大事に思ってマスよ」

 

「セラちゃん、そんな泣かせること言わないで……お父さんだって、私と同じ気持ちでしょ」


 シズ子に突然話を振られた富士夫は、口の中に入ったおにぎりをコップに注がれた麦茶で飲み下す。

 

 裕司は父が何か話すために口の中のものを飲み込む様子を眺めながら、父がセラと裕司がくっついて欲しいというような余計なことを言い出さないでくれよ、と心配した。

 セラは確かに金色の髪で肌の色も白く、容姿も整っている上に牧場仕事も楽しんでこなしており、息子の嫁に、と富士夫が考えたとしても不思議はない。

 だが、裕司にとってみればセラは不思議とそうした対象に感じられなかった。

 

「ん……布津野くん、ワシなんかが言うのもおこがましいが、もっとセラさんのこと大事にしてやってくれ。ワシんとこに今年の夏の予定相談に来た時のセラさん、本当に初めて見るくらいしょげとったぞ。

 美山の育成はウチの馬も行くから、ワシから五島さんに連絡付けたけども。

 二人には言ってなかったけど、ウチはそういう水臭いことでしくじったことがあるんだ。ワシも母さんも、相手に良かれと思ってやったことが却って相手を傷つけて取返しがつかなくなった。

 二人にはそんなしくじりはして欲しくない。

 年寄りの小言だと思って聞いてくれてええけどな。

 裕司にもう少し甲斐性あったら、布津野くん焚きつけるのにセラさんに是非裕司の嫁になって欲しいって言うところだったけんど、裕司は奥手だからな」


 裕司は寡黙な父親が、これだけ喋ったことに驚いた。

 父親もやはり裕司が元妻と別れたことに罪悪感を感じていたのだ。

 ただ……


「親父、俺をダシにするのはかまわんけど、セラさんに失礼じゃないか」


「裕司サン、いいんでスヨ。お父サン、冗談で言ってるンですかラ。全部ケンが悪いんデス。ネ、ケン。何か言ってくださイ」


 少々気色ばんだ裕司をセラがなだめつつ、布津野顕元に振る。

 その表情は悪戯っぽくニヤニヤしている。


 布津野顕元は、そんなセラを見ると負けたとでも言うように両掌を上に向けて胸の前に上げた。


「すみませんでした。セラに気を遣ったつもりでしたが、セラの気持ちは全く考えずに傷つけてしまいました」


「Japanでは、謝ル時にどうすルんでしタッけ?」


 布津野顕元は憮然とした表情で椅子から立ち上がると、背筋をピンと伸ばし両手をピシッと両脇に揃えて「セラさん、この度は誠に申し訳ありませんでした」と言って深々と90°の角度で上半身ごと頭を下げた。


「セラさん、ここまで謝ってるんだから布津野くんを許してやってくれ」 


 富士夫が笑顔でセラにそう取り成す。


「ハイ、許しますヨ。これカラは私にもキチンと相談しテ下さいネ、ケン」


 セラは溢れんばかりの笑顔でそう答えた。


 布津野顕元は照れ臭そうな表情でまた席に座る。


 その様子を見ながら、シズ子はこの二人がこの牧場に来てくれて本当に良かった、と心の底から思ったのだった。









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