第8話 泥の東海地区4歳馬チャンピオン




 レースの残りが500mを切り最後の第3コーナーに入る前、9番手まで順位を下げたアグリキャップを見て、稲穂裕司は絶望的な気分になった。


 やっぱり、ダメなんだ。

 こんな小回りの名古屋競馬場では、このまま普通に追い上げても届かないだろう。

 こんな舞台にウチの馬が出るなんてやっぱり夢だったんだ。

 それも、期待させて最悪に落とす、タチの悪い悪夢だ。

 まだ、きっと俺は、あの夜、牧場を止めると言った親父の前で、ただただ重苦しい気持ちで何も言えずに無言で座っている。

 あの夜に戻ってしまうんだ。


 単なる思い込みだということはどこかでわかっている。

 わかっているのに、どうしてもそう思ってしまう――


「裕司くん、信じたってくれ」


 また、阿栗が裕司の思考がドツボにハマる前に声をかけた。


「もうワシらが信じてやらんくてどうする。勝つ、そう信じたってくれ」


 阿栗のその言葉は、稲穂裕司に向けられたていだったが、実際のところ阿栗は自分自身に言い聞かせるために、口に出していた。


 今は『東海ダービー』のレース中だ。

 アグリキャッ自分の馬プは今、ここ東海公営で頑張って走っている。


 あれこれ考えるのは、レースが終わってからでいい。


 とにかく、必死で走っている自分の馬と、走らせている騎手を応援せんでどうする。

 悩んでるから応援せんなんて馬主、クソタワケでしかない。

 結果はどうあれ、最後まで応援してやらんと!


「頑張れー、キャップ! 諦めんな!」


 そこそこ上品な名古屋競馬場の3階特別観覧席に、立ち上がった阿栗の大声が響き渡った。

 他の馬主は一瞬驚いたように阿栗を見たが、誰も阿栗をとがめるようなことは無く、レースの決着を見届けようとしている。


 稲穂裕司は普段温厚な阿栗が、こんな場所で立ち上がり大声で所有馬を応援する姿を、驚きの眼差しで見上げた。

 あの温厚な阿栗が、こんな場所でこんな絶叫をするなんて。

 親父、阿栗さんは本当に馬を愛してくれてるいい馬主さんだ。

 俺は、親父とおふくろが、なんで長年馬産なんて辛い仕事続けられたのか本当のところはわかってなかったのかも知れない。

 こういう、いい人と巡り合えたりするからなんだろうな。

 細々とだけれど、うちの仔馬を楽しみにしてくれる人、愛してくれる人。

 その人たちに愛される馬を作り出したい、そう願ってやってきたんだろうな。


 親父の最高傑作はザイタクパワーじゃなくてアグリキャップ。

 そう言われるように、信じる。

 アグリキャッハツラツプが勝つことを。


「行けー、ハツラツ! うちの夢を本物にしてくれーっ!」


 稲穂裕司も、思いの丈を大声でそう叫んでみた。

 抱いていた不安が、声と一緒に抜けて行くような気がした。


 眼下のコースに目を戻すと、アグリキャップが真ん中から物凄い脚で前の3頭を捉えようとしている。


「行けーっ!」

「届けーっ!」


 阿栗と稲穂裕司は、スタンド席の馬券を握りしめた観客たちのように、ただ大声で声援を送る。

 それしか、この場で出来ることはない。


 3頭の馬がゴール板の前を駆け抜ける。

 その瞬間は、どの馬が勝ったのか、判断がつかなかった。


 3着以下は確定したが、1着2着はしばらく時間が掛かった。

 3着にはトミトシシェンロンの⑦番が表示された。


 頼む、勝っててくれ、ハツラツ!


 稲穂裕司は目をつむり両手を顔の前で組んで、祈った。

 阿栗孝市は、ひたすら掲示板を見つめている。








 ――真ん中を割ってアグリキャップ! アグリキャップがやっと来た!

 ――マーチトウホウ抵抗するも勢いは止められない!

 ――届くか、届くか! 突き抜けるか!


「行っけー! 安東ぉーっ!」


 隣でワクさんが叫ぶ。

 どっちの安東だよ、森茂雄はそう心の中で毒づきつつ、外れた馬券を破り、空中に投げ捨てた。


 ――前4頭、横に広がった!

 ――先頭トミトシシェンロンか、トミトシシェンロンか、フミノノーザンか、アグリキャップ、フミノノーザン!


 ――アグリキャップかーっ!


 ゴールの瞬間、森茂雄の位置からは、外のフミノノーザンの方が優位に感じられた。

 掲示板には3着トミトシシェンロン、4着シバイ、5着マーチトウホウはすぐに表示されたが、1、2着は時間がかかっていた。

 2着馬と3着トミトシシェンロンの着差は、クビ。


「絶対アグリや、突き抜けとった、絶対や」


 絶対、絶対や。ワクさんは掲示板から目を離さず、でも確信は無いのか貧乏ゆすりをせわしなくしながらそう呟き続けている。


 やがて掲示板に1着と2着が表示された。








 祈っていた稲穂裕司の肩を、阿栗が強く叩いた。


「裕司くん、やったで」


 その阿栗の言葉と同時に、特別観覧席にいた周囲の観客からパチパチパチ、と拍手が起こる。

 稲穂裕司が目を開け掲示板を見ると、確かに1着の横に①番が表示されていた。


「おめでとう」


 阿栗が、まだ茫然としている稲穂裕司の右手を取り、力強く握手をする。

 裕司は、その握手の力強さのおかげで、これが現実に起こっていることなんだと実感すると同時に涙が自然と溢れて来た。


「あ、阿栗さん……ありがとうございます……すいません、本当なら僕が先に言わなくちゃいけないのに……おめでとうございます」


「おう! ありがとう! いい馬作ってくれて、本当にありがとうな!」


 阿栗は更に握手に力を込め、上下にぶんぶんと握った手を動かした。


「阿栗さん、東海ダービーおめでとう。やられたわ、やっぱり強いなアグリキャップは」

「東海ダービーおめでとうございます」


 阿栗の周囲にはいつの間にか他の馬主たちが集まり祝福してくれている。


「ありがとうございます。いやあ、ジョッキーの安東君が思い切って乗ってくれたおかげですよ」


 挨拶を返す阿栗が、対応の合間を見て稲穂裕司に伝える。


「裕司くん、すまんけど先に下に行っててくれんか。そんで、安東くんにちょっと伝言してちょ」


「わかりました」


 稲穂裕司は伝言の内容を聞くと、特別観覧席を発った。








「よっしゃ!」


 ワクさんの声が弾む。


 1着、アグリキャップ。

 2着、フミノノーザン。

 着差はハナ差だった。 


 馬券は外した。アグリにも勝たれた。

 森茂雄はクサクサした気分だったが、ワクさんは上機嫌だった。


「2着に6番人気のフミちゃん来てくれたし、そこそこ勝ったで! シゲちゃん、ここの売店のもんなら、いくらでも好きなモン買うてくれてええよ。ビールは2本までやけど」


 馬券取ったのに言うことがみみっちいんだよ。


 森茂雄の気分はますます滅入った。

 自分でも何でこんなに落ち込むのかわからない。

 

 ただ、ビール2本とどて煮、焼き鳥、きしめんは思い切り食ってやる。

 安くて美味いが取り得の売店の食べ物だが、次の第10レースが終わっても、閉場までねばって飲食し続け、浮かれるワクさんを泣かしてやろうと心に決めた。








 写真判定の後、アグリキャップの1着が確定した時、久須美征勇調教師は柄にもなく躍り上がって叫びそうになった。

 が、周りの目があるためどうにかこうにか我慢する。その我慢することさえ嬉しい。

 こんなに嬉しい気分は、調教師になって初めてだった。


 思えば、アグリキャップの売却話があると阿栗孝市氏に聞かされた時、すぐさま反対した。

 『東海ダービー』を棒に振るつもりなんか、と。

 やはり、あの時強く反対したことは正しかったのだ。

 今日、それを証明することができた。

 阿栗と共に目指していたタイトルをついに勝ち取ることが出来たのだから。


 久須見調教師の内から溢れて来る喜びは尽きることがない。


 だが、調教師としての責務は忘れる訳にはいかない。

 喜びは一旦置き、アグリキャップの脚の状態が気になった久須美調教師は、急いでアグリキャップの元に向かった。


 途中で、稲穂裕司にばったり出会う。


 「久須見先生、ありがとうございます」


 稲穂裕司が、目を真っ赤にして久須見調教師に礼を言う。

 思えば、裕司が無鉄砲にもうちの厩舎久須見厩舎に談判に来たことが、この結果を引き寄せてくれたのだ。

 久須美調教師は稲穂裕司を喜びの余り抱き寄せようとしたが、それはちょっとな、と思い直し裕司の胸に拳骨を当てた。


「君のおかげや、この結果を持って来れたのは。お礼はワシが言いたいくらいや。ホンマ、あの日うちの厩舎に来てくれてありがとな」


 感謝の言葉となって久須見調教師の喜びが口からまろび出た。


 稲穂裕司が久須美調教師に拳骨を当てられていたのは僅か数秒だっただろうが、その間、稲穂裕司は当てられた拳から久須見調教師の暖かい祝福と感謝の気持ちを受け取った、と感じた。


「すまん、キャップのとこ行くわ。克己を叱っとかんと」


 そう言ってその場を後にしようとする久須美調教師に、稲穂裕司は阿栗孝市から言付けられた安東克己騎手への伝言を伝えた。


「わかった、克己にしっかり伝えとく」


 そう言って久須美調教師は走ってその場を後にした。








 1着と表示された掲示板を見て、安東克己はホッと胸をなでおろす心境だった。


 一番強い馬を負けさせた悔いは、一生モノだ。

 同じレースは2度とない。

 他のレースで挽回できたとしても、負けた悔いが消えて無くなる訳ではない。


 後検量のため検量室にアグリキャップを向ける。

 厩務員の川洲が駆け寄り、引き手綱を付ける。


「安東さん、キャップの脚、大丈夫ですか」


 そう安東に訊ねつつ、川洲はアグリキャップの脚の動きを注視している。


「滑った時だけ変な感じやったけど、その後走るリズムはいつもと変わらんかった。おそらく怪我はない、と思うんやけど」


「確かに。でも帰って様子見んとわからんですね」


 川洲は心配そうに言う。

 厩務員の川洲は、前の担当厩務員が突如辞めてしまったためアグリキャップの担当になった。

 その当時アグリキャップの蹄は蹄葉炎を起こしていたが、川洲の献身的な世話で回復していた。

 川洲はいつもアグリキャップのことを一番に心配している。

 これだけ献身的に世話をしてくれる人間が常に身近にいるからこそ、アグリキャップは人を怖がらず素直な性格なのだろう。


 そんな川洲に安東は謝らなければならないことがあった。

 アグリキャップの蹄はやや弱く割れやすいため、できるだけ鞭は使わないようにして欲しいと安東は川洲からお願いされていた。


「すまん、川洲。今日キャップに何発も鞭入れてまった……勝ちたかったんや」


「……仕方ないですよ、勝たなきゃならなかったんですから」


 怪我とかあっても、また付きっ切りで治します。

 だって、キャップは東海地区の4歳チャンピオンなんですから。


 そう言ってくれる川洲。

 安東克己は川洲に感謝しつつ、自分の仕事を果たせたなあ、ともう一度安堵した。



 

 検量室で後検量をパスした安東克己は今度こそ肩の荷が降りた気分だった。

 後検量を済ますまでは完全にレースの結果が確定したとは言えないからだ。


 ひとつの大仕事を終えた。


 後はセレモニーだ。シャワーを浴びて口取り式に備えようと思った。

 アグリキャップは厩務員の川洲が連れていき、激走の泥を洗い流し口取り式に備えている。

 騎手控え室に向かって歩き出そうとした時、久須美征勇調教師が走ってくるのを見つけてしまった。

 やばっ。

 怒られるとは決まっていないのに、なぜかドキッとする。


「克己、ヒヤヒヤさせてから!」


 久須見調教師はそう言って安東克己に近寄ると、思い切り安東克己の背を叩いた。

 勝負服にまだこびり付いていた泥砂が、パラパラと落ちる。


テキ調教師、ちょっとキャップに無理させてまいました、すんません」

 

「今、川洲に状態聞いて来た。キャップの脚今んとこ大丈夫らしいな。まあ様子見んといかんけど。

 言いたいこたある。けど克己やなかったら今日勝てんかった。やっぱお前に頼んで良かったわ。今後も頼むで」


 久須美調教師はそう言ってもう一度安東克己の背を思い切り叩いた。


「痛ったー、テキ調教師、力強すぎですって」


「ガマンせえ、克己! 勝利の痛みや! 走って帰るよりマシやないか。

 あ、そうそう、阿栗さんから克己に伝言があったんやった」


 久須見調教師から阿栗オーナーの伝言を聞いた安東克己は、困惑した。


「いや、それどういうことです? オーナー、ワシのこと怒っとるんですか」 


「いや、ワシもわからん。まあ口取りん時にわかるやろ」


 シャワー浴びに行く訳にいかんやないか。

 マジかいや。








 口取り式はレース後のダートコースで行われる。

 立ち位置確認の前にカメラマンがカメラのセッティングをしているため、少し皆がしゃべる時間があった。


「オーナー、なんでこんな汚れた格好で写真に写らにゃいかんのですか」


 騎手の安東克己がそうぼやく。


 阿栗の安東への伝言というのは、レース中着ていた汚れた勝負服のままで口取り式に参加してくれ、というものだった。


「白だから汚れ目立つんですわ。ヒヤヒヤさせた罰っちゅうなら、しゃーないですけど」


「いやいや、安東くん、罰なんてとんでもないわ、難しいレースやったのに勝ってくれたんやから」


「ホンマヒヤヒヤしたわ。克己、包まれんなって前もって言うてたのに」


テキ調教師、あれは無理ですって。勝ったんだから許して下さい」


「久須見さん、まあええやないですか。安東くん、その格好でお願いしたんは、その泥だらけの姿こそがキャップらしいと思ったからや」


「キャップらしい、ですか?」


「うん、そうや。ホンマは中央行ったら泥に塗れんでも良かったんかも知れん。けど、ワシのワガママに付き合わせて泥んこになって。ようやってくれたなって」


「そうですか」


「それに、ワシの馬主生活も泥に塗れてやってたようなもんやし。そんな飛び抜けた勝馬持ったこともない。ただただ笠松盛り上げようと思ってやってただけやったから」


「ほしたらワシは、阿栗さんに塗れとる泥っちゅうことですか」


 久須見調教師が、おどけた声でそう言う。


「まあ、泥かな。ワシもあんたも笠松の泥や。笠松の泥が、土古どんこ(名古屋競馬場の所在地で愛称)の泥に塗れとる」


 阿栗がそう言って笑うと久須見も笑った。


「だから、この日のこの想いをワシが忘れんように、写真に収まって欲しいなって思たんや。汚れ落としてるキャップの代わりで悪いけどな、安東くん」


「そういうことでしたら、しゃーないですわ。はよ撮ってもらわんと風邪ひくかも知れんけど」


 そう軽口で返した安東克己は、傍にいる稲穂裕司にも声をかけた。


「どえらくええ馬作ってくれて、ありがとうございます。この馬でなかったら、あんな勝ち方できんかった」


「いや、僕じゃなくて、うちの父親です。僕なんかまだまだです」


 稲穂裕司が謙遜でなく、いつも思っていることを答えると、阿栗が訂正した。


「や、富士夫さん、そうは言っとらんかったよ。キャップは半分以上は裕司くんの手柄やって電話で言うとった」


「本当ですか」

 稲穂裕司は、にわかには信じがたい。


「ああ、ホンマにそう言うとった。今日、裕司くんよこしたのも、裕司くんが自分が関わった馬が走るとこ見て、いろいろ感じて欲しいからて言うとった」


「親父……俺にはそんなこと言わなかったのに」


「照れ臭いんやろ。男親ってそんなもんやて。裕司くんのおかげでキャップの種付けする決心ついたし、取り上げる時も前足曲がってなかなか立てんかったキャップを一生懸命立たそうとしたんやろ? 乳も飲ましてやってたし、怪我ないように付き添ったり。削蹄も覚えてやってたらしいやない。キャップのおかげで裕司くんも一人前になれたけど、キャップを競馬場に送り出せたのも裕司くんのおかげやって言うとった。だから、自信もってくれてええんやって」


「……ありがとうございます」


「礼なんて言わんでええて。これからも良い馬作ってくれれば」


「そんでウチの厩舎に預けてくれれば」


「ワシを乗っけて勝たせてくれれば」


 稲穂裕司は、今日何度目かわからない、こぼれ落ちて来た涙を拭った。

 何で今日はこんなに涙もろいんだ自分は、と情けなくなったが、同時に何て心強い人たちが周りにいてくれるんだろうと嬉しくなった。



 その日、カラフルな照明に照らされて、ぐちゃぐちゃのダートコースで撮った口取り式の写真は、レース後もう一度手入れをされたアグリキャップと、ちゃっかり着替えた川洲厩務員だけが綺麗な姿で写っていた。

 口取りの綱を持つ人々は泥で汚れた勝負服を着たままの安東の他、皆スーツの足元がぐちゃぐちゃで泥だらけになっていた。


 そしてその写真の稲穂裕司の顔は、泣きはらした目で真っ赤だったが、晴れ晴れとした笑顔だった。








1988年6月8日(水)名古屋競馬場 東海ダービー  了







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