第7話 のるかそるか




 

 我慢していれば、必ず内が空くと安東克己は考えていた。


 前を行くネツアイの飛ばす泥砂利を被りながら、泥だらけのゴーグルを通してその一瞬を虎視眈々と狙う。

 圧倒的一番人気だから、簡単な競馬はさせてくれないと覚悟はしていたが、まさかこんな露骨に内への封じ込めをしてくるとは。


 前で蓋になっているネツアイは必ずどこかで緩むはずだが、斜め前につけるトウコウシャークとその横のイナバヤマオー、さらにその後ろのフミノノーザン、マーチトウホウ。

 キャップに散々負かされてきた面々が、結託した訳ではないだろうが各々一番人気を潰さないと勝利はないと言わんばかりに緩まず壁を作っている。

 

 レース前に要注意と考えていた黒塚孝則騎乗のシバイが快調に逃げている。

 気分よく走らせればシバイはしぶとい。

 できたら誰かが競りかけて欲しいところだが、兄満彰のトミトシシェンロンは突っかけたりせずシバイのやや後ろを控えて追走している。


 このままじゃあ――

 心の中に浮かびかけた焦りを安東克己はなだめる。

 焦っても仕方がない。

 まずは、ここを抜けることだ。

 キャップはこんな泥を被り続ける状況でも全く嫌がらずに走っている。

 本当にどえらい馬だ。


 2コーナーの途中で前を行くネツアイが外に膨れた。


 ここや!


 安東克己は手綱を通してアグリキャップに前に出るよう合図を送った。


 瞬間。


 バシャリ、とそれまでとは違う振動がアグリキャップから伝わる。

 アグリキャップが前進しようとして前肢で着地した地面がやや深く水溜まりになっており、リズムが崩れ蹄が十分に砂地に力を伝えきれなかったのだ。

 つまりは、一瞬滑った。

 そのためネツアイの空けた隙間にスムースに進入できない。


 くそっ!


 克己が内心舌打ちする間に、斜め前に付けていたトウコウシャーク井ノ上崇彦がネツアイの空けた隙間に入る。

 トウコウシャークのいたポジションはイナバヤマオー波羅高志が埋め、イナバヤマオーがいたアグリキャップの真横のポジションはすかさずマーチトウホウが埋めた。


 安東はアグリキャップの走りに異常はないか注意したが、今のところ故障したような兆候はない。

 少し安心したが、状況はほぼ変わっていない。


 井ノ上も波羅のオッサンも、河原もえげつない。

 絶対ワシの馬を勝たさんって執念かい。

 ひよっこやと思っとった今藤も、抜け目なく包囲網の綻びを繕おうとしとる。


「ええんか、クロさん気分よく行かせたまんまで。あの馬、力あるで!」


 安東克己は周囲に聞こえるように声を出したが、波羅も河原も前だけを見つめている。


 そうかいそうかい、絶対前と横、抜けささんつもりかい。


 このまま足を余して負けるのは、テキ調教師にも厩務員の川洲にも馬主さんにも申し訳が立たん。


 どうする?








 スタンド席からレースを見守る久須美征勇調教師は、レースの隊形が異様なのはわかっていた。

 

 明らかに他馬の動きからはアグリキャップを内に閉じ込め封殺しようという意図が見て取れる。

 

 キャップが勝ち過ぎたんか?

 一瞬その考えが浮かんだが、すぐに打ち消す。

 いや、強い馬が勝つ、それが勝負やないか。

 こんな、示し合わせたみたいなことやって、それで負かして嬉しいんか!

 双眼鏡でレースを見ながら歯噛みする。


 アグリキャップの前を行くネツアイが膨らんだ。

 だが、アグリキャップは前に出れず、その隙間を水しぶきを上げてトウコウシャークが埋める。


 水溜まりで滑ったか。

 アグリキャップの蹄は広く大きい。つまりそれだけ水の抵抗は大きくなる。

 前の馬が通り水溜まりがやや深くなった部分を踏んでしまうと滑る可能性はあった。


 加速しようとした時に滑って、どこか痛めてるんやないか?

 心配になったが、以降もアグリキャップの走りに変化はない。

 鞍上の克己を信じるしかない。


 ようやく、ようやく勝てる馬を出せたのに、雨に祟られとる。

 久須美調教師は不運を嘆く。








 名古屋競馬場の3階特別観覧席で馬主の阿栗孝市と共にレースを見ていた稲穂裕司は、アグリキャップを内へ押し込める他の馬に対して、正々堂々と勝負しろ、とやきもきしていた。

 

 稲穂裕司の隣の阿栗孝市は、唇をぎゅっと結んで厳しい表情だ。


「何でそんな邪魔するんだ、正々堂々お互いに全力を出せばいいだろう」


 稲穂裕司は、つい呟くように声に出してしまう。

 あの足が曲がって立てなかったハツラツが、やっと大舞台に送り出せたウチの牧場の馬が、力を出すことも許されないのか。

 ハツラツを生み出すまでに苦労したうちの家族の、苦い思い出をすすぐことすらさせてもらえないのか。

 儚い希望を見せておきながら、それすら奪ってしまうのか。

 理不尽すぎる――


「……勝ちたいんや」


 阿栗孝市は稲穂裕司の無意識の声にそう答えた。 


 稲穂裕司がハッとして阿栗を見る。


「どの馬だって、どの騎手だって勝ちたいんや。決して己れのためだけやない。馬主、関係者、その馬に関わった皆のために勝ちたいんや。だから散々負かされてきたキャップに自分のレースをさせないようにする、それも立派な勝負なんや」


 阿栗孝市は、引き結んだ唇の間から絞り出すようにそう言った。


 阿栗は当然この展開に納得している訳ではない。

 しかし一方で、僅かに感じていた己の迷いが現実に形となって表れているとも感じた。


 やはり、力の飛び抜けたアグリキャップは、笠松に居ていい馬では無いのかも知れない。

 稲穂裕司の独り言に対してどうにか絞り出した言葉は、裏を返した本心でもある。

 ここに出走している一頭一頭には、その馬に関わった多くの人々が居て、その人らの努力によってこの舞台に辿り着いている。

 だから、他の馬と騎手たちがこの大舞台でそしりを受けようとも、力の飛び抜けた馬を封じ込めて勝とうとする気持ちはわからなくも無い。

 小さなレースで一喜一憂していた馬主の自分だからこそわかる。

 ワシが他の馬の馬主なら、これを是とする。


 だが一方で阿栗は思う。

 これからも、これから先もずっと東海のレースではこうなんか?

 それやったら、ワシは佐梁さはりにキャップを売っといた方が良かったんか?

 なあ、キャップ、ワシはお前を辛い目に遇わせる選択をしてまったんか?


 教えてくれ。

 キャップ。


 阿栗孝市の内心の葛藤は続く。








 ワクさんのダミ声。


「何や安東、ここで下げるんかい! レース投げるんか、まさか故障でもしよったんか?」


 ワクさんの悲鳴通り、アグリキャップは9番手まで下げていた。

 アグリキャップの後ろには、3馬身程離れてやっと追走しているグレートフリーオンのみ。

 確かにあれだけ前も横も閉められてしまうと行き場がない。

 隙間が空いても晴れの日とは違ってさっきのようなアクシデントもある。下げて外に持ち出すつもりだろう。

 だが、もうレースの残りは3コーナー、4コーナーと直線だけだ。

 これから各馬も仕掛けて加速する。

 小回りの名古屋競馬場。速くコーナーを走らせようとすれば大きく外に膨れる。ゆっくり回らなければ回れない。

 これから外を回っても、届く訳がない。


――さあ第3コーナー、青い帽子フミノノーザンと赤マーチトウホウ上がっていく!

――アグリキャップはその後方、大きく外に膨らんでいる!

――ネツアイはここで一杯か? 先頭はシバイ、並んでトミトシシェンロン!

――イナバヤマオーも仕掛ける!

――ここでマーチトウホウが、マーチトウホウが上って来て、いよいよ最後の直線!


 よし、マーチトウホウが来た!


 おそらく道中はずっとアグリキャップをマークし続け、アグリキャップよりも一呼吸早く仕掛けようと河原は狙っていた。

 アグリキャップを外に出して自由に走れないように斜め後ろのポジションでずっと我慢していたが、アグリを内に封じ込める役はトウコウシャーク井ノ上とイナバヤマオー波羅がやっていたので、マーチトウホウに余力は十分にあるはずだ。

 このままどうにか2着までに、出来れば先頭まで来てくれ!








 前を意地でも開けないつもりなら仕方ない。


 下げて、思いくそブン回したる。


 少なくとも、脚を余して負けるよりはナンボかマシや。

 東海4歳チャンピオン決定戦でそんな負け方は、アグリキャップに関わったみんな、みいんな悔いしか残らん!

 3コーナーに入ってから下げては結局前が壁になる。

 直線のうちに下げる。

 ただ、普通急な減速は馬の行く気を削いでしまうか、ケンカしてかからせてしまうかになる。

 だが、キャップなら、愚直に指示どおりに走るキャップだったらやれるはずや。


 少し手綱を緩め、ほんの僅かにハミを遊ばせる。

 一瞬だけ行きたがる素振りを見せたアグリキャップだが、ケンカにはならずハミを僅かに緩めた分だけ素直に減速する。

 横にいるマーチトウホウの河原は、ちらりとこちらを見て一瞬同じく減速するか迷ったようだが、そのままの速度でマーチトウホウを走らせていく。


 下げても一緒に横について来られたら洒落にならんかった。

 だが、勝ちを目指すなら他馬を潰すために自分の馬とケンカするような真似はようせん。

 河原、勝ちを取りに行くつもりやな。 


 馬群は3コーナーにかかり、アグリキャップの前を走る馬は次々に右側に曲がっていく。

 先頭のシバイまでは、およそ12馬身以上。

 アグリキャップを封じ込めていた馬たちも、封じ込めのタスクから解放され、各々がポジションを取るために動いている。


 さて、賭けだ。

 この作戦で負けたら、約束どおり笠松まで走って帰るしかない。

 それで許してもらえる訳もないが。


 3コーナー、8分の走りで大きく外に膨らむように加速しつつ進入する。

 見ている久須見調教師に馬主の阿栗さんはワシの気が狂ったとでも思うだろう。


 だが、勝算が無い訳ではない。

 アグリキャップは右回りが上手い。

 いつも右手前で走るが故だ。

 3コーナー、8分の走りでダッシュをつけ、4コーナーは全力で追っても直線に入れる位置まで行ったら、全開だ。

 得意の右回りなら、そこまで膨らまんでも行ける。

 コースロスを最小に抑えつつ全力で曲がり切って直線に入れるポイントまで出たら、あとは運を天に任せて全力で追うだけや。


 一度は緩めたハミだが、今はまた、しっかりとかかっている。

 減速して息が入った分、余力は十分にある。

 首を上下させてリズムを取って8分の力で走るアグリキャップの推進力を損なわないように、慎重に首の動きに合わせて手綱を操作し。

 全力で追っても曲がり切れるポイントに差し掛かる。


 行くぞっ! キャップ!


 安東克己はアグリキャップに一鞭入れた。








 久須美征勇調教師は、安東克己がアグリキャップを後方に下げた時、一瞬故障かと思い目の前が真っ暗になったが、その後3コーナーから後方一気のマクリを安東克己が始めたのを見て、どうにか届いてくれ、と願わずにはいられなかった。

 

 夢だったものに手が届きそうなのだ。

 何とかつかみ取ってくれ。


 ああ、調教師なんてレース中は無力だ。

 結局、馬の力と、騎乗している騎手を信じる他に手立てがない。








――直線向いて先頭はシバイか、まだ先頭はシバイか? トミトシシェンロンか?

――シバイからトミトシシェンロンに先頭は代わりました!


 いけ、マーチ!

 森茂雄は、声には出さないが馬券を買った馬を心の中で応援する。

 だが、直線に向いたマーチトウホウは伸びが悪い。

 イナバヤマオーとトウコウシャークは交わしたものの、先頭の2頭の脚色が思った以上にいい。ジリジリとしか差を詰められない。

 頼む、どうにか追いついてくれ……


 もがくマーチトウホウの外、素晴らしい脚色で交わしていく青の帽子。

 フミノノーザンだった。


 フミノノーザンもマーチトウホウと一緒に第3コーナーから上がって来ていたが、マーチトウホウよりも仕掛け所を遅らせて追い出していたのだ。今年の今藤の思い切りの良さだった。

 フミノノーザンがマーチトウホウに並びかけた時点で森茂雄は負けたと悟り、レースから目を離し下を向いた。


――外の方から4番の、フミノノーザンやって来る!

――前3頭、横に広がり、いや、もう一頭、白い帽子凄い脚で追ってくる!


 追川アナウンサーの声に森茂雄が顔を上げると、赤の帽子マーチトウホウを内から交わす勢いで上がってくる白の帽子が目に入る。


 まさか、有り得ない。








 泥濘状のダートコースの砂を掻き込み跳ね上げ、アグリキャップは弾んだように加速する。


 行くぞ、行くぞ、行くぞーっ!


 ユウアイイチバンを交わしネツアイも交わす。

 トウコウシャークがその前だ。

 トウコウシャークに並びかけ、あっというまに交わし直線へ。


 限界まで力を振り絞れ、キャップ!


 直線入口で安東克己は更にもう一鞭入れた。

 アグリキャップは、更に一段沈み込むように、濡れて締まったダートを勢いよく削りながら加速する。

 アグリキャップが蹴り上げる砂利は、後方遥か遠くまで飛んでいく。


 さっきは雨に祟られた。

 だが、全開で追う今は、雨で締まった砂がしっかりキャップの全力の走りを受け止めてくれている。

 イナバヤマオーの外を抜け、前を走るマーチトウホウに迫る。

 並びかけた瞬間、泥で汚れたゴーグル越しにちらりとマーチトウホウに目をやると、鞍上の河原もこちらを見た。

 泥に塗れた河原と一瞬目が合う。


 河原は克己を認めると、アグリキャップに馬体を寄せようとしつつ、マーチトウホウに鞭を入れた。

 ジリジリと伸びていたマーチトウホウが鞭に応え、その瞬間アグリキャップに抜かせまいとばかりに前に出た。

 

 済まんな河原、乗ってる馬のタイプが違う。

 キャップは長くいい伸び脚を使える馬、マーチは一瞬切れる脚を使う馬。

 直線最後鼻面を合わせての叩き合いになった時、マーチトウホウにまだ脚が残っていたら一瞬で前に出られる、切れる怖さをマーチは持っている。

 一度それで負けを覚悟したレースもあった。

 だが、今日はその脚を十分に使える展開じゃなかった。

 前半、封じ込められていたおかげで、これだけ加速をつけたキャップには、そう簡単に併せられん。

 出来たら直線叩き合いに持ち込みたかったんだろうが、悪いな!


 一瞬マーチトウホウと併走する形になったが、スピードに乗ったアグリキャップはマーチトウホウを内から交わしていく。


 4馬身前には、兄満彰の駆るトミトシシェンロンが先頭。

 黒塚孝則騎乗のシバイは最後の直線でのトミトシシェンロンとの競り合いで気の弱さが出たのか、トミトシシェンロンの内側、半馬身遅れている。


 トミトシ、あんな渋太い脚を使えるのか。

 満彰兄、やっぱ上手え。そりゃ調教師せんせいたちも信頼する。


 そして、マーチトウホウを先に外から抜き去った今藤のフミノノーザンが、先頭に突き抜ける勢いの脚を使っている。

 

 今年の今藤は、ノッてる。冴えている。

 勝ちを積んで自信つけることで、こんなに化けるとは。

 だが。


 ちょうど2頭の真ん中。

 アグリキャップは地面を掻いて弾むが如く。

 一完歩ごとに前との差をぐいぐい詰めている。


 抜けるか? 抜けるのか!


 いや、考える局面は過ぎた!

 ひたすらキャップを追うだけだ。

 アグリキャップの首の上下に合わせて手綱を引いて送る。


 届く!

 届かせる!


 安東克己はアグリキャップの最後の闘志を引き出すべく右手の鞭をもう一度振るった。










 

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