第6話 ギャンブル民にとっての雨の恩恵




 前日から続く大雨のおかげで、その日予定されていた現場の作業は中止になった、とバイト先の警備会社の正社員から朝6時半に連絡があった。


 森茂雄は寝ぼけながらその電話を受け、通話終了後、再び万年床に潜り込んだ。


 この時期の蒸し暑い工事現場の誘導警備をしなくて良いというのは森茂雄にとってこの上ない朗報と言って良かった。

 バイト先の警備会社は給与を日当で支払ってくれるので、今日の収入9千円が無くなったことは悲しむべきことだったが、それ以上にまだ眠れるという喜びが勝った。

 昨夜ビールを飲みながらゲームをして夜更かししたため、まだ酔いが残っていたからだ。

 最も、昨夜既に土砂降りだったため、天気予報も確認した上で今日も雨で現場が中止になるという期待と予測の上での行動だったのだが。

 外れたら、二日酔いをただ8時間ガマンするだけの話だったが、賭けに勝った。

 安普請で家賃が安いだけが取り柄のボロアパートのトタン屋根を雨粒が激しく叩く音を聞きながら森茂雄はスッと眠りに落ちる。


 森茂雄が再び目を覚ましたのは11時を回った頃だった。

 寝起きでボーっとしていると起きたばかりなのに空腹を感じた。

 立ち上がるのが面倒なので布団の上を這って冷蔵庫を開け、牛乳を取り出しパックに直接口を付けて飲む。

 その後、今日はどうしようかとボーっと考えた。

 雨はまだ降っている。

 とりあえず吉野家の牛丼で腹ごしらえして、その後はパチンコにでも行くか、と考えたが、ふと今日は東海ダービーの開催日だったことを思い出す。

 どうせワクさんも名古屋競馬場にいるんだろうから俺も行ってみるかな。



 15時20分過ぎ。

 森茂雄は1時間程前に雨が止んだ名古屋競馬場のスタンドで、どて煮でビールを一杯やっていた。

 隣には馬券仲間のワクさんが、投票締め切りが近いのに競馬紙を片手にうーん、むむうとうなっている。


「いや、もうアグリが来るのは判り切っとる。ヒモが決まらん。シゲちゃん、何にした?」


 不意に聞かれたが、まあいつものことだ。

 ワクさんは考えて考えて、本人はそう思ってないだろうが、考えることを楽しんでいる。


「オレはアグリ切った。来られてたまるか。あんなヌルッとしたウナギみてーな馬に」


 そう茂雄が返すとワクさんはボサボサの頭を隠すため野球帽を被った頭を上げて言う。


「いやいやシゲちゃん、そらないわ。どう考えたってアグリは堅いて。逆らっても何も良いこたないて」


 ワクさんは茂雄の顔をあわれみの表情でちらっと見て、また競馬紙に目を落とす。


「ワクさん、はよ決めんと馬券の投票締め切りになるよ」


 茂雄はグビッと缶ビールを飲み、口を潤して言う。

 ワクさん、本当に決めきれん人だ。

 内心では呆れている。


「えーい、トミトシとシバイで行って来るわ、しゃーない、負けたら時間のせいやからしゃーない」


 ぶつぶつ言いながらワクさんは立ち上がり、馬券投票所へ行った。


 まったくワクさんは優柔不断だ。

 そんなだから50過ぎてもこんなフラフラしてんだよな。


 どて煮を口に入れながら森茂雄はぼんやり思った。

 名古屋競馬場名物のどて煮はちょっと濃い味がビールに合って旨い。ワクさんに対するちょっとした侮蔑の気持ちはどて煮の味が消した。

 口の中のどて煮を飲み込み、缶ビールをあおる。

 旨い。

 この旨さが永久に続くといいのに。


 森茂雄はほろ酔い気分でそう思った。



 ワクさんの本名は涌井。下の名前は憶えていない。

 茂雄が今も続けている警備会社のバイトで知り合った。

 森茂雄は地方から出て来て名古屋の3流私大に入学していたが、大学3年の頃に時給の高さと支払いが日当ということに魅かれてこのバイトを始めた。

 その頃ワクさんと現場が一緒になることが多く、世間話をするようになった。

 ただ、その当時から既に50過ぎのワクさんと、20歳の大学生の茂雄とでは共通の話題が少なく気まずい空気になることも多かった。

 最も共通で弾む話題はパチンコ。

 ワクさんはギャンブルがめっぽう好きだったのだ。

 茂雄も話を合わせるためにパチンコに以前よりも注ぎ込むようになった。何せ日銭はある訳だから、ついつい仕事終りにはワクさんと一緒にパチンコ屋に直行するようになっていく。

 やがて暇な休みの日にワクさんと連れだって競馬や競艇にも行くようになっていった。


 そんな怠惰な大学生活を送った森茂雄は、大学卒業後に地元の企業の営業職に就職した。

 だが、残業含め10時間以上拘束され、手取りが16万円。何もわからない研修期間中はまだ無我夢中だったが、3カ月を過ぎた頃から厳しい営業ノルマを課されるようになり、上司のネチネチとした嫌味を連日聞かなければいけない状況になると、そんな生活が息苦しく感じ始めた。

 大学時代の警備バイトでも、今の仕事より稼げていた。50になっても警備バイトで食ってる人だっていたな、とふとワクさんのことを思い出した。

 何か、あれはあれでアリな生き方だよな、と思うと、今の生活が馬鹿馬鹿しくなった。

 結局1年で就職した会社を辞め、再び名古屋に舞い戻った森茂雄は、また大学時代のバイト先の警備会社でバイトを再開した。

 この時には、ワクさんは既に警備のバイトには来ていなかった。

 大学の友人も何人か名古屋に残っていたが、彼らも忙しく頻繁に会って遊ぶ機会は少ない。

 何の予定も入っていないバイトの休みの日、ふらっと久々に再訪した笠松競馬場。

 ワクさんと再会した。

 ワクさんは変わっていなかった。

 今は他の警備会社や、知人の頼まれごとを時々こなして生活しているという。

 茂雄はわざわざ連絡先を交換したりすることはなかった。

 大抵ワクさんはレースの開催日には笠松や名古屋の競馬場か、あるいは常滑の競艇場にいる、と言っていた。


 こうして森茂雄は、何となく暇で人恋しい時は競馬場に足を運び、ワクさんとレースに興じることになっていた。

 そんな生活が、もうそろそろ5年近い。



 茂雄が空になったビール缶を置きボーっとしていると、馬券投票締め切りを知らせるチャイムが鳴り『勝馬投票券の投票は締め切られました』と場内アナウンスが流れた。


 もうレースが発走になる。

 ワクさん、買えたんだろうか?


「あかん、混んでて。みんなさっさと買やええのにグダグダしよって」


 録音された出走前のファンファーレが流れている最中に戻って来たワクさんが、ひどい目にあったとでもいうような表情でこぼす。

 よく言うよ、自分もグダグダ悩んでたクセに。


「ワクさん、結局何買ったの」


「アグリ軸の枠連①-④、①-⑧と⑦枠⑧枠の複勝。あと保険でアグリの単勝。シバイ来たらそこそこデカいでぇ。シゲちゃんもアグリ様に逆らうのやめとけって」


「何がアグリ様だっての。見栄え悪いし」


「馬は見栄えやないで。何でシゲちゃんそんな頑ななん? おっちゃんにはわからんわー」


 何でアグリキャップが気に入らないのか、茂雄自身もわからない。

 単純な理由なら、マーチトウホウがひいきだったためアグリを外して馬券を買ってひどい目に遭い続けているから。

 いつか報われないとやってられないという感じか。

 自分の中で意地になっている。


「嫌いなもんは嫌いだから。それ以上の理由は無いよ」


「そんだけ嫌うっての、もしかして好きの裏返しかも知れんけど。まあシゲちゃん、オケラになってもおっちゃんが当てたらオゴッてやるから、泣かんといてな」


「泣かないよ」




 そんな会話をしていると、あっさりとゲートが開き発走していた。


「まあまあ悪くないスタートやな」


 トラックを見つめるワクさんが言うように、出遅れた馬はいなかったようだ。


 場内に流れる中継画面、名物アナウンサー追川アナの音声が流れる。


――全馬揃った綺麗なスタート。

――最初の直線のポジション争い、好スタートを切った8枠9番ピンクの帽子、黒塚孝則騎乗のシバイが快調にハナを奪いに行きます。

――続いて7枠7番オレンジの帽子、トミトシシェンロン安東満彰、スーッと上がっていきハナを奪うか? いや無理には行かず2番手控えます。

――やや離れ2番手集団、内から2枠2番ネツアイ、外に黄色の帽子トウコウシャーク7枠7番イナバヤマオー波羅高志、最内に一番人気1枠1番アグリキャップはここに居ました。

――やや後方、青の帽子フミノノーザンと赤マーチトウホウがアグリを見て進みます。

――ここで最初の第3コーナーに差し掛かります。

――名古屋競馬場1900mのこのレース、コースを1周半いたします。もう一度第3コーナーを回る時には、どの馬が先頭に立っているのでしょう。


「アグリ、ちょっと窮屈にコーナー入らされたな」


 ワクさんが言うように、アグリキャップの外にトウコウシャークとイナバヤマオーが壁になっている。

 一番人気を封じ込めないと勝てないと井ノ上と波羅は考えたのだろう。


 森茂雄の買い目は、③-⑦、③-⑧の枠連。

 マーチトウホウが来れば、前の2頭のどちらが逃げ残ってもいい。願っても無い展開だ。


――先頭シバイと2番手トミトシシェンロン、後続は2馬身離れて8頭一団となって第4コーナーを抜けてまいります。

――ここで隊列を確認しておきましょう。

――先頭シバイ、後ろにトミトシシェンロン。2馬身程離れて内からネツアイ、トウコウシャーク、イナバヤマオー、アグリキャップは少し下げたか?

――更に外からフミノノーザン、マーチトウホウ、ユウアイイチバン。最後方1馬身離れてグレートフリーオン。

――各馬まだ動きはありません。静かにスタンド前ホームストレートを通過、第一コーナーに入ります。

――一番人気アグリキャップ安東克己、どこで動くか。


「井ノ上に波羅に、アグリを外に出してやるつもり無いみたいやな。

 でもネツアイが外に膨れたら前空くで、見てろ」


 レーストラックから目を離さないワクさんの言葉に、はっきり確認しようと森茂雄は場内中継画面に目をやる。

 ワクさんが言うように、アグリキャップの前を走るネツアイは内に沿って走っていたが、きついコーナーのRにやや外に振られ、僅かに内が空いた。


「よっしゃ、ここや!」


 ワクさんの言葉通り、アグリキャップ鞍上の安東克己の手が動いた。

 しかし、アグリキャップはその隙間に入らなかった。

 代わりにトウコウシャークが水しぶきを上げてそこに進入する。


「何でや! 何考えとる安東! うわ、また囲まれとるやんけ! アホ!」


――バックストレッチ、依然として先頭はピンクの帽子シバイ、2番手トミトシシェンロン、後続との差を徐々に広げて3馬身4馬身、おっと、3番手にトウコウシャークが上って参りました。

――4番手イナバヤマオー、外にネツアイ、内にアグリキャップ。ちょっと窮屈か、更に外マーチトウホウ、フミノノーザン。この辺りは団子状態。

――レースはいよいよ第3コーナー、第4コーナーを曲がり切れば直線194mで決着いたします。

――一番人気、アグリキャップの安東克己、いつ動く!


 ワクさんはトラックに向かって怒鳴っていたが、中継画面で見ていた茂雄にはわかった。

 アグリキャップは空いた隙間に入らなかったのではなくて入れなかった。

 騎手の安東はここと見て手が動き、アグリキャップも前に出ようとしたが、水の浮いたダートで蹄が滑ってダッシュがつかず動けなかったのだ。

 その隙にトウコウシャークの井ノ上が抜け目なくそこを取った。


 雨の恩恵だ。

 このまま直線までアグリの前を他馬が閉めていたら、さすがのアグリといえど直線だけで差し切るのは考えられない。


 やっと、アグリの負けるところが見られる。


 森茂雄は馬券が当たるかどうかはともかく、面白くなったと思った。





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