第5話 騎手 安東克己




 返し馬で走る名古屋競馬場のダートコースは、つい1時間程前まで降り続けていた水がそこここに溜まり、出走馬が走るたびに盛大にしぶきを跳ね上げている。


 スタンドにパラパラと陣取る観客をちらりと振り返りながら、アグリキャップに騎乗する安東克己は、愛馬をパドックから出走地点の2角奥のスタート地点にキャンターで向かわせる。

 スタンドで馬券を握りしめてこのレースを観戦する観客の何割かは、1時間前まで降っていた大雨で今日の仕事が休みになって観戦に来れた者たちだ。

 雨でなくとも観戦勝負に来る者も多いが。


 まったく、こんな雨やったら工事現場も畑仕事も外仕事はみんな休みんなるっちゅうのに、こうやってびしょ濡れで働かされるんやから、騎手が一番の肉体労働者や。


 本音ではない。

 いや、半分は本音か。


 1900mのこの『東海ダービー』なら2分程度雨に濡れ砂に塗れるのを我慢し1着を取れば賞金は1千200万円。最も騎手の取り分は60万円だが。

 雨で仕事が休みになった、このレースに勝負を賭けている男どもは、2分濡れるのを我慢して馬に跨って1周半してくれば金がもらえる楽な商売だと、そう考えているだろう。

 実際、そう上手く行ったらこんなにオイシイ商売はない。


 まあ、わしゃ上手く行くこと多いけど。


 安東克己は、笠松で9年間連続でリーディングジョッキーを獲っている。

 カラスが鳴かない日があってもアンカツの勝たない日はない、と笠松の馬券オヤジたちの間では言われている。

 自分でも、ちょっと馬乗りの技術には自信を持っている。だが、ただそれだけで勝ち続けられる程騎手は甘くない。

 調教師や馬主が勝てる馬を回してくれるからこそ勝てるのだ。

 それこそ雨が降ろうと何があろうと朝3時に起きて調教をつける、日々の努力を認めてもらってのことだ。

 好きな酒だって、滅多に飲まずに節制している。体重を増やす訳にはいかない。

 万が一レース前検量時までに規定斤量に体重が落ちていなかったら、当然罰は下るし、最悪レースに騎乗できず乗り替わりになる。

 そんな節制できない騎手は、当然お呼びも掛からなくなっていく。

 そうした先輩騎手も、これまで何人か見て来た。 


 スタンドで、ワンカップ片手にどて煮をツマミながら勝負できる観客の立場が羨ましい時だってあるが――まあ騎手がそんなことを考えているなんて、観客は思ってもいないだろう。

 

 アグリキャップの調子は悪くない。

 久須見調教師せんせいも自信の出来だ。

 これで負けたら笠松まで走って帰れなんて言っていたが、冗談めかして言っていたつもりなんだろうが、目は本気だった。


 最も、負けるつもりはない。

 今日のこのレースに出走している馬、ほぼ全てをこれまでにキャップは負かしている。

 普通にキャップが走れば、負けることはない。

 安東克己には、それだけの自信があった。


 最内枠の1枠を引いたことだけが気掛かりではある。

 アグリキャップのスタートは悪くはないが、やはり笠松同じく小回りの名古屋のコースだと外枠寄りの方がスタートからスピードに乗ってコーナーに進入しやすくなる。

 だが、今日の名古屋競馬場1900mのコースはスタート後300m近い直線を走り第3コーナーに差し掛かる。

 普通にスタートして、余程包まれたりしない限りはどうとでもなるはずだ。


 今日の相手で注意が必要なのは、これまで当たることが少なかった2頭の牝馬――笠松のシバイとフミノノーザン。


 シバイとは今まで1度も当たったことがない。

 シバイは昨年12月27日に笠松の新馬戦で遅いデビューを1着で飾ると、その後前走クイーン特別C2まで破竹の6連勝中。

 ただ前走クイーン特別C2で代打騎乗し見事逃げでシバイを勝利に導いていた安東克己は、シバイは持っている能力は牝馬としては総じて高いが、臆病な性格で他馬を怖がるところがあり、スタートが決まらず馬混みに揉まれると掲示板も難しい馬という感想だった。

 ただ、今日のシバイ鞍上黒塚孝則は名古屋のリーディングでも常に5本の指に入り、4年前の中央騎手招待競走で勝利した経験もあるベテラン。コースも熟知しており出遅れはおそらく無いだろう。


 ちょっと気分よく走られると厄介やな。


 要注意のもう1頭の牝馬フミノノーザンは、アグリキャップ今年初戦の1月10日ゴールドジュニアで当たり、その時はキャップ1着、フミノノーザンは牝馬最先着ではあったものの5着と格付けは済んだと思われていたが、ゴールドジュニア後はキャップとは別路線を歩み1月後半から5月末までに7戦をこなし、3-2-2-0の好成績。近走は2連勝を挙げて『東海ダービー』に乗り込んで来た。

 1着だった前々走サラ系一般から10㎏体重を減らした前走中京牝馬特別 C1も勝利しており、今日の出走馬体重は前々走と同じ464㎏で、牡馬と戦うための仕上がりは上々と言える。

 克己から見てもフミノノーザンの毛艶は良く、万全に仕上がっているように見えた。

 血統も今年の中央競馬のクラシックGⅠ、皐月賞を制したヤエノムテキと同じ父ヤマニンスキーであり、1900mは適距離と言える。

 鞍上の今藤こんどう次郎は7年目。笠松の中堅騎手で昨年ようやく100勝目を挙げたが、以降吹っ切れたのか今年はキャリアハイのペースで勝利を重ねている。思い切った騎乗もするようになり、侮れない存在になりつつある。


 何にせよ、キャップ次第やな。

 

 出走ゲート前に向かうと担当厩務員の川洲が再度安東克己を乗せたアグリキャップに引き手綱を付け、ゲートに誘導する。

 他の馬の騎手や厩務員は、ゲート入りする馬を落ち着かせ、なだめるために「ホーゥ」と声を掛けたり、口笛を吹いたりしている。

 アグリキャップは賢く、そして馬とは思えない程に落ち着きのある馬だ。

 厩務員の川洲の引く手綱に逆らわず、落ち着いた歩様でゲートに向かって歩みを進める。

 そんなキャップは、レース前に自分である動きをするとレースに集中する。

 厩務員の川洲に引かれゆっくりとゲートに向かって進んでいたアグリキャップは、ゲートの1m程手前でピタリと立ち止まった。

 川洲もわかっている。

 アグリキャップの引き手綱を外した。


 アグリキャップは背中と平行になるまで首を真っ直ぐ前に伸ばし、たてがみの雨水を払うかのように伸ばした首を素早くブルブルブルッと左右に回転させた。

 

 安東克己がアグリキャップに乗って既に10戦。

 初めて騎乗した秋風ジュニアのゲート前でこれをやられた時は、久須美や川洲に聞いて知ってはいたものの、本当は小さい羽虫かダニでも気にしていてレースどころではないのではないかと気が気ではなかったが、レースでは安東の指示に従い3コーナーから前に進出し終わって見れば2着に3馬身差の圧勝だった。


 このレース前に必ず行う身震いが、アグリキャップのルーティンになっている。

 アグリキャップは身震いを終えると、自らゆっくりとゲート内に入った。


 ほんまに、コイツアグリキャップはこれからレース勝負だってことを理解していて自分で気合いを入れているようや。

 いつもと変わらん。今日もイケる。


 安東克己はついつい力が入る掌をリラックスさせながら、アグリキャップの首を撫でて思った。




 そんなアグリキャップと安東克己の枠入りを、後方からずっと見つめている者が二人いた。


 1人はかつて笠松でアグリキャップに2度勝った馬、マーチトウホウに騎乗する河原章一。

 河原は安東克己と同期デビューで、安東と普段は調教の合間に世間話に興じたりしており仲が悪い訳ではない。

 だが、河原にとって安東は常に目の前に立ちはだかる同期のライバルで壁でもあった。

 マーチトウホウがアグリキャップに勝った2戦の鞍上は、今日2番人気イナバヤマオーに騎乗している波羅はら高志の時。

 波羅は河原にとって騎手の師匠ともいうべき名手だった。

 波羅が駆るマーチトウホウはアグリキャップと接戦を演じていたが、波羅に代わって河原が手綱を取るようになると数馬身差をつけられるようになった。

 波羅の遠征による乗り替わりで初めて乗った初戦秋風ジュニアで4馬身差。本格的に河原に代わったジュニアGPでは7馬身離されての4着。

 前走の中日スポーツ杯では4馬身差の6着。

 マーチトウホウはここまでアグリキャップと9回対戦し2勝7敗。

 マーチトウホウは早熟のスピード馬で、成長力でアグリキャップに負けていると馬券師界隈で言われているのは河原も知っている。今日も人気は7番と薄い。

 河原自身の対アグリキャップ戦績は8戦0勝だが、これまで河原が騎乗してアグリキャップと対戦した馬の中では、マーチトウホウが一番打倒アグリキャップに近い実力だと河原は信じていた。

 走り方次第では勝てるという手応えを前走の中日スポーツ杯である程度掴んでいる。

 今日こそ河原自身の対アグリキャップの連敗を止める。マーチトウホウも強いことを証明する。

 そして2年連続で『東海ダービー』を勝ち取ってみせる。

 そう、河原自身は昨年の東海ダービーを1番人気ワイドルーラーで勝利していた。

 その経験を、今日は逆に生かすのだ。


 

 そして、アグリキャップを見つめ続けるもう一人の人物。

 克己の兄である安東満彰みつあきであった。

 騎乗するトミトシシェンロンは前走でアグリキャップに負かされての2着。

 だが、初めて試したマクリ戦法での2着に、こちらもある程度手ごたえは感じていた。

 ただ、今日は雨こそ1時間前に止んだものの、昨日からたっぷり降った雨水が溜まりに溜まった不良馬場だ。

 正直言って、アグリキャップを正面からの力勝負で負かせるのは、笠松のトップオブトップ、あの怪物古馬でないと難しいだろう。

 ならば、アグリキャップより常に前で競馬をし、先手を取り続けるしかないと満彰は感じている。

 他の馬でハナを切りそうなのは牝馬のシバイだが、ハナを強引に奪いに行くか控えるのかはトミトシシェンロンのスタート次第で決める。

 大事なのは勝負処でアグリキャップに十分なリードを確保しておくこと、尚且つ脚を僅かでも残しておくことだ。

 弟の克己も油断してくれれば可愛いものだが、こと競馬に関しては普段のお調子者が鳴りを潜め真摯になり手ごわい。

 だが、自分も笠松で3本の指に入る騎手だ。

 勝ちに行かないレースはない。

 必ず勝機はある。

 東海ダービーのタイトルを、今年こそものにする。


 河原章一も安東満彰も、同じことを考えていた。


 いや、この場にいる安東克己以外の騎手は全員同じことを考えていた。


 アグリキャップ最強馬を負かして穴を開け、臨時ボーナスを観客に持ち帰らせてやる。








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