第4話 生産者 稲穂裕司②




 結果的に稲穂いなほ裕司ゆうじの頼みを阿栗が聞き届けてくれたことで、アグリキャップの母親、スマイルワラビーは稲穂牧場で繋養けいようされることになった。


 その後の阿栗との交渉で、スマイルワラビーは完全な預託ではなく、一月に掛る預託費用を阿栗と稲穂牧場で半分ずつ持ち、産まれてきた仔馬の所有権も阿栗と稲穂牧場で半々で持つ「仔分け」という形態に決まった。

 それでも稲穂牧場にとっては種付け料も全額阿栗が負担してくれるので有難い話であった。


 裕司の両親も突然の話で驚いていたが、裕司の牧場に対する思いが浮ついたものではないということを認めざるを得なかったようで、裕司に就職話を持って来ることも無くなった。

 

 稲穂牧場に来てからのスマイルワラビーは、不受胎になることもなく順調な仔出しであった。

 生まれた仔馬は全て阿栗が稲穂牧場の持ち分を買い取って笠松で走らせ、未勝利で終わる馬は一頭もいなかった。



 この時は、裕司と稲穂牧場の前途は明るく開けているように思えていた。



 稲穂牧場に影が差しこんできたのは、裕司の妻の変調だった。


 裕司の妻は元々おとなしく、あまり感情の起伏を表に出さないタチだった。

 裕司も同様に大勢で騒ぐよりもゆっくり過ごしたいタチであったので、妻の静かな落ち着いたところに魅かれ、結婚することになった。

 

 結婚後の妻は稲穂牧場の仕事を早く覚えたいと仕事に積極的に取り組んでいた。

 裕司の両親も、裕司の妻の働きぶりについては、よくやってくれていると感じていたし拙いながら労いの言葉もかけていた。

 ただ、妻としては自分はまだまだ半人前と思っており、両親の労いも額面通りに受け取っていないようで、裕司はそんなに焦らなくていいんだから、と内心急いている妻に対して常に声を掛けていた。


 裕司の両親は、裕司の妻に気を遣うあまり、気の使い方を間違えた。

 本当に些細なことだ。

 裕司の妻が行った作業で、少し作業の甘い部分が何度かあった。それを裕司の妻に直接両親は伝えるべきだった。

 だが両親はそうせず、甘い部分を黙ってやり直していた。

 わざわざ伝えて嫁の気を悪くさせるのも悪いと思ったのだ。

 妻はそれを後で知った。

 自分が行った作業、例えば馬房の掃除などが、自分が行ったものとは違った形になっているのを放牧した馬を戻す際に気づいた。

 気が強い性格なら、直接注意して下さい、と両親に食って掛かっただろう。

 そしてそれで関係が悪化することもあったかも知れない。だが、少なくともその状況を動かす結果にはなったはずだ。

 だが、裕司の妻の性格はそうではなかった。

 自分はまだまだ両親に信用されていないのだと気にするようになった。

 何度か同じように自分が行った作業が修正されているのを見つけるにつれ、その思いは強迫観念のようになっていく。


 妻の様子が少しづつ重苦しくなっているのを裕司は気づき、何かあったのかと何度も尋ねたが、妻は大したことじゃない、私がまだまだなだけ、と口を濁すだけだった。


 また、裕司と妻の間には子供が出来なかった。

 夫婦の営みは、それなりにあった。

 だが、6年経っても一向にできる兆候がなかった。

 裕司も、裕司の両親もそのことについては口には出さなかったが、たまに農協や近所の牧場の人間が来ると子供の話題になり、稲穂さんとこもそろそろかい、などと茶化されることもままあった。

 妻はそうした人達の前にもあまり顔を出さなくなった。

 毎年新たに誕生する牧場の仔馬たちを見て、裕司の妻は何を思っただろうか。

 

 裕司と妻が結婚して7年目、妻は牧場の仕事に慣れてきてはいたものの、仕事中ほぼ口をきかずボーっとしていることが多くなった。


 そしてある日、事故が起きた。


 妻が放牧に連れて行った繁殖牝馬が、妻が目を離した僅かな隙に転倒し、右前脚を骨折してしまったのだ。

 青白い顔色の妻に呼ばれてその場に来た裕司も、父親の富士夫も、繁殖牝馬の怪我の状態が重篤で、もう助ける手立てがないことを悟った。

 妻は傍らで、申し訳ありません、ごめんなさい、ごめんなさいと涙を拭おうともせずに取り乱して泣き続けていた。

 母親が、そんな妻を母屋まで手を引いて連れて行った。


 獣医に来てもらい繁殖牝馬を安らかに送り、諸々の手続きを済ませたその夜、泣き止んだものの生気の感じられない顔色になった妻から裕司と両親に「……一度実家に帰らせて下さい」との申し出があった。

 裕司と両親は妻が落ち着くまで牧場仕事は休んでくれてもいい、と話したが、妻はそれを固辞した。

 その次の日、裕司は簡単に荷物を纏めた妻を札幌の実家まで送って行った。


 1か月程して、裕司の元に妻から記入捺印済みの離婚届けが届いた。

 えもいわれぬ大きな喪失感が裕司を襲った。


 

 それからしばらく経ったある日、裕司の離婚で気落ちしている稲穂家に追い打ちをかけるかのように、今度は母親が倒れた。

 脳出血だった。

 幸いなことに半年程の入院で退院することができたが、入院費用は稲穂家にとって必要なこととはいえ痛い出費だった。

 母親は一命は取り留めたものの、右半身と言語に障害が残り、自力でどうにか家の中を立って歩けはするものの、以前のように牧場仕事ができる体ではなくなってしまった。


 それまで母親が担っていた家事も父親と裕司が行うようになり、牧場仕事も父親と裕司の二人でこなす。

 体の負担も増えたが、それ以上に心が重さに押しつぶされそうだった。

 でも、誰にも愚痴は言えない。

 父親の富士夫は母親の介助も行っている。

 裕司も手伝おうとすると母親はやんわりと、しかしきっぱりと断っていた。自分の息子に世話をさせられないと思っていたのだろう。

 力になってもやれないという無力感。

 ある夜、夜中にバタンと大きな物音がしたので裕司が見に行くと、父親と母親がトイレの前で倒れていた。母親をトイレに連れて行こうとした父親がバランスを崩し、一緒に倒れてしまったようだった。

 幸い二人に大きな怪我はなかったが、母親は我慢しきれずに失禁してしまっていた。

 急いでタオルと着替えを持って来て母親を着替えさせたが、着替えの最中に母親が「息子にこんなことをさせるくらいなら、あの時死んでしまった方が良かった」と回らぬ口で不明瞭に呟くのが聞こえ、裕司はやるせなく、消えて無くなりたい程の虚しさを感じた。



 そして、その春が来た。

 今から4年前の春、スマイルワラビーの種付け相手に予定していたトウショウボーイの種付け権の抽選に漏れたと連絡が来た。

 日高軽種馬協会の繋養種牡馬のトウショウボーイは馬格が良く走る仔を出すため中小の生産牧場からは「お助けボーイ」と呼ばれ人気があった。

 毎年募集される種付け権には定数以上に相当な数の申し込みが殺到するため抽選が行われている。

 それに、落ちたのだ。

 またしても不運だった。


 その夜、父親の富士夫は裕司に相談がある、と話し始めた。


 「……もう、牧場を畳もうかと思うんだが」


 繁殖牝馬も減ったし、母親も病んでから大分気落ちしている。俺も年で年々無理は利かなくなってきた。

 裕司の奥さんが出て行って以来、ずっと不運に祟られている気がする。ボーイの抽選にも落ちちまった。阿栗さんにも顔向けできねえ。

 今牧場を畳んで資産整理したら、何やかんやどうにか俺と母親が食っていける分は残る計算になる。

 裕司、どうする?

 

 父の富士夫がいつもとは違って気弱に視線を落しながらそう裕司に問いかける。

 

 真正面の視線を落とした父親の顔。

 普段、家族だから照れくさいのでそんなに父親の顔を正面から見たことはない。

 父親の日焼けして茶黒くなった皮膚の皺の部分だけが焼け残り白くなっている。

 こんなに父親の顔は皺があったのか。

 普段帽子を被り擦れた髪は、かなり白髪が増えている。

 一日の仕事が終わった口の周りは薄っすら髭が伸びており、その髭も大分白い。

 日々の様々な疲労で疲れ切った顔をしている。


 随分と、父も年を取った。


 元々父親と母親が作っていた田んぼを止めてその土地で始めた牧場だ。父親が止めるというのなら、大人しく従うしかない。

 両親の力にもなれない。妻にすら何もしてやれなかった俺が、これ以上何が出来るっていうんだろう。


 「親父がそう言うんなら、仕方ない」


 裕司がそう返答しても、父親の富士夫は視線を伏せ、無言のままだ。

 まるで、本心では裕司に止めて欲しいかのような。

 

 確かに以前の父親なら、牧場のことは自分で決めてこっち裕司には相談なんてしなかった。

 つまり、父親は俺のことを認めてくれていて、俺に止めて欲しかったってことじゃないのか。

 そう思ったが、正面から牧場を続けよう、とは言えなかった。裕司にはまだそれだけの自信はなかったのだ。

 ただ、運を天に任せたいと願った。そして裕司の口からポロっと言葉が出た。


 「でも、本当に不運なのか……確かめてからでいいんじゃないか」


 裕司がそう言うと、富士夫は顔を上げて裕司をジロリと見た。

 これまで以上の不運なんてないだろう、裕司はそう怒鳴りつけられることも覚悟したが、富士夫は無言で裕司から視線を外して手元に戻し、裕司に聞き返した。


 「どういうことだ」


 「スマイルワラビーさ、これまで一度も種が留まらなかったことがない。もしうちが本当に不運に祟られてるんだったら、今年は相手変えて種付けしても不受胎になるってもんさ。だから、スマイルワラビーに今年種留まったら、まだ牧場続けよう。俺も頑張るから」


 裕司はその言葉を言いながら、まるで俺が俺自身に対して言っているようだ、と思った。

 俺は牧場を止めたくないんだ。

 やっと父親が俺を認めてくれたってわかったのに。

 言いながら、目が熱くなり、視界が滲む。


 富士夫は途中から顔を上げて裕司の目を見つめながら聞いていた。

 聞き終わると無言で目を閉じ、うん、と一度深くうなづいた。


 「……確かにそれもそうだ。うちの竈馬かまどうまがダメだったら、そん時こそはっきり決心がつく。阿栗さんにも申し訳たつってもんだな」


 富士夫の表情は心なしか張りつめていたものが緩んだように裕司には見えた。

 

 

 富士夫は次の日、岐阜の阿栗に電話をし、スマイルワラビーの新たな種付け相手を決めた。

 阿栗の意向で、笠松でよく走る仔を出しているダンシングキャップを付けることになった。

 富士夫はダンシングキャップ産駒は気性が荒く出ると心配したが、阿栗はスマイルワラビーの仔はこれまで気性が比較的穏やかに出るから大丈夫だろうと判断した。


 ダンシングキャップの繋養されている隣町の静内町へスマイルワラビーを連れて行く道中で、裕司はどうにか上手く種を留めてくれよ、とスマイルワラビーの首を撫でながら願わずにはいられなかった。


 5週間後、獣医師の診断でスマイルワラビーの受胎が確認された。

 後のアグリキャップを、スマイルワラビーは身籠った。

  

 富士夫はスマイルワラビーら身籠った繁殖牝馬の体調管理に、自身の妻の介護をしながらも変わらず精力的に取り組んでおり、父を手伝う裕司から見ても気力が戻って来たようだった。

 当然裕司自身も、そんな父の仕事ぶりを見て覚えようと精力的に仕事に取り組んだ。

 牧場廃業について富士夫は以降口に出さなくなった。


 その年の7月に物好きな2人が牧場を訪れる。

 従業員となる布都野顕元とセラフィーナ=ヒュッティネンだ。

 2人は日本の大学を卒業後、ドイツの牧場で働いていたが、日本の小さな牧場の馬の世話の仕方が興味があると言い、是非この牧場を手伝わせて欲しいと言った。

 正直なところ、正規の従業員を雇えるほど当時の稲穂牧場に余裕はなかったため、牧場長の富士夫は最初断った。

 だが無給でも無休でもいいという2人の熱意に折れて手伝ってもらうことになった。

 2人ともに馬への接し方は非常に丁寧で、早朝から深夜まで厭うことなく手伝ってくれる。

 数カ月経ち無給では悪いということでわずかばかりだが給与を払うようになり、家族同然の付き合いになっていく。

 裕司の母親も二人に対しては心を許し、布都野とセラに身の回りの世話をしてもらうことも多くなった。

 そのうちに、徐々に母親の脳疾患後遺症が回復傾向になり、麻痺していた右半身も少しづつ動かせるようになり、言葉も徐々にはっきりと出せるようになってきたのだ。

 往診に来た医師が母親を診察して「こんなに回復するのは奇跡が起きたとしか言いようがない」と驚く回復ぶりだった。

 今ではきつい牧場仕事まではしていないが、家事は再び行えるようになっている。


 裕司にとっては、スマイルワラビーがアグリキャップを身籠って以来、翳っていた稲穂牧場に少しづつ光が差し込んできたように感じられた。

 

 裕司はまだ自分は父親に追いつけたとは思っていない。

 父親の富士夫の偉大さを折に触れて感じる。

 生まれてきたアグリキャップの右前足が外向し、自力では立てない状態だったのを裕司と富士夫が立たせ初乳を飲ませた時も、裕司は弱気の虫が疼いた。

 こんな状態じゃ、阿栗さんも買い取ってくれないんじゃないか――


「心配すんな、削蹄で根気よく矯正してくぞ」


 富士夫が、ぼそりと、だが力強く裕司に言う。


 前足が曲がって生まれる仔馬はけっこういるが、どうにか矯正できるもんだ、俺だけじゃなく布都野もセラもやれる。裕司、お前はそれを見てしっかり覚えるんだぞ。

 富士夫の言葉と態度は裕司を認めてくれていた。


 富士夫に言われ、裕司が仔馬の幼名をつけることになった。

 裕司はハンデを負いながらも、強く元気に育って欲しいと願いを込め、ハツラツと名付けた。



 こうして誕生したアグリキャップが、今日は『東海ダービー』に出走する。

 しかも1番人気でだ。

 これまで笠松でデビュー以来15戦13勝2着2回。

 あの、誕生した時に右足が外向し、自力で立ち上がれなかった仔馬が、よくぞここまで強く成長してくれた。


 だからこそ、この現実が夢なんじゃないかと思ってしまう。

 もし、今日の『東海ダービー』でアグリキャップが負けてしまったら、夢から覚めてしまったら、あの、妻に出て行かれ母親が倒れ、父が牧場廃業を言い出したあの夜、暗く無表情で聞いていたあの夜に戻ってしまうのではないか。


 そんなことはあり得ない。


 だが、ありえないことは十分に起こっている。

 そしてという気持ちが、どうしても拭いきれず付きまとっている―――




 「裕司くん」


 真横から落ち着いた声色が自分に問いかける。

 隣の席に座っていた、阿栗孝市だ。

 笠松の小料理屋で初めて話す自分に対して緊張をほぐそうとしてくれた時と同じく、落ち着きのある笑みを阿栗は浮かべている。


「久須美さんのとこ厩舎初めて行ったの、いつだったっけか」


「はい、あれは確か……」


 裕司はさっきまでの暗い考えが声に表れないように注意しながら阿栗の問いに返答しつつ、阿栗の表情はなんでこんなに人を落ち着かせるんだろう、と感心した。 


 阿栗と話しているうちに返し馬が始まり、1枠1番のアグリキャップが白い勝負服の安東克己騎手を背に乗せてスタート地点まで駆けてゆく。


 いよいよ出走の時間が間近に迫って来た。


 頼む、勝ってくれよハツラツ。


 裕司は祈りながら2角奥のスターティングゲートを見つめた。







 

 

 

 

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