第51話 祥子の遺髪
祥子の四十九日から3ヶ月。信太郎の生活は元に戻っていた。いや、元になど戻れやしなかった。祥子がいない。
ただ信太郎も仕事に没頭し、日々を送っている。
始まった裁判の傍聴も今はもう行っていなかった。
王彦に紹介して貰った弁護士が検察との仲介をしてくれていた。その上で裁判の状況の報告をしてくれる。
三木智子は全てを認めた上で量刑を争っているということだ。
彼女が何年刑務所に入ろうが、たとえ死刑になったとしても祥子は帰らない。無意味だった。
ただ、祥子が家族を大事にしていたこと。智翁をはじめ芳信や大島家の人々にも祥子が優しかったことだけは裁判ではっきりさせて欲しいと思う。
そして祥子は三木智子に対してだって優しかったのだ。そのことだけは、三木智子にも分かって欲しいと願う。
仕事を終えて夜家に帰った信太郎はサビーヌがいないことに気付いた。
もっとも最近ではサビーヌがリビングに迎えに出ることはなく、大抵は祥子の寝室にいる。
「サビーヌ、帰ったよ」
リビングの端の自動給餌器の餌がそのまま残っていた。食べてないようだ。信太郎は胸騒ぎを覚えた。
「サビーヌ、どうしたんだ?」
信太郎はサビーヌを呼びながら祥子の寝室に向かった。
サビーヌは祥子のベッドの真ん中にうずくまっていた。
「どうしたんだ、サビーヌ。具合でも悪いのか?」
サビーヌは動かなかった。信太郎はベッドの端に座ると、サビーヌの頭から背中まで掌で撫でた。幸いサビーヌは暖かかった。
撫でた感触にサビーヌが反応する。信太郎が伸ばしたサビーヌの毛皮がぞわぞわっと元に戻っていく。
信太郎は少しホッとした。
「サビーヌ」
サビーヌが静かに目を開けた。信太郎を見る。
「ご飯を食べないのか、サビーヌ」
『ああ、眠っていた。夢を見ていた。母上に背中を撫でて貰う夢だ。あの時の感覚そのままだった』
サビーヌが信太郎に答えた。
「猫も夢を見るんだ・・・」
『誰でも夢は見るぞ。だが、背中を撫でて貰ったのは、あたしの錯覚だったようだ。ちっ』
サビーヌが悪態をつく。
「いいじゃないか。触覚の記憶って不思議だよな。何かに触った感覚、触られた感覚は自分で思い出そうとしても難しい。でも夢の中ではリアルに感覚が蘇る。僕もな、祥子と手を繋いだ感覚とか夢に見ることがあるよ」
信太郎が静かに言った。
『そうか、おまえもか・・・』
「サビーヌ、晩ご飯は食べないのか。じゃあチュールはどうだ?」
だけどサビーヌは首を振るとまたうずくまるように頭を下げてしまった。
「おい、大丈夫か? 病院行くか?」
さすがに信太郎にもサビーヌの様子がおかしいことが分かる。
いつもの動物病院は夜間診療はやってないはずだ。どこか夜間の救急病院を探さなくては、信太郎はそんなことを考えた。
『いいんだ。あたしもそろそろらしい』
サビーヌが頭を下げたまま信太郎に言う。
「おい。何を言ってるんだ。そんなことあるもんか!」
信太郎は本気で不安になった。
『あたしは充分長生きしたからな。もういいだろう。慌てるな、あと少しだと思うよ』
とサビーヌ。
「いや、ダメだ。医者だ、医者を探そう」
信太郎はそう言うと立ち上がった。それをサビーヌが制止する。
『お願いだ。静かに逝かせてくれ。母上のところへ』
信太郎は涙をポロポロ
『ええい! 鬱陶しいわ! 泣くな!』
サビーヌが罵声を浴びせる。仕方なく顔を上げる信太郎。
『これは避けられないことだ。泣くなよ、信太郎。父上よ』
サビーヌが初めて信太郎の名を呼んだ。そして父と。
『悲しいことじゃない。母上と会えるのは嬉しいことだから』
サビーヌが頭をもたげて信太郎を見た。
『でも、本当に天国で母上を見つけられるかなあ・・・』
サビーヌがまたそう呟く。信太郎はただただ猫の身体を撫でていた。
サビーヌの不安な気持ちが信太郎の中にも届いている。
それは救い主であり、尊敬すべき人間であり、この身に代えても守らねばならなかった愛する人とまた再び会いたいというサビーヌの願いだった。
「そうだ・・・」
信太郎は涙を拭うと寝室を出た。すぐに戻るとサビーヌに赤い小さな布袋を示した。
「サビーヌ、いつか御手洗教授が言ってた臍の緒の言い伝えを覚えているかい?」
『ああ、覚えてる。でも、あたしは臍の緒で母上とは繋がっていないんだろ』
サビーヌが弱々しい声で答えた。
「それは僕も同じだよ。僕だって祥子と臍の緒で繋がっていたわけじゃない。だからこれを使う」
信太郎は言いながらもう一度布袋を掲げた。サビーヌは何も言わなかったが、信太郎の言葉を待っているのが分かった。
「この袋には祥子の遺髪が入ってる。納棺師が納棺の前に作ってくれたものだよ」
納棺師は納棺の儀を取り仕切る。亡くなった人の身体をきれいに洗い清め、爪を切り、髪を整える。死化粧を施す。そして旅支度の経帷子に着替えさせて棺に収めるのだ。
髪型を整える為に切り落とした髪の毛を束ねて小さな袋に収めたものが遺髪だった。
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