第44話 プライバシーの問題

「潤滑油・・・みたいな?」

 そこで信太郎はこの言葉を使ってみる。

「そうそう潤滑油。なかなか目の届かない社長に代わって浩一さんがこういう問題に苦しんでいらっしゃるとか、貞夫さんがこの技術問題で苦労しているとか、そういう報告を良くしているようで・・・」

「妻は、祥子は大人数の家族に憧れていました。父がいて母がいて、姉弟がいる。そういう家庭に強い憧れを持っていた。彼女にはそういうのありませんでしたから」

 それを聞いて向山は溜息を漏らした。そして両手を胸の前で組む。

「でも、少々深入りし過ぎだったかも」

 向山がぽつりと言った。

「え?」

「あの、いいんですよ。仕事やその他雑多な困りごとを伝えてあげるレベルなら。やっぱり親子だからだと思うんですが、感情面で関わってしまったから・・・」

 向山の発言は意味深長だった。何を言っている? どういうことなのか? 信太郎はこの話をどう進めるか悩んだ。

 そして昨夜サビーヌに言われたことを思い出した。


 いったん眠っていたサビーヌが夜中近くに目を覚ました。信太郎はまだスマホの分析に集中していた。

『どうなんだろう。母上はかなりプライベートなことに首を突っ込み過ぎたってことはないだろうか』

 サビーヌがいきなり信太郎の頭の中に言葉を投げ掛けてきた。ドキッとする信太郎。

「急に、脅かさないでくれ。サビーヌ」

『新機種のスマホにして以来母上は言葉で書かずに暗号みたいな書き方をした。それは人に見られることを恐れたからだ。だからあたしたちもより高度な企業秘密に関わる内容だからと考えた』

「何が言いたいんだ? サビーヌ」

『最新のスマホにはより高度な企業秘密に関わることじゃなくて、より高度なプライバシーに関わることが書いてあるんじゃないかってことだ』

とサビーヌが言い返す。

「じゃあこの暗号文はプライバシー保護の為だって言うのかい?」

『古いスマホのメモを読む限り犯罪みたいな報告事項はなかっただろ?』

「ああ。せいぜい開発がうまく行っていないとか、専務にその意見には反対が多いですみたいな注進するレベルのことだった」

『母上は企業秘密の海外売却とか、特許侵害訴訟の黒幕とか、そんなことに首を突っ込むつもりはなかったと思う。たとえ知ったとしても」

 言われて信太郎も納得出来た。わざわざそんな事へ関わるような祥子じゃない。

『となるとだ・・・』

 サビーヌが信太郎の目の奥を覗き込みながら続けた。

『もっとプライベートなことに巻き込まれたんじゃないかと想像できないか?』

 だが、この時は信太郎も半信半疑だった。だいたいプライベートなことで殺されたりしないだろうと思う。

 それにプライベートな事って何だという疑問も。


 信太郎がいつまでも黙っていたので向山の方が話し出した。

「私も祥子さんの活躍に期待してましたからね。こういう企業風土ですから、息苦しいとこあるんですよ。そう言うところを祥子さんは専務や場合によっては社長に伝えてくれる。ありがたいと思ってしまっていました・・・」

「その、何か感情的な部分へ妻は入り込んでいたんでしょうか?」

 信太郎が向山に尋ねる。

「秘書室なんてまさにそうなんです。女の園で、若い子たちも大勢います。ここは秘書だけでなく受付の娘たちもいますからね。当然色恋沙汰も多い・・・」

 こう言われて信太郎は焦った。色恋沙汰? 自分には一番苦手な分野である。

「妻が、祥子が恋愛相談に?」

「これは大抵の人は知っているんで、話しますけど。誰彼には話さないでくださいね」

 向山がそう断ると話し出した。

「広報の佳那部長、常務の刑部さんと不倫してたんです・・・噂になっていました。佳那さんは独身ですからね、全然構わないんですけど。刑部常務は家庭もおありですから・・・」

 まさか相手は刑部常務だったか、信太郎は思いながら向山に問いかける。

「いつ頃のことですか?」

「1年ほど前、いや1年は経ってないかな」

 向山の答えは曖昧だった。だけど、前のスマホの最後のメモに佳那の不倫については書いてあった。時期は符合する。

「祥子さん、不倫に気が付いて相当困ったんだと思います。それ、いきなり兄の浩一さんに伝えられないでしょ? それで私に相談があったんです。どうしようって」

「それで?」

「どうしようって言われても困るじゃないですか。何かと対立してた専務と常務ですよ。常務の不倫を専務に報告したら・・・」

「そりゃ、政争の道具にされるかも」

「まさに。それで、私は祥子さんに言ったんです。見て見ぬ振りが一番いいんじゃないかって?」

「ああ」

「卑怯なやり方だと思いますよね?」

「いや、そんなことは」

「でも、男女のことは理屈じゃないし。例えば、熱の冷めるのを待つ方がいいんじゃないかって。だいたい刑部さんの方だって本気なのかどうか。それこそ政争の具にしようとしてたのかも知れないし・・・」

「なるほど。それにしても嫌なことに気が付いちゃったわけですね。祥子は」

「でも祥子さんは佳那さんが不幸になることは望まなかった。だから直接話したんだと思います」

「不倫の件、佳那部長に直接?」

「ええ。単に秘書ならそんなこと誰にも言いません。でも彼女にとっては佳那さん、家族だったから・・・」

「どうなったんですか?」

「叩かれたって」

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