第27話 動物病院
「サビーヌ! どこへ隠れたあ! もう行かないと間に合わなくなっちゃうぞ」
信太郎は狭いマンションの中を探し回ったが、どこにもサビーヌの姿がなかった。まさか、家の外に? だけど、どこにも外へ出られるところなどないはずだ。
「サビーヌ! 返事をしなさい!」
信太郎はパントリーの棚の中、ジャガイモをストックしている段ボール箱の前で足を止めた。
「あああ! サビーヌ! こんなところに! おまえはジャガイモか!?」
サビーヌはどうやって潜り込んだのか、段ボール箱の中に身を潜めていた。
「どうやって入ったんだよ」
棚と段ボールの隙間は10センチほどしかない。その隙間から中へ入り込んでいたのだ。
「行くぞ、健康診断」
信太郎は段ボールごと棚から取り出すとリビングに向かう。
「さあ、入れ」
信太郎はキャリーケースの蓋を開けると中にサビーヌを押し込もうとした。サビーヌはそうはさせじと手足を突っぱる。それでなかなかケースの中に入らないのだ。
「サビーヌ、頼むから入ってくれ。急がないと間に合わないんだ」
『あたしは行かない!』
「行くんだ!」
『行きたくない。血を採られるのは嫌だ』
「おまえのためだ」
『あたしのことは放っておいてくれ』
サビーヌは隙あらば信太郎の手をすり抜けて逃げ出そうとする。
「全く、元気だな。サビーヌ」
『元気だ。だから病院へ行く必要はないんだ』
「サビーヌ、おまえは母上との約束を守らないつもりか」
信太郎が言った。
『あたしは約束はしていない』
「そんなことを言うのか? 祥子が悲しむなあ」
そう言われてサビーヌの動きが止まった。
「祥子は今日わざわざ会社に休暇まで申請してあったんだぞ。全ておまえのためだ。おまえと出来るだけ長く一緒にいたかったからじゃないか」
サビーヌは力なく萎れてしまった。そして、
『母上はもういない。一緒の暮らしも突然終わってしまった!』
と叫んだ。
すると信太郎がわっと泣き出した。おいおいと声に出して泣いている。
「ちきちょう、ちきしょう・・・」
信太郎は鳴きながら小さな声で呟き続けていた。するとサビーヌが信太郎に身体を擦りつけて、自分でキャリーケースの中に入って行った。
『ほら、遅刻するから、行くぞ』
キャリーケースの中からサビーヌがそう言った。
「診察券ナンバー25326ですね」
動物病院の受付で事務員が端末を叩く。
「ああ、チビちゃんね。それにしても何でこんな大きな数字なのかしら」
この病院では診察券登録時に好きな番号を指定できた。この数字は祥子が勝手につけた番号なのだ。
今度はキャリーケースから猫を出すのに一苦労だった。猫の尻尾を掴んで引きずり出そうとする信太郎を看護師が慌てて止めた。
「相変わらずゴネてますね」
出てきた医者は持って来た猫用おやつチュールの封を切ってキャリーケースの中に差し入れた。
すると後ろを向いていたサビーヌがこっちを向く。その前に医者の持ったチュール。サビーヌは早速ぺちゃぺちゃと舐めだし、少しずつ医者は引き寄せていく。
サビーヌ、おまえそんなベタな手に乗って・・・と思う間もなく、医者に首根っこを押さえられキャリーケースから引きずり出されてしまった。
「け、結構強引なんですね」
思わず信太郎が言ってしまう。
「いつまでも怖がらせておく方が可哀想でしょ。猫は柔軟な動物ですからね、このくらいはどうってことありません」
医者が言った。
「これはどの猫ちゃんも大好きですからね」
そう言って医者はチュールを信太郎に見せた。よくテレビのコマーシャルは見ていた。でも家には置いてなかったはずだ。
哀れサビーヌは奥へ引き立てられていった。採血が待っている。医師の診察もだ。信太郎はちょっとサビーヌが可哀想になった。
検査の最後にサービスでサビーヌがブラシを掛けて貰っている間に医者が信太郎のところへ来た。
「ちょっと腎機能が衰えているようですね」
医者が言った。はっきりと。
「じ、腎臓ですか・・・?」
信太郎が恐る恐る口に出す。
「まだ問題ないですよ。でも20歳ですからねえ。これは猫の宿命なんです」
医者から宿命なんて言葉を聞こうとは、信太郎は思わなかった。
医者が言うには、猫は大抵腎臓で死ぬのだそうだ。これは猫族の宿命だとか。
「おしっこの出具合とか注意して見ててくださいね」
「あ、あの見てどうすれば」
「分量とか色とか。飲む水の量もね」
それだけ言うと医者は戻っていった。信太郎はサビーヌが20歳の超高齢猫であることを思い知った。
呼ばれて診察室に戻ると、サビーヌはさっさとキャリーバックに入った。
「帰る時は速いな」
ブラシのせいでサビーヌは機嫌が良かった。
会計を待つ間、信太郎は待合室を見ていた。ふと目に止まったのが、柔道着を着た子供たちの集合写真だった。
信太郎は1人の女性の柔道着に目が釘付けになっていた。
「ああ、それ。先生のお嬢さんなんですよ」
中年の常連らしい女性が声を掛けてきた。彼女は白いマルチーズを引いている。
「先生の・・・?」
「ええ。この子」
女性は右から2番目の柔道着姿の少女を指差した。
「その隣がサトちゃんで、これがミチコちゃん・・・」
常連の中年女性が写真の子供たちを指差していく。
「詳しいんですね。じゃあ、この女の人は誰ですか?」
信太郎が指差したのは、今見ていた柏木と名前の入った柔道着の大人の女性だった。
「ああ、インターハイで準優勝した柏木さんね。この中学のOGなのよ。たまに指導しに来てくれるそうよ。これは4〜5年前の写真」
マルチーズを引いた女性の言うことを聞いて信太郎は、
「まさか、な。でも・・・似ている・・・」
と呟いた。
信太郎の足下では、キャリーケースのサビーヌとマルチーズが唸り声を上げて睨み合っていた。
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