灰色の男(レジーナ視点)
放課後。
レジーナは人の波が落ち着くのを待って廊下に出た。
二、三年生は文化交流祭の準備活動があるらしくマルファ達の姿はまだない。
見つかる前に帰ってしまおうとレジーナが昇降口に向かっていると、廊下で転んで床に授業で使う地図をぶちまけたのか、よろよろとそれを拾う教師の姿があった。
フードを被り瓶底の眼鏡を掛けた灰色の髪の教師だ。
二、三年生の地理と歴史を教える教師で確かアッシェンという名だったと記憶している。
無視して帰るべきだとは思ったが、目の前で困っている教師を無視はできない。
「アッシェン先生、お手伝いしましょうか?」
「あっ! 申し訳ないがお願いできるかい? 助かるヨ」
その語尾にごくわずか北方の訛りがあってレジーナは目を見開いた。
「ああ失礼。この国ではあまり歓迎されない訛りだよね。気をつけているんだが、焦ると出てしまう。父がディアーラ人で僕もそこの生まれなんだが、ディアーラは一時期帝国の支配下にあったろう。たまに公用語に訛りが出てしまって」
「あ……ごめんなさい。先生はディアーラのご出身なんですね」
「ああ。母はベルニカ人だったがノーザンバラの侵攻で国が荒れてね。母は弟だけを連れてベルニカに帰り、僕は父とあの地に残されてディアーラ最後の日を迎えた。あれは強烈な経験だった」
「辛い経験だったのでは……。その、えっと。私の知り合いにもディアーラの人がいて」
ディアーラ王国はノーザンバラに滅ぼされ、その後紆余曲折を経て、現在はベルニカ公爵領の一部となっている。
海亀島の娼館、ラトゥーチェ・フロレンス。
そこで働いているマグノリアはディアーラの出身の元貴族令嬢だった。
彼女の優しい銀雪を思わせる灰色の瞳と、この男の灰色の髪が被る。
彼女はディアーラから親と共に逃げて流浪し、最終的に一人きりになってはるか南のリベルタで身をひさぐことになったと聞いている。
彼にもそのような流転があるのだろうか。
「そんな顔しないでくれ。国が興り滅ぶのは歴史の流れだ。それにノーザンバラにも良い人間がいることは知っている。生まれ持った血筋であれこれ言うのは愚かしいことだよ」
降って湧いたような教師のはげましに胸が詰まって涙がこぼれそうになるのをレジーナはなんとかこらえた。
「そう、ですか……? その、ありがとうございます」
ごまかすように頭を下げると、猫背の教師はへにゃりと微笑んで、フードの下のこめかみの上をぼりぼりと掻いた。
灰色の髪から何かが舞ったのはみなかったことにする。
「ははっ。君がどうしてそんな顔をしているのか分からないが、礼を言われる程度に役に立てたのなら教師として嬉しいよ」
教師と共に床に落ちた地図を拾い集めて持って、レジーナは準備室に運んだ。
「ありがとう。助かった。お礼にお茶をご馳走するよ。ディアーラの茶と菓子を運良く手に入れることができたんだ」
「お気持ちだけ受け取ります。たいしたことをお手伝いしたわけではないですし、上級生の活動が終わる前に寮に帰りたいので」
「うーん。だが礼はしたいんだ。そうだ。ほんの少しだけ待っていてくれ」
作りつけの棚に入っていたディアーラの菓子と茶を小分けにして、レジーナに手渡してくれる。
「これをお礼に。気に入ったらまたいつでもこのお茶を飲みにおいで。いつでも歓迎するよ。親切なお嬢さん」
「ありがとう、ございます」
戸惑ったのは彼の案外軽い物言いか、それとも思ったより堅い武人めいた掌か。
レジーナは礼を言って準備室を出て帰路を急ぐが、昇降口で呼び止められた。
「ちょっと。放課後はあたしと学生会室に行く話になっていたでしょ?」
そこにはマルファが待ち構えていて、レジーナは自分が逃げられなかったと知った。
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