女の一生1(アネット視点 過去)


「アネット! お前が母上に密告したせいで使用人がババアばかりになった! どうしてくれるんだ」


「密告なんてしていません」


 兄に怒鳴られて、アネットは肩を縮こまらせた。

 女性使用人達から兄に寝台に連れ込まれるという訴えがあり、対処に困って母にそのまま申し送っただけだ。

 だが、それは兄の望んだ対応とは違ったらしい。


「金を握らせて黙らせればいいんだよ! なのによりによって母上に丸投げするか? 間抜けが!」


「そもそもそんなふしだらな真似をお兄様が……」


 兄はアネットのその言葉を大声で遮った。


「うるさい! 跡取りに向かって口答えするな! どこかに嫁いで出ていく分際で! こんなに気が利かないんじゃ未来の義弟も苦労するだろうさ! ああ気分が悪い。今日だって、学生会の仕事を休んでこっちにきてやったのに! 仕事は代わりにやっておけ。いいな。さぼるなよ!」


「承知しました。お兄様、もうしわけありませんでした」


 アネットは兄に向かって頭を下げた。乱暴な足音が遠ざかって、アネットは安堵のため息をつく。

 両親が領地にいる間、もっとしっかりと兄を支え、上手く声をかけて、穏やかに問題に対処しなければいけなかったのに失敗してしまった。


 だが、すぐにそれが瑣末な悩みとなる大事件が起きて、アネットの未来には暗雲が立ち込めた。


「瘡毒……そんな。どんな悪い女に騙されたの!!」


 悲鳴にも似た母の叫び、多少は事情を理解しつつも無言のまま机を叩いた父を、アネットはただ黙って部屋のソファーの角に姿勢を正して座り眺めていた。

 少し前からタウンハウスへの請求書で、治安が悪いと有名な壁穴通りの娼館のツケが回ってくるようになったと父に報告した時、若いのだから女遊びぐらいする、母には内緒にしておくようにと言われただけだった。

 おそらくその娼館で罹ったのだろう。


「オクシデンス商会で特効薬を売っていると!! 僕は狂って死にたくない……!」


 兄が啜り泣きながら両親に縋った三日後には、オクシデンス商会の商会長が屋敷に呼ばれて客間で両親と兄が話し合っていた。

 薬の売買だけのはずなのに、ひどく長く時間がかかって、普段、客の前でだけは穏やかに取り繕う父が声を荒げるのが扉越しに漏れ聞こえたが、最終的にまとまったらしい。

 客間から出てきたのは仮面の男だけで、両親も兄も見送りに出てこない。

 兄の病を癒す薬を手配してくれた人間に失礼ではないかと、アネットは執事と共に玄関ホールまで彼に付き添い頭を下げる。


「本日は兄のためにご足労いただきありがとうございます。オクシデンブルグ男爵」


「君がこの家の娘さんか」


 仮面で目元が隠れているが、男の薄く淡麗な口元がやるせなげに歪んだ。


「お父上と話をして、君を学園に通わせる約束をしてその費用は残した。通えないようなら連絡をして欲しい。三年間勉学に励んで、もしもご両親と決別して独立するなら訪ねてきてくれ。独り立ちできる仕事を紹介しよう」


 男は一介の商人でただの男爵にすぎないのに、なぜかそれ以上の貫禄を感じる。

 そして、胡散臭いほどに親切だ。


「お声がけ感謝します。ですが、父が今家格に相応しい婚約者を選定してくださっています。学園に通うのは王の定めた義務ですから通いますが、おそらくはそのまま嫁いで同格の家に入ると思います」


 淑女たれ、良妻賢母らしくあれ。

 物心ついてから母に、父に厳しく言われ、躾けられて、従順な娘としてあった。

 アネットはそれが苦ではなかった。

 当たり前だと思っていたから、目の前の男が何を言っているのか理解できなかった。

 ため息をついた男爵はわざとらしく頭を掻いた。

 まるで自分が粗野な人間であると印象づけたいかのように。


「君の兄上の病を真に癒すための薬はリベルタの特別な土からごく少量しかとれない貴重なものだ。それこそ君の家の莫大な財産を売り捌いてやっと捻り出せるぐらいのな。だが、子をなさず、ほんの少しの寿命を諦めれば、人間らしく過ごせる薬はもっと安価に手に入る。だがロスカスタニエ侯爵はその特別な薬を息子に処方する事を望み、見返りに君を俺の妻として差し出すと言ってきた」


「では、私は貴方に嫁ぐことになるのですね」


「馬鹿を言うな。過ぎたる従順さは美徳ではない。もちろん丁重にお断りしたよ。仮面のおかげで多少若く見えるが、俺は陛下よりも年上だし、リベルタ育ちで今は学園には通っていないが、君より一つ上の娘もいる。なにより女性ならば、亡き妻が心にいる。今は肌を合わす恋人もいる。再婚なんてとんでもない」


 父は、公爵達と付き合いがあるといっても所詮は男爵風情が、はるかに年下の未婚の侯爵令嬢との婚姻を断るとは思わず、喜んで受け入れると信じそれを提案して断られ、激昂していたのだろう。


「父が失礼な事を申し上げました」


 アネットが頭を下げると、男爵は首を振って、その薄い唇の端を持ち上げる。

 目元が見えなくても、語らなくても饒舌な表情というのはあるのだとアネットは新たな発見と共に男を見つめた。


「君が謝る事じゃない。ま、それにお父上も夜会の後に謝ってくるだろう。お父上の青ざめた顔を見逃さないようにね」


 そう冗談めかした風変わりな男爵は夜会の後に実は王兄だったと分かり、また兄と親しくしていて、おそらくオクシデンブルグ男爵に断られた後、アネットの嫁ぎ先と父が目していた金満家のフェアフェルデ伯爵家が爵位を剥奪され財産を没収された。

 兄もキュステ公爵令息とフェアフェルデ伯爵令息と学園の学生会で親しくしていたので、巻き込まれるはずだったと両親はその幸運を喜んでいたが、その表情が変わったのは、夜会の喧騒がひと段落して、莫大な金額が記された請求書を携えてオクシデンス商会の使者がやってきたからだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る