覆水は盆に返らず4(過去編ヴィルヘルム視点)

 ユリア達の仇であるノーザンバラ帝国を倒すためヴィルヘルムは出陣する必要があったが、オディリアを無条件に任せられる人間は多くない。

 ヴィルヘルムは師匠であるリヒャルトの娘であり、ケインの姉でもあるベアトリクスを王宮に呼んだ。

 彼女はリヒャルトの帰国後に近衛騎士団長の子息との結婚を控えていたが、リヒャルトの死とケインが近衛の騎士を斬り殺した事によって婚約破棄され家にいる事を知っていたからだ。


「委細承知いたしました。王はただ命じれば良いのです。言い訳がましくその薄汚れた口を開くのはおよしください。オディリア妃殿下の事は命をかけてお護りします」


「シュミットメイヤー嬢、我々は秘密を分かち合う者だ。これからは王と臣下という立場でなく、君の本音をぶつけてくれて良い。俺にはそれが必要だ。赦す」


 完璧な笑顔、完璧な所作で淑女の礼を取ったベアトリクスの言葉はかつて彼女の父がケインを養子に取る時に自分達王族に言ったのと同じだ。

 だが、その端に明確な棘を感じてヴィルヘルムはベアトリクスに言った。


「ええ、では、あなたの師匠の娘として王の立場を慮らずにお伝え申し上げます」


 その瞬間、滑らかにドレスの裾が持ち上がって硬いヒールのつま先の鋭い回し蹴りが腹に入った。


「顔は勘弁して差し上げます。王の見栄えがございますし。下半身に従って生きていけるのは種馬だけです。それだとて人のルールに従わせております。お分かりいただけますか? どのような状況下であろうとも最後の最後まで理性を保てなければ戦場で人倫から外れると、父は申しておりませんでしたか?」


「は、い……」


 不意の一撃は強烈で、喰らった瞬間に息が止まり胃液が逆流する。吐き戻さなかったのは単にここのところ食欲がなく胃に余裕があったからだ。


「しかも自業自得とはいえ愚弟が狼達の群れフィリーベルグ辺境騎士団で苦労している中なにをやっているんですか? 自制心のないソレをもぎ取って捨ててやりたいぐらいです」


「彼女の胎の子が王位を継いだら、煮るなり焼くなり好きにしていい。それまでは役目があるから勘弁してくれ」


 ベアトリクスは苦笑した後に、再び美しい臣下の礼を見せて深く頭を下げた。


「しませんよ。物の例えです。時期と事に対しては腹立たしくて仕方ありませんが、これ以上は私が責めるべきところではありませんし、貴方は主君です。私と母は父の生前の意思を継ぎメルシア王家、とくに国王の地位にあるお方に絶対の忠誠を誓っております。オディリア妃殿下もお子様も必ずお守りしますので、憂いなくご出陣いただき、不倶戴天の黒犬を処分して小国郡への橋頭堡を築き、フィリーベルグ辺境騎士団と共にノーザンバラを打倒してください」


「もちろんだ。だからリアを頼む……何よりも大切な人だ」


 その後すぐにヴィルヘルムは出陣した。

 激しい吹雪を物ともせず、速やかにキシュケーレシュタインを併合し、穏やかな幸福に満ちていたメルシア王家を壊したノーザンバラ帝国への苛烈な復讐への第一歩を踏み出した。

 そして兄が金を出して開発をしていた新型の銃火器を駆使して大陸を席巻した。

 だが、ある程度の地盤を固め一時帰国が叶ったのはリアムの誕生後、オディリアが産褥によりレオンハルトとベアトリクスに看取らながら亡くなった後の事だった。

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