しかし覆水は地に染み渡り果実を育む(過去編、ヴィルヘルム視点)
「オディリア妃殿下は産まれた王子を腕に抱いて、微笑まれ、亡くなりました」
出産に付き従ったというベアトリクスが言葉少なにオディリアの最期を告げ、慰めるように付け加えた。
「オディリア様は重石を降ろしたように見えました。本当に幸せそうな笑顔で……あれほど優しく幸せに溢れたお顔は初めて見ました……」
それを見られなかったのは、ヴィルヘルムに与えられた罰だろう。真実愛した者を殺すような選択をしてしまった自分には妥当な罰だ。
「この子が……」
かつて兄がそうだったようにおぼつかない手つきで抱き上げると、赤子はオディリアによく似た顔で無邪気に笑い、自分に向かって小さな手を伸ばしてきた。
ヴィルヘルムはその姿に胸打たれた。
もう自分の中から尽きたと思っていた涙が眦からこぼれ落ちる。
ふくふくとした頬とオディリアと同じ色の髪をそっと撫でて、人差し指を恐る恐るその小さな小さな手に差し出すと赤ん坊は興味深そうにそれを握りしめてきた。
その手は心に染みるほど暖かくて、これほど小さくても、しっかりと元気に生きていると分かる力強さがあった。
「リアによく似ている……」
「男の子は女親に、女の子は男親によく似ると申しますからね」
自分で言って引っ掛かりを感じたのか、そこでこほんとわざとらしい咳払いをしたベアトリクスがヴィルヘルムに問うた。
「この子の名前はどうしますか? 宰相閣下が貴方にお任せすると」
「本人はどうした? 城にはいるのか?」
思えば帰還の挨拶の際もいなかった。
こちらも産まれた赤子の事しか考えていなかったからさして気にもせず、簡単にそれを済ませてさっさと部屋に戻って風呂で旅の垢を落としてこの子の元にやってきたのだ。
「執務室で仕事をされていますよ。まだ、この子と貴方の二人と顔を合わせるのが辛いと。伝言を承っております。
『貴方はこの短期間で帝国と対抗しうる礎を築きました。この容姿ならば私の息子とした方がいいのでしょうが約束は違えません』と」
唇を噛み締めた後、ヴィルヘルムは一つの名前を声に乗せた。
「リアムだ」
男児が産まれたという連絡を受けて、もし自分が名付けていいのならこの名前にすると心の中で決めていた。
オディリアが見つけてくれた『リア』という文字の共通点があるウィリアムという名前。
親と同じ名前では登録出来ないから
天国の兄は激怒するに違いないが、母親との絆を持つことも叶わないこの子にそれを与えたかった。
「分かりました。その名前で王籍に登録すると宰相閣下にお伝えしますね」
「登録には母親の籍が必要だ。どうするか聞いているか?」
ヴィルヘルムは登録について、別の決まりを思い出して眉を顰めて考え込んだ。
貴族籍、王籍には原則として両親を記載するが、父親は分からない場合があるから、父親の名は必須ではない。だが、母親は必ず登録しないとならない。
リアムの場合はオディリアになるが、王籍は希望者には公開される。
リアムの母が療養中だったオディリアであると知られれば、好奇の目に晒されるのは間違いない。
かと言って、王妃であるイリーナを母とするのは心情的にも情勢的にも絶対に避けたいところだった。
「その件ですが、陛下、私をこの子の母にさせてください」
そこで引っ掛かると予想がついていてすでに考えていたのだろうか。
ベアトリクスの声は確固たる意志を持っているように聞こえたが、ヴィルヘルムは確認を取らずにいられなかった。
「ベアトリクス、それがどういう意味か分かっているのか?」
不本意だが、政略結婚であるノーザンバラ帝国の皇女イリーナが自分の妻である事は事実である。
王族はその血を先に継ぐことを目的に、王妃がいても別の女性を妃として王籍に記載することが出来るが、それはあくまでも愛人、妾としてだ。
宗教的には不名誉であり、名が汚れることは避けられない。
「ええ。ですが、前にも申し上げました。メルシア王家に絶対の忠誠を誓っていると。お役に立てるのであれば光栄です」
「だが、それでは我々にばかり都合がいい……」
首を振ってベアトリクスはそれを否定する。
「私にも益がありますので、お気になさらず」
「益?」
「私にとってこれは契約結婚のような物です。オディリア様の侍女として、またフィリーベルグ辺境騎士団改め赤狼団との調整役として宮廷におりましたが、オディリア様は亡くなり、フィリーベルグの辺境騎士団は全員爵位を返還し陛下直参の傭兵団として雇用されたと聞きました。そうなるとまた結婚の話が出てきてしまいます」
「だろうな」
独身を貫く事ができる中上流階級の女性は多くない。親や周囲の圧力で大体は本意不本意に関わらず結婚をする事になる。
「とはいえ完全に行き遅れていますし、そもそも婚約破棄された傷物で持参できるような爵位もない。そうなると結婚相手は赤狼団の身内か年寄りの後妻か訳ありの不良物件ぐらい。たしかに妾妃は不名誉かもしれませんが元々さして信心深くもないので、妻の役目を果たさなくても母になれるのは大変ありがたいことなのです。陛下も私と寝所を共にする気にはならないでしょう?」
「……目的に必要ならばやむを得ないが、そうでないなら遠慮したい。ああ、これは君に魅力がないとか、師匠の顔がチラつくとかではなく、俺のけじめの問題だ」
「一言余計なのは変わらないのですね。陛下」
ぽきりと指を鳴らしたベアトリクスから子供を守るように抱き抱えたまま後ずさると、女は堪えきれないかのように吹き出した後、朗らかに笑った。
「もっと、絶望して余裕もないかと思いました」
「この子を見たら吹っ切れた。必ず俺の代だけでノーザンバラの勢力を削いで決着をつけ、何を犠牲にしても、王としてメルシアをリアと兄貴が考えていた豊かで安定した国にする。そしてリアムにその国を引き渡す」
ベアトリクスの笑い声に合わせるように声を上げて笑った赤ん坊をヴィルヘルムはそっと撫でた。
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