覆水は盆に返らず1(過去編ヴィルヘルム視点)

「エリアス、仕事は忙しいの? 私が出来ることはないかしら」


「大丈夫だよ。リア、君はまだ体調が良くないとレオンに聞いたよ。身体を治す方が大切だから、のんびり過ごして。結婚式のチーフの刺繍もあるんだろう? 楽しみにしているよ」


「そうだったわ! 結婚式ももうすぐね。素晴らしいアクセサリーをありがとう」


「何か古い物を身につけた花嫁は幸せになれると聞いたから、宝物庫にあったネックレスとティアラにしたんだ。ウェディングドレスも素晴らしい出来なんだって? 私も君が花嫁になる日を楽しみにしている」


「ええ、楽しみにしてるの。愛しているわ。エリアス」


 頬にくちづけが落とされ、ヴィルヘルムは愛しむように彼女をその腕に収めてオディリアのざんばらに切れた髪を撫でた。元々は長く伸ばした髪をきっちりと結っていたが、彼女が恐慌をきたした時に自らの手で切り落とし、それ以来刃物を見せることも出来ず、揃えられずにそのままになっている。

 その無惨さと、もうじき花嫁になると微笑む無垢な笑顔との乖離に心が痛む。

 そもそもこの会話を何度繰り返しただろうか? 彼女が落ち着いていられる、数少ないいくつかの幸せな夢の一つがこれだ。


「リア、そろそろ仕事に戻るよ。愛している」


 兄の振りをして、極めて優しい口調、柔らかな物腰でオディリアの眦に口付けてヴィルヘルムはその場を後にする。

 昔兄夫婦から聞かされた惚気を元に、何度も何度も同じ会話を繰り返して彼女がパニックを起こさないやり取りを研究して、やっと彼女の穏やかな夢を壊さずにいられるようになった。

 それはひどく虚しい行為だったが、彼女と触れ合っていられる事実が、ヴィルヘルムを毎日オディリアの元へ向かわせた。


「陛下。また妹のところに行っていたんですか?」


 執務室に戻るなりレオンハルトから飛んできた非難めいた響きの言葉を、ヴィルヘルムはすくめた肩だけでいなした。

 オディリアが心身の調子を崩してから、王宮の敷地内にあった離宮で療養させている。

 そこはエリアスとオディリアが新婚時代の短期間を過ごした離宮で、そこならば子供のことを思い出さないと選ばれた。


「リアの面倒は我が家で見ます。貴方の時間を奪うわけにはいかない」


「彼女は王家に嫁いだ身だ。面倒を見るのはこちらの義務だ。それに御両親も伏せっておられるようだし、お前だって家に帰れていない。そこに慣れぬ介護が入るのは辛いだろう」


 ヴィルヘルムの口から軽薄に思いやりを装った詭弁が紡がれる。それは当然建前で、単にどんな状況でもオディリアを手元から離したくないだけだ。

 彼女は自分の存在を記憶から消し去ったが、自分はエリアスとして彼女から愛を注がれている。

 それは空虚だが甘美な夢の実現で、ヴィルヘルムはそれを手放すことが出来なかった。


「さて、今日はどれぐらい仕事が溜まってる? 早く人員の整理をして楽出来るようになりたいよ。お前の父も復帰してくれれば助かるんだが」


「父については期待しないでください。エリアスと違う船に乗っていたから海賊に襲われず、向こうで指揮を取り、なんとか殿下の死体を回収して帰ってこれたものの、その後に妹の件があって相当ガタがきていますからね」


 レオンハルトの父はヴィルヘルムの父に仕えていた宰相だった。レオンハルトが成人して宰相の座を譲り渡した後に今までの経験を買われエリアスの随員として共にリベルタに渡る船に乗った。

 リスク分散の一環としてエリアスとは船を分けられていた為に命拾いをし、エリアスの死体を検分してリベルタに持ち帰ってくれた。

 だが、リベルタとディフォリア間の慣れぬ強行軍で体調を崩した所に孫の死と娘の心神耗弱が重なり、彼もまた寝ついていた。


「そうか……あまりにも味方が少なくてついな。もちろん無理させるつもりはない。お大事にとお伝えしてくれ」


「はい。では今日の仕事を……」


 そこに、こちらの返事もおざなりに真っ青になった騎士団長が部屋に飛び込んできた。


「大変です! ユリア殿下とケイン殿下が毒を飲まれて……!」


「詳しく話せ! 二人は無事なのか?! どこで毒を飲んだ?!」


「ユリア殿下は事切れておられました。蘇生も試みておりますが難しいかと。ケイン殿下は耐毒訓練されていたらしく、かろうじてご無事ですが意識がございません。場所っ! 場所は! ユリア殿下の私室です!」


「ユリア!!」


 転けまろびながらレオンハルトが出ていく。それを途中で追い抜かしてユリアの部屋に飛び込んだ。


「ユリア! ケイン!」


 そこでヴィルヘルムが見たのは喉に痛ましい掻き傷を作り苦悶の表情を浮かべて白く血の気の失せた姪と、水と共に無理やり苺を吐き出させる処置を受けぐったりと意識を失ったままのケインの姿だった。

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