壁ドン

 ノイメルシュ宮、新王宮と呼ばれる宮殿は大陸の強者である連合王国の王が住むにはひどく簡素な印象を与える宮だ。本宮は左右の翼棟を持つ三階建の宮殿で、ここに王の私室と全ての政治機能が収まっている。

 ちなみにリアムとリアムの母が住むのは別棟の東の宮殿である。

 夜、王族とそれが認めた人間以外は使う事が出来ない特別な門に馬車をつけた。


「赤狼団、ライモンド・シュミットメイヤーだ。リアム王子殿下がソフィア・ベルグラード公爵令嬢と共にお戻りになられた。疾く開門せよ」


 御者台のライモンドが小声で告げ、通行証を見せると、門番は馬車の中を改めることなく門を開け、敬礼を返した。

 馬車から降りて、建物に入るとソフィアが指を突きつけた。


「皆様、顔が硬いですわよ」


 リアムは無理に口角を持ち上げ、背中を伸ばした。


「父と会うことはあまりないから」


「あとアレックスさんは、その仮面を付けない方が良いのではなくて?」


「似合わないか?」


「似合ってはいるよ。パパ」


「似合いすぎてとっても胡散臭いですわ」


 娘の苦しいフォローとそれを台無しにするソフィアの追撃に眉間に皺を寄せたケインと裏腹に、アレックスは気を悪くした風もなく忍び笑いを漏らした。


「胡散臭い、ね。まあ確かに」


 アレックスは髪を切って後ろに流して、髭を落としてドミノマスクと呼ばれる、顔の上半分を隠す仮面を身につけていた。

 髭があるとヴィルヘルムとの相似に目がいくため、髭は落として仮面がベストということになったようだが、黒い翼を広げた鳥の様な形の優美なそれはアレックスの美しい清冽さを帯びた眦を隠し、顔立ちの酷薄さや淫猥な印象を強めている。


「とはいえ、ほら。隠さないわけにもいかない。あれは昔の知り合いだ。この時間でも人がいるものだな」


 視線を上げると、アレックスが顎で廊下の先を指し示した。そこには中年の男がこちらに友好的とは言えない視線を飛ばしている。


「……フッカーライ伯爵」


 リアムの背が知らず丸まり、足が止まった。

 彼は連合王国になった際に降爵したものの旧メルシア王国の元侯爵で自分への侮蔑へとテオドール支持を隠さない保守派の重鎮であり、会うたびにこちらに辛辣な言葉を投げつけてくる男だ。


「あれは口止めした方がいいな。ついでにこっちに寝返らせるとするか」


 無視してくれれば良いのに、こちらへ向かってきた男を眇めたアレックスは無邪気な悪戯を思いついた口調でそう言うと、全員に一歩下がるように指示した。


「これはこれは、リアム殿下ではございませんか? それにベルニカ公爵令嬢も。お二人は駆け落ちされたと聞きましたが?」


「礼も取らず、愚にもつかない噂を本人達にぶつける。酷いものだ。メルシア連合王国の伯爵は王族よりも公爵令嬢よりも立場が上なのかな?」


 二人に返事をさせず、前に立ったアレックスが冷たく居丈高に言葉を返す。

 身長はさほど変わらないのに、すらりと伸ばした姿勢の良さでアレックスの方が遥かに大きく見える。


「何者だ? その仮面はなんだ? ここをどこだと思っている?」


「おや、忘れたのか? 私の声を。ねえ、ヨハネス」


 不審者を誰何する男に対し、アレックスは優雅だが容赦のない仕草で突然、男を壁際に追い詰めて自らの腕の間で囲った。


「は?! え? あ? いや、たしか、に、この……こえっ……それに、いいにおい……どこかで……」


「こうすれば分かる?」


 ちらりと仮面を持ち上げて、すぐさま戻す。それだけで誰か分かったらしい。声にならない声をあげた伯爵は息を何度も吸い吐き出して、ぶるぶるとその小太りの身体を震わせた。


「エッ!! エエェエリア!!! ヒュッ……!!」


 手袋をはめたアレックスの指が男の脂っぽい唇の上に置かれた。

 普段こちらに対して傲慢と侮蔑を隠さない偉そうな男が、年頃の乙女のように頬を染めて身動きも取れず息もつかずにアレックスを熱っぽい瞳で見つめている。


「死者の名をみだりに口にするべきじゃない。連れて行かれるよ」


 言葉もなくこくこくと首を上下にふる男の耳元でアレックスは囁く。


「久しぶり。ずいぶんと老けて、少し太ったかな? それにちょっと意地悪になった。二十年前はもっと素朴で優しくて従順で、そう言うところが美点だと思っていたけど、父親の跡を継いで気が大きくなってしまった?」


「ひゃい! す、すみません!! エッ! あ、貴方様はお変わりなく相変わらずお美しく…!!」


 返事を返す伯爵は、酔ってもいないはずなのに顔を赤らめて呂律も怪しい。

 死んだはず、や、なぜここに、もなく、ただただアレックスの存在に圧倒されているようだった。


「それは代わりが効く程度の物だろう? 聞いたよ。君は王が認めた正しい後継ではなく、私の従兄弟を推しているんだって? その従兄弟殿は私に似ているとか」


「と! とんでもない!!! わ、わたくしは貴方以外に心奪われることなどありません!! あ、アレを支持したのはその! 高度に政治的な! その!」


「ああ。残念なことにリアムは生まれのせいで一部界隈で王に相応しくないって言われているらしいね。私は帰ってくる間に彼を試したんだが、見識の深さに優しい心映え、それに私の仕事に付いてくるだけの能力、王にふさわしい全てを持っていた。彼が王になればメルシア連合王国も安泰だと思っていたんだけど、君はどう思う? ヨハネス」


「お、王と!! 貴方様の! お見立てに間違いが!! あるはずがありましぇん!!」


「じゃあ、リアムを支持してくれるよね?」


「はい! もちろんです!!!」


「君が正しい選択をしてくれて嬉しいよ。ヨハネス。二人でとても嬉しい共有が出来たね。私が帰ってきた事を含めて、もう少しの間二人だけの秘密にして、この気持ちを暖めたいんだけど、どうかな?」


 まるでキスでもするかのように顎を掬って顔を近づけアレックスがヨハネスの瞳を覗き込むと、男は耐えきれなくなったかのように腰を抜かした。


「ち、ちかぃいい」


「ヨハネス? 大丈夫? で、約束、してくれる?」


「ひゃい!!! 全て貴方様の思うがままに!!」


 思い切り押した振り子細工の玩具のように首を前後に振る男に、口元から表情を消したアレックスがダメ押しした。


「じゃあ、二つ約束だ。今日ここで会った事は私が帰ってきたと公になるまでは二人きりの秘密。もう一つは、時が来て、私が頼んだタイミングでリアムへの支持を皆の前で表明して欲しい。出来るかな?」


 出来なければどうなるのか、を身に纏う冷たい空気から読み取ったのだろう。一転冷や汗をかいてアレックスの足元に這いつくばった男は、その革靴を舐めん勢いでそれを肯定する。


「もちろんです!!」


「ありがとう。じゃあ私は行かないといけない。君も早く帰るんだよ。おやすみ。ヨハネス。遅くまでお仕事ご苦労様」


 優しい言葉をかけられて顔を上げた男が見たのは口元に刷かれた薄い笑みだ。

 リアム達には知りようがなかったが、顔が半分隠れているから目元は分からないにせよ、それはかつてヨハネスが魅了された優しく温かく心を蕩かす微笑だった。

 心からの服従を示して再びその場に深々と土下座した男から離れたアレックスが先を示した。


「さあ、行こう。ヴィル達が待っている」


 そこから離れて、声が聞こえない距離まで離れたが、ヨハネスはいまだにその場にうずくまって動かなかった。


「大丈夫ですかね? 放っておいて」


「リアム、貴方お人好しなのも大概になさい。あの豚野郎、今まで散々貴方に対して失礼な事を言って来た男でしょう? それにあの豚、昔すれ違った時に事故を装ってこっちの尻を触ってきた事がありましたの。品性下劣なエロガッパに気を使う必要ありません。一生あそこで這いつくばっていれば良いのよ」


「え、嘘。キモ……。さっきのあの態度もヤバかったけど、パパもそんなのにあんなに近づいて気持ち悪い」


「え?!? そんな……! 穏便に口封じも出来て、寝返らせてリアムの味方につけたし完璧だったろ?! アレは基本的に無害な男だよ。総督と同じ人種だ。向こうから出来るのはそれこそ偶然を装って触ってくる位だったし、今日はそれもなかった」


 ケインがアレックスの手を取り、先ほど男の唇に触れた白絹の手袋を脱がせて予備を履かせる。


「無害とか無害じゃないという話じゃない。貴方がそういう態度を取るのを見たくないって、ジーナは言っている。俺も見たくないので反省して。ついでに言うと偶然を装って触る痴漢野郎は十分有害ですからね。貴方の事を触った手をうっかり切り落とし、今日の男の記憶を脳味噌ごと抉り出して握りつぶして消してやりたい」


「偶然手は切り落とせないですし、脳味噌抉ったら死にますからね……ケインさん。アレックスさんについてだけ冷静さを欠くのほんと良くないですよ。結果だけ見たら完璧でしたし。あのおっさんを崩せたのデカいですって」


「僕のせいでごめんなさい……」


 なんとも言い難い空気感を誤魔化すように、アレックスは皆の背を押した。


「ほら、もう10刻になってしまう。謁見の間はどっちだ? 早く行こう」


 こちらの会話もしらず、男はいまだにその場にうずくまっていた。

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