譫言

 泣き腫らした目で王宮から戻った翌日からアレックスは熱を出した。

 ケイン曰く、十年ほど前まではよく熱を出していて、その後もたまにあった事で寝ていれば治るから心配はいらないとのことだった。

 気候の変化もあるし、二十年ぶりの故郷に身体が驚いたのだろうとケインは言った。

 ケインとレジーナが代わるがわるアレックスの看病をしていて、ケインはそれに加えて書類仕事をしていたから、リアムとソフィアは手伝いを申し出た。

 膨大な出港準備の仕事とこちらに来てから行った売買の書類を任され、昼間は護衛兼実務担当のハーヴィーと共に港を駆け回り夜は夜で書類の仕事に追われた。


「出港前の地獄再び、ですわね」


 髪を紐で括り、精がついて目が冴えるが不味いという飲料を一息で飲み干したソフィアが書類の計算をしてリアムに渡してくる。


「ここ、計算が合わないのでやってみていただけます?」


「うん。ああ、分かった。ここの数字が入れ替わってる」


「よく一瞬で見つけられますわね」


「ちょっとしたコツがあるんだ。生徒会でもやっていたし、リベルタでも散々やらされたから。ん? こっちもおかしいな。砂糖は価格統制品にしてもこれじゃ安すぎる。向こうから出された価格が間違ってる気がする。ケインさんに聞いてくるから、ソフィアは計算を続けてて」


「分かりました。早く帰ってきてくださいね」


 自分の帰りを待っていてくれているのか、と、一瞬どきりとしたが、その座った目からそんな甘やかな物ではなく、早く帰ってきて仕事をしろの意を悟り、リアムは肩を落として頷いた。

 二つ離れた部屋をノックすると小さな声でいらえが返ってくる。

 中に入ると、ケインもレジーナもおらず、ベッドに横たわるアレックスがふたつ重ねた枕に背を預けてほんの少し身を起こしていた。

 この四日で頬の肉が落ちて、絹のガウンのような寝衣からのぞく鎖骨は浮いて見える。あまり物も食べられていないのだろうか。


「お加減はいかがですか? あとケインさんを知りませんか?」


 リアムが声をかけるとアレックスの口元が微笑みの形を作った。


「ああ、リア……すまない。心配をかけているよね。まだ身体も動かなくて……。もう少し寝ててもいいかな?」


「え? ええ、もちろん」


 リアムは小さく首を傾げた。会話をしているはずなのに、どこか噛み合わない。

 澱んで熱っぽい瞳はリアムを見てはいない。

 最初に会った時そうしたように、レオンハルトの妹である亡くなった妻の面影に話しかけているように見える。いや、あの時よりもそれが一層顕著だ。


「そうだ、ケインって、シュミットメイヤーのケインかい? リヒャルトが連れてきたのか。リヒャルトに相談しないといけないんだけど、あの子をユリアのお婿さんに迎えようと思っているんだ。どう思う?」


「えっと……。その、僕はオディリア様ではありません。その、リア……ああ、レオンハルトの息子のリアムです」


 普段と違う彼の様子に、刺激してはいけないと感じ、リアムはアレックスになんとか話を合わせながら自分がオディリアではないと告げた。


「は……? レオンのやつ報告にも来ないのか! あれはカチカチの朴念仁で仕事に必要がないといって、プライベートの話をしてくれないんだ。というか、いつの間に……あれ? 子供、おおきい? なんねん……」


 アレックスはぶつぶつと呟きながら頭を抱えた。がりっと音がしそうなほど強く、短く整えられているはずの爪が頭皮を抉る。


「アレックスさん!」


「あれっくす……? だれだそれ? わたしはエリアス……いや、えりあすはかいぞくが……わたしを、りひゃるとのとなりで……」


 思わず手を取って止めると、髪の隙間から覗く爛々とした狂気を宿す瞳と視線が合った。

 瞬き一つせず、ぐるりと回る眼球に本能的に恐怖を覚える。

 出会いを除いて常に穏やかで冷静だった、理性の塊のようなアレックスの剥き出しの感情が恐ろしい。一歩後ずさるとアレックスの手がリアムの腕を掴んだ。


「りあ、なんで? なんでにげる! にげないでくれ! むかえにきてくれたんじゃないのか! いや、うらんでるのか? なにもまもれなかったふがいない父親で、夫ですまなかった……ごめん……ひとりでたたかわせてごめん……。かえらなくてごめん」


 見開いたまま瞬きもしない瞳から涙があふれてこぼれ落ちて、腕を掴む力が強くなる。


「りあ……。ぼくを見限るの? きみをまもれなかったから、こどもたちをまもれなかったから、ぼくじゃなくて君はヴィルをえらんでリアムをうんだのか?! ああ! そうだな……当然だ。性奴に堕とされて薄汚れた、帰ってこない無能じゃなくて、大陸を制圧し領土を広げた優秀な王を選ぶ!」


 その言葉は何もかもが重く、昏く、屈折していて、だが妄言として打ち捨てるには符牒が合いすぎていて、リアムは何も言えずに立ち尽くすしかなかった。

 さらに何かを言い続けるアレックスの声が急に届かなくなった。耳の辺りを誰かに塞がれたのだ。

 アレックスの瞳が上を向き、幼子が庇護者を見るような視線が一点に注がれる。

 ほんの一瞬、微かな笑顔を見せたアレックスが、リアムの腕から手を離し、身体を横たえて目を閉じる。

 耳を塞がれた手が離され、後ろを振り向くと苦い顔をしたケインが立っていた。

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