キャンディ

 リアムは薄暗い船倉の檻の中で食事だけを楽しみ……いや、楽しみというにはいささか以上にお粗末で変わり映えもしないのだが、に、ソフィアと他愛ないお喋りをしたり足が萎えないように軽く体を動かしたりする毎日を送っていた。

 それしか出来ないのだから仕方がない。

 ずいぶん彼女とも馴染んで、今学校に戻れば気のおけない親友と言える唯一の人になったかもしれない、と思える程仲良くなれた。

 彼女の毒舌は相変わらずだが、色々飲み込んで生きてきたリアムにとって、それは爽快感すらある体験だったし、そこに込められた気持ちはまっすぐで、心根は暖かく明朗でテオドールとエミーリエの態度に倦んでいたあの日々よりもはるかに息がしやすかった。


 船倉に入る入り口が開く音がして、リアムとソフィアはほっと息をついた。


「忘れられたわけじゃなかったみたいでよかった」


 普段なら食事が届けられるほどの時間が経っても誰も来なかった。

 ゴミみたいな食事でもあるのとないのでは大違いである。そしてそれ以上に渇きも深刻だった。

 どうやら忘れられてはいなかったらしい、と、安堵に笑ったところで、食事を持ってきた見慣れない男が波の音よりも大きなため息落とし、いらつきを堪えきれないように強く舌打ちをした。


「こっちが散々っぱら苦労したのに、呑気なもんだな」


 まるで熊のような大男の怒気にリアムは身をすくめて息を詰める。


「ご、ごめんなさい」


「チッ、俺が誰かも分かってないだろ。ホイホイあやまんなよ。野花ちゃん」


 リアムは薄暗い部屋の中、目を凝らして男を凝視した。

 見慣れないは間違いだ。

 伸びた髭に囲われた薄汚れた顔立ちに覚えがある。そして、野花ちゃん、という呼び方はあの婚約破棄の会場で呼ばわれたものだ。


「……ライ?」


 自信なさげに声が揺れたのは、彼だと確信が持てなかったからだ。

 普段のライモンドは野生味があるのにおしゃれなイケメンと評判で、舞踏会のマダムから下町の酒場の看板娘まで、幅広く女性の人気を集めていたらしい。らしい、というのは全てライモンドの自己申告だからだ。

 対して今目の前にいる男は、整えて流した髪は面影もなく、今や雑に伸びてベタついた脂で固まっているし丁寧にあたっていたはずの髭だってぼさぼさに伸びてそのまま顔の半分を覆っている。

 いつも食事を届けにくる船員のほうがまだしもガラが良く見える。


「え? この良く言って蛮族、悪く言ってならずもの、人外に例えるならば血塗れ羆といった様相のこの男が、あの、おしゃれはおしゃれだけどちょっとモテを意識しすぎてドン引きって言われてたあのライモンド先生?!」


「え…? 陰でそんなこと言われてたのかよ?! あと、蛮族もならずものも似たようなもんだよな?? って、そんなことどうでもいい。俺がこんななりなのは、お前らのせいだろぉが! このバカたれども! 謹慎って言葉の意味を知らんのか! あげく、密貿易船の積荷にされて……。お前らどれだけの人間に心配と迷惑をかけてるのか分かってるのか?」


 船倉の上に聞こえるのを憚った小声だとしても、一喝されて、リアムはうなだれた。


「……ごめん……なさい。まさかこんなことになるなんて思わなくて……。ただ、テオドールとエミーリエが関係を持ってるって聞いて、本当かどうか確かめたかったんだ」


「関係って?」


「肉体関係ですわ。当然。そして私達、あの二人ががっつりヤッていたのをこの目で。ちゃんと体位から喘ぎ声から、テオドールのいん……」


「「そこまで!!」」


「あら、お二人とも息がぴったり」


「50人とでも息が合うだろうさ。若いお嬢さんがそういう事を口にするもんじゃない」


「私はその考え、好きませんわ。男ならばそういう物言いが推奨されるのに若い女だと眉を顰めると?」


「ああ、悪かった。男女は関係ないな。男女関わらず品位を落としたくなければ口に出すな。俺は傭兵団で揉まれてたから理解しないこともないが、そういう場では歓迎される下品さは、一般的にはよろしくない。リアムだってお前のクラスメイトだってしてなかったろ。さて、話がズレた。俺もあまり時間がないんだ。今日はどいつもこいつも食あたりしてたから給餌の役が回されただけだ。不審に思われるから長居出来ない。いることも分かったしさっさと助けて出ていきたいところだが、生憎ここは海の上。この後来れるかは分からないが、陸にあがるタイミングで必ず助け出すから気力を保って待っててくれ」


 食事を与えるための檻の切れ目から、堅パンと水を差し入れられ、ついでのようにポケットから出された小さな飴を二つ渡される。


「最後のとっておきだ。頑張ったな。もう大丈夫だ。ちゃんとした説教は無事に帰れたらお前らの親にしてもらうから覚悟しとけよ」


 眦をやさしく緩め、手を振って出ていくライモンドを見送ると二人で頷きあって、それを一粒づつ手の中に収めた。

 そして、いつも通りの味気ない食事を摂ると、宝箱を開ける時のように恭しく蝋引の包み紙を開けて口にそっと含む。


「甘い……美味しい」


 果汁と蜂蜜と砂糖を温めて練り上げてから冷やし固めたそれは、勉強中にたまに舐めていた飴だった。

 ライモンドは非常食的に甘い物をいつもポケットに突っ込んでいたから、これもそうだろう。

 勉強中には控えめで上品な甘さだと思っていたそれは、この状況で食べると目眩がするほど甘く美味しくて、気力が湧き出るようだった。


「あまっ! 歯が軋みそう」


 示し合わせたわけでもないのに同じように飴を口に含みながら、叫ぶように感想を言ったソフィアの顔を見ると、その目からいくつもの涙がこぼれ落ちていた。


「あら……やだ……どうして」


 戸惑ったようにこぼれ落ちる涙を手の甲で何度も何度も拭った少女の肩をリアムはそっと抱きしめた。


「泣いていいんだ」


「あなただって、泣いていない。心持ちで負けたくない」


「衣食住は恵まれてたけど、今までの生活は悪意と嘲りに満ちていて息が詰まりそうだったから、あまり恋しくはないんだ。だから泣けないだけ」


 そう言ってごわついた頭を撫でると、堰が切れたように、ソフィアは泣き声をあげてリアムの胸に顔を埋めた。


「帰りたい。ただのキャンディがこんなに甘いなんて知らなかった……」


 ソフィアはずっと明るくて自分よりも強くこの状態にも動じていないと思っていた。

 だが、そんな事はない。どんな訓練を積んでいたとて、自分と同じ年の貴族の令嬢だ。

 不自由のなかった生活から一転して、同年代の男と一緒に檻に放り込まれて、トイレは薄汚れた壺、風呂どころか、食べ物すらまともに与えられない状況、さらにこの船のついた先に暗い未来しか見えない状態で辛くないはずがない。

 自分だって弱音を吐かないように耐えているだけで今の状態は辛い。食事だって慣れるまでは何度も吐きそうになったし、今の胃の調子も良くはない。

 ただ思ったよりも自分は王宮と学園の生活にストレスを感じていたらしい。それがなくなった分で天秤が傾ききっていないだけだ。


「大丈夫。ライが来てくれた。必ず戻れるから」


 リアムは何度も、普段感じていたよりもずっと小さく華奢だったソフィアの背中を撫でた。

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