あれから一週間近く赤坂とは会っていなかった。

 彼女からは「素麺できたぞ」とか「クーラー入れたぞ」とか心配のメッセージが飛んできていたが、私はあの人が本当に馬鹿なんじゃないかと思って無視していた。

 ただそれなのに私は、未だに『雲間に咲く花』の失われたページのことを考えていた。

 失われた物が戻ることはない。どれだけ考えても手に入ることはないのに、私は燃えたページとそれを燃やした赤坂のことを考えていた。

 私は自分のことを合理主義者だと思っている。だが今の私は、失われた物について考えるという非合理極まりないことを繰り返していた。

 自分でもなぜそんなことをしているのか不思議だった。

 私は自室に寝転びながら手元に残された未完成の『雲間に咲く花』を開いた。私は幾度となくこうしてページを開き、破られたページの内容に思いを馳せていた。

「人間の心は鳥のようだが、石のようでもある。一見すると鳥のようにいつでも自由に大空を駆けているが、人を好きになったときだけは違う。そのとき、人の心は崖から墜落する石のように、恋という深遠な谷に突き落とされる。それは決して逆らうことのできない地球の重力なのだ」

 恋に関する一文がパッと目に入ってくる。

 私はその一文を読んで、自分は燃やされたページに恋をしているんだと思った。そしてその恋の感情に逆らうことはできないのだ。

 私は勢いをつけて起き上がる。

 逆らうことができないのなら突き進むしかない。

 私は何とかして失われたページを取り戻してやろうと思った。

 手掛かりがないわけではなかった。少ないけれど、赤坂は『雲間に咲く花』について話してくれた。今はちょっとだけ彼女のことが嫌いだったが、ちゃんと思い出さなければいけなかった。

「サモトラケのニケを知っているか?」

「そういえば涼葉はハイデガーの『存在と時間』を読んだことはあるか?」

 思い出すのはくだらない与太話ばかり。しかし、これらの話も彼女にとっては何か意味のある話だったのかもしれない。

「サモトラケのニケ、『存在と時間』……。勝利の女神と世界内存在……」

 色々考えてみるが何の共通点も見えてこない。少しお茶でも飲もうと立ち上がったとき、私は閃いた。

「あ!」

 共通点は確かにあった。

 そしてその閃きと共に赤坂の他の言葉が蘇ってきた。

「あの作品はイレーヌ・ロジェの最高傑作だ!」

 彼女はあのとき確かにそう言った。

 私は急いで携帯でイレーヌ・ロジェと検索する。二件しかヒットしなかったが十分だった。私は「今から行く」と赤坂にメッセージを送ると『雲間に咲く花』を持って部屋を飛び出した。


 ◇


 赤坂は中庭のベンチに座って果物ナイフで鉛筆を削っていた。

「おいで」

 彼女は私に気が付くと、自分の隣に座るように手招きした。赤坂の目はどこか虚ろで、いつもと少し雰囲気が違っていた。

「話があるんだろう?」

「うん。ようやくあなたが言っていることの意味が分かったの」

「そうか……」

 彼女は私からそっと目を離して、また鉛筆を削り始めた。黒鉛が剥き出しになった鉛筆は少しずつ短くなっていた。

「最初は何を言ってるのか分からなかった。サモトラケのニケ、『存在と時間』、『雲間に咲く花』。全部同じなんでしょ?」

「そうだ」

「サモトラケのニケには頭と腕がない。ハイデガーの『存在と時間』も未完の哲学書。『雲間に咲く花』も最後のページが破られている。三つとも完成形じゃないけど人を引き付ける魅惑の力を持った作品ってことでしょ?」

「うん、そうだ。欠けているからこそ美しいんだ。人間は足りない部分を想像力で補おうとする。それが大切なんだ」

 今、私は赤坂の言葉の意味が手に取るように分かった。私は理解できることに感動していた。

「さらにあなたは『雲間に咲く花』をイレーヌ・ロジェの作品と言った。でも違う」

 私は手に持っていた『雲間に咲く花』の表紙を見せた。そこには「著、アイリーン・ロジャー」と書かれていた。

「綴りはIrene Rogerで、アイリーン・ロジャーは英語読み。仏語読みがイレーヌ・ロジェなんでしょ?」

「その通りだ。イレーヌは第一次世界大戦を機にアメリカに移り住んだフランス人だ。彼女の父親がアメリカ人だったから抵抗はなかったようだが、彼女は好んでフランス語読みの『イレーヌ』を使っていたらしい。だから彼女の名前は『イレーヌ・ロジェ』と読むべきなんだ」

 私は最初「アイリーン」で調べていた。だから、この人に関する情報が見つからなかったのだ。事実「イレーヌ」で調べてみたらいくつか情報が見つかった。

「これはあくまで私の推測だけど、イレーヌはこの作品を完成させなかったんじゃないの? だけど、誰かが勝手に最後の章を付け足した。それであなたは本のページを破って、作品を本来の形に戻したんじゃない?」

「……うん」

 赤坂は白状するように頷いた。

「私が破ったページは日本の編集者によって勝手に付け足されたものだ。イレーヌは『雲間に咲く花』の結末を描くことができなかった。だけどそれでいいと思って作品として発表したようだ。それを美醜すら分からない編集者が日本語に翻訳するときに『ちゃんと完結していた方がいいから』と勝手につけたらしい。名前もだ。アイリーンの方が音が良いからと言って変えたらしい。その本の翻訳家が編集者の横暴に怒って自伝に書き殴っていたのを見つけたんだ」

「それであなたはイレーヌの作品をあるべき姿に戻すためにページを破った」

「そうだ」

 私はこの彼女の返事を聞いて安心したと同時に、あることに気付いた。それは最早自分が『雲間に咲く花』の最後を気にしていないということだった。

 私は作品の内容が知りたかったわけではない。赤坂がページを破った理由を知って、彼女のことを理解したかったのだ。

 そして、今、ようやく彼女のことを理解することができた。私は不思議な達成感を覚えていた。

「人間は死ぬまで決して完成することはない。生きている人間は必ずどこかが歪んでいて何かが壊れているんだ」

 暑い夏の日、彼女は壊れたおもちゃのようにナイフで鉛筆を削り続けていた。それはまるで何かの緊張を誤魔化しているみたいだった。

「だから私にとって未完成な作品ほどリアリティーがあるのだ……」

 私はここにきてようやく赤坂に落ち着きがない理由が分かった。

 おそらく私に別れ話をされると思っているのだ。一週間以上音信不通で、いきなり会いに行くと言われたら確かに勘違いしても仕方ないだろう。

 彼女はまだ鉛筆を削っている。

 私は赤坂のその困惑した様子が愛おしかった。

「ねえ」

 彼女に語り掛ける。赤坂は心配そうに私の方を向き直った。彼女は覚悟しているみたいだった。

「私はいつの日か、赤坂要という作品が完成する日を見届けたいわ」

 彼女の手からナイフと鉛筆が零れた。

「え、うん、なんだ。てっきり……。まあ、好きにすればいい。それよりかき氷を作る機械を買ったんだ。食って行かないか?」

「うん」

 彼女はボサボサの金髪を揺らし、妙に嬉しそうに中庭を歩いて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

欠落にキスを 秋山善哉 @zenzai0501

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ