天使とむしば菌とパンケーキ

霧灯ゾク(盗賊)

 天使としての労働は、人間と共通する部分が多い。私は職務中に右の羽を失い、追加の報酬を受け取った。人間の労災保険制度に相当する補填だ。


 今、私の眼前には、物体のイメージを具現化する薬がある。上司である神様から受け取った見舞いの報酬だ。薬を対象に接触させるだけで、それと同じものを具現化できる。ただし、具現化される姿は使用者が持つ対象へのイメージに基づかれる。

 例えばリンゴに薬をかければ、リンゴが具現化する。ただしそのリンゴは、「私が知っているリンゴ」になる。仮に私が「リンゴには種が入っていない」と勘違いしていたら、「種の入っていないリンゴ」が生まれるのだ。


 だから、私は薬を飲んだ。自分に対して薬を使った。これは、失った右の羽を取り戻すためだ。

 天使の細胞は、すべて元を辿ると一つなのだ。一つの細胞に、手の設計図も、脚の設計図も、羽の設計図も入っている。分裂して、成長していく過程で、どの設計図をどんな風に読むかが決まって、手や、脚や、羽の組織が作られていく。これは人間の世界の「エピゲノム」ってやつに近いらしい。つまり、どの私の細胞を具現化しようとも、設計図の読み方次第で私が元々持っていた右の羽になり得るはずなんだ。


 失った羽を取り戻すために、羽をイメージして薬を飲んだ。薬の仕様としてそんなことができるかはわからない。万が一、羽だけじゃなくて私の全身を具現化してしまったのなら、そいつから羽をもぎ取ってしまえば良いだけだ。

 具現化が始まると、私の口から煙が出た。煙は徐々に質量を持って、モクモクと床に集まると、こねられた粘土のように蠢きだした。


 気がつくと悪魔が立っていた。悪魔?なのかな。今まで会ってきた悪魔とは容姿が微妙に異なる気がする。気になって薬の説明書を飲む。知的生命体が具現化した場合、一般的な知能は自動的に獲得するらしい。それなら本人に聞けばいいか。

 悪魔?は部屋の本を一通り読んだ後、鏡を一瞥すると、初めて自分を悪魔だと認識したようだ。私の方を睨みつけると、おもむろに近づいてきた。


 天使は悪魔に噛みつかれると、力の一部を奪われる。だから、今この状況は非常に危険だ。私にとって至極当たり前なことだったのに、危機感を持つまでには時間がかかった。

 ああ、私はいつもそうだ。危機が本当に迫ってから避けようとする。失敗に気づくのが遅い。いや、本当は内心気づいているんだ。プライドが高いせいで見て見ぬふりをしてしまう。間違えたって思いたくなくて、不必要に確かめようとしてしまうんだ。


 数刻のうちにそんな思考がグルリと巡って、動けないうちに悪魔は目の前に迫っていて、ついに私は噛みつかれた。

 噛みつかれると、痛かった。痛いだけだった。…どうして?


 通常、悪魔に噛みつかれても、痛みは伴わない。痛みを与えると同時に、それ取り除く代償として大事な物を奪うからだ。蚊に刺されても気づかないのと同じ理由。だからその瞬間は痛くない。


 でも、今は痛いから、何も奪われていない。私の身体に変化はない。つまり、今私の肩をはんでいるのは悪魔ではない。


 いや、冷静に考えれば当然か。急なことだから気が動転していた。私の口から出た煙が悪魔に変わるはずがないのだ。

 それなら、目の前にいるのは一体何者なんだろうか。対象をマジマジと見つめて考える。なんだか見覚えがあるんだよな。…あー!


 むしば菌だ。小さい頃読んだ絵本のむしば菌と、同じ姿をしている。

 つまり、私の目の前にいるのは、私の口腔内にいるむしば菌が、私のイメージで具現化したものだ。


 このむしば菌は、自分のことを悪魔だと思い込んでいるらしい。判断材料が部屋にある本、鏡、そして目の前の天使だけなら、誤解しても仕方ないか。


 さて、こいつをどうしようかな。噛みつきながらフガフガと言っているむしば菌を憐れみの眼で眺める。悪いけど、君が悪魔じゃないなら、居るなぁとしか思わないよ。ええと、こいつを有効活用するためには…コホン


「君の牙は私の力で奪った。今の君は悪魔の力を持っていないよ。君は捕えられて記憶を消されたんだ。悪いけど、消えたくないなら私の奴隷として働いてもらうよ」


 適当にそう伝えると、むしば菌は噛むのをやめて私を睨みつけた。哀れだ。そのプライドも、敵対心も、屈辱も、全部偽物なのに。なんだか存在自体が羨ましいよ。哀れな私の労災給付。とりあえず家事でもやってもらおう。

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天使とむしば菌とパンケーキ 霧灯ゾク(盗賊) @TouzokuXYZ

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