壱【闇夜に怪しき人影を見つけし事】・14

 家に戻ると、「奥様がお呼びです」と玄関先でメイドの一人に呼び止められた。

 だが、帰り道のタクシーの中で疲労は眠気になっていた。

 母の声に素直に従えるほどの余裕はなく、無視して自分の部屋に向かうと倒れこむように眠った。母の用事はいつも過保護ゆえの心配事の積み重ねに過ぎない。

 よく父もあんな人と結婚したものだと思う。

 あの人もいいところのお嬢様(で、若いころはビックリするほどの美人)だったとはいえ、部屋に飾るだけのものではないのだ。

 人間なんだから。

 静かに、どろどろと夢の中に落ちていく。

 

 そんな中で、夢を見た。

 例の『あれ』の夢だった。

 夢の中で『あれ』は、森の中に立っていた。

 木々の生い茂る、深い森の中。時折風と共に揺れる木々の隙間から日が差し込むと、奥にいる者たちの影が姿を見せる。それはどこか懐かしく、遠い幻影のように感じた。

 まるで会ったことがないものなのに、どこかで出会っていたかのような……


「小鹿!」

 

 母の声がする。

 目を開けると、母が僕の枕元に立っていた。


「もう昼ですよ。さすがに昨日は疲れていると思って寝かせましたが、今日も来ないつもりでしたか?」

「いえ、起きたらちゃんと行くつもりでしたよ」

「それならいいんです。ですが、研究職から危険な仕事に変わって、私はとてもとても心配しているのですよ。あなたの身に何かあったら、と思うと昨夜は本当に食事も喉を通らず……ねえ、お父様に言えば、あなたの異動はどうにかなったりしませんか」

「ならないと思いますけど?」


 僕は、冷たく母に言い放つ。

 あの人は、そんな風に甘い人ではないでしょう。

 中務省のトップである父だ。宮中の業務から陰陽師の方面まで、多くを取り仕切る人間だからできないことはないかもしれないが、そこまでしてくれるほどに子に甘くないという問題がある。本当に厳しい人なのだから。


「とりあえず、着替えますので一度部屋から出て行ってください。着替えたら食卓に向かいますので、そこでお話を」

「……」


 少しムッとした顔をして、母は出て行った。

 今夜もまた仕事があるので、仕事着に着替える。

 すでに新しい仕事着が部屋に運び込まれていて、昨日乱雑に脱ぎ捨てた狩衣は回収されてしまっているようだった。先にシャワーを浴びてこよう。



 

 シャワーを浴び、着替えて食卓に向かう。

 すると、母は食事が置いてある僕の席の向かいに座ってお茶を飲んでいた。

 ふう、ため息を聞こえないように吐いて、僕は席に着く。


「ため息をつきましたね?」

「……。耳がいいですね」


 僕は用意されていた目玉焼きなどの朝ごはんのメニューを会話の間にかき込んでいく。

 メイドたちに温めなおされたのか、ちょうどいい温かさであった。


「跡取り息子にもしものことがあるかもしれないという母の気持ちを理解できませんか?」

「まだ人の親でもなく、ましてや男ですからね」


 何を言われても、この調子で押し通していこうと思ったが。

 しかし、あまり虐めると泣き始めるので、一応安心材料を出しておく。


「かなり優秀な方と働けています。昨日もかなり助けていただきましたよ」

「まあ! それで、その方のお名前は?」

「加茂さんという人で……なんというか、うちと同じですよ」

「加茂というと、義徳さんの息子さんとかかしら? 他にいた?」

「分家の方らしいですけどね」


 そこで少しだけ顔が厳しくはなったが、息子の命を守るのにどんな家柄だろうと関係ないと思い直したようで、再びお茶に口をつけ、少しだけ黙ってからすっと立ち上がる。

 そして、そのまま何も言わずに、自分の部屋へと帰っていった。

 何も言わずにいてくれれば、本当にそれでいい。

 僕も、ただただ無事に帰ってくるだけのことだ。

 

 しかし、『あれ』が都の夜に彷徨っている。

 そして、それを探そうとする少女。

 

 無事に。

 その願いが望めるかの筋道は、ひどく薄い可能性のように思えた。

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