壱【闇夜に怪しき人影を見つけし事】・2
排気口から煙が上がっている。
実際に、そこから煙が空に立ち上ることはない。
人間を焼いた煙は、何重ものフィルターを通され、直接煙が外には流れ出ないからだ。
あれは、煙の亡霊みたいなものだろう。
「何を見ているの?
煙を眺めている僕の後ろから声をかけてくる人がいた。
その穏やかな声から、瞬時に僕は誰であるかを理解する。
「雪美博士」と僕は振り返る。「お久しぶりです」
「確かに、数日前に辞令を渡した以来だけど、それにしては他人行儀すぎない?」
「それは、そうですね」
彼女はいつもの白衣ではなく、真っ黒な洋装の喪服を着ていた。
周りを見れば昨今主流な洋装が多いようだが、羽織や着物を引っ張り出しているご年配の方々が多くみられる中で、きっちりと洋装を着こなす様子は若々しく見える。
「今は、もう普段着だって洋服だっていうのに、なんでこんな時だけ着物を着るのかしらね。こっちの方がまだ動きやすいでしょうに」
と僕の目の動きを見てか、彼女はそう呟いた。
京極雪美博士。
僕の元の上司であり、師であり、憧れである。
もう五十年も前から化学部門のトップを務め、誰よりも優秀な人物。雪のように真っ白な髪が風に揺れた。
「博士は、
「遠縁も遠縁だから、ワタシに仰々しい挨拶もしなくていいわ。それに、ワタシくらいの年になれば、死は意外と近い場所にあるものよ」
「そんなことを――」
僕が少し口調を強めると、博士は手を差し出して止めた。
「馬鹿ね。人間100歳がゴールとして、まだ20代のアナタと70も間近のワタシとどちらが死に近いの? それに死はそう単純なものでもないでしょう」
僕は黙ってうなずいた。
少し言葉が詰まる。
「それで」と博士が続けて口を開く。「今日は、なんで?」
「ああ、そうでした。どうしても明日の式には出られないようで、先に僕だけ最後のご挨拶にと思いまして。もう少し早く着くはずだったのですが、家を出る寸前で母が片違えなどと言い出しまして、遅れてしまいました。陸通様にはとてもかわいがっていただきましたから」
「今日から仕事なのね」
「はい」
僕の返事に、彼女は悲しそうな顔をした。
僕は本日付で「
その辞令を出したのは、彼女だった。
今夜は、これから明日の昼までの仕事が入っていた。異動したばかりの新人が生意気なことは言えないだろうと、こうして挨拶に来たというわけだった。
雪美博士は、悲しみに満ちた声で言う。
「本当に残念ながらね――今日は挨拶をしていく人が多いのよ。だから、まだあの人の火葬の番じゃないの」
「じゃあ、まだ」
どうやら悲しそうなのは、僕をからかっていただけだったようだ。
しかし、現実に今、火葬は行われているようで、火葬炉の方に人が集まっているのがここからでも確認できる。
「では、あれは?」
「アナタも聞いてはいるでしょう。例の――」
雪美博士は、声を潜めながら言った。
僕は、黙って頷いた。世にも恐ろしい事件だった――らしい。
結局のところは誰にも分かってはいない。最期の言葉を聞いた者も、話した者もこの世にはいない。もちろんそれを見ていた者もいないのだ。
「だから、しっかりと最期の挨拶をしてきなさい」
「はい」と大きく返事を返し、火葬場の中へと入っていった。
帰り際、雪美博士に呼び止められた。
少し歩こうと、僕は外に連れ出された。
藤原陸通様の遺体が火葬されていく中、あの煙突からはまだ白い煙が立ち上っている。
「ワタシはね、行かせたくはなかったのよ」
「え?」
彼女は立ち止まり、煙突の方を見る。
「何か見える?」
「ええ。出ているはずのない煙が……昔からこうなんですよ」
「ワタシたちの組織は、古来より学問を司り、同時に京を災いより護ってきた。それぞれ得意とするものの違う家々が今日では混ざり合い、時としてその両方の才に秀でた優秀な人間が生まれる――アナタのようにね」
「それでも見えるだけですが、ね」
「見えない人間が行くよりも何倍もいいじゃない!」
彼女は、少しだけオーバーに言った。
そして、笑った。馬鹿みたいだったわね、と。
「夜警の仕事は、危険も伴う。必ず力のあるものがやるべきこと。古くからの取り決めとして、そういう人間を互いに出向させる――ああ、そんな約束しなくていいのに! 知ってる? 向こうから来た人がどれだけ使えないか? 頭を開いて検体にしてやろうかと……こういう時にする話じゃなかったわね。でも、アナタは優秀だからね」
「ええ。ちゃんと仕事をしてきますよ」
「
「わかりました。ちゃんと見てきます」
博士のスイッチが入ってしまったようだった。
しかし、真面目な葬儀の現場に戻れば、彼女も平静を取り戻すだろう。
僕は、博士に「では、また」と頭を下げた。
彼女も、「またね」と言った。
だが――
それが僕の、生きた雪美博士を見た最後となってしまった。
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