山岳性気候の冷気が、夜の女学校の中に満ちていた。

 かすかな行灯の光が照らし出す夜の世界の中、わたしはひとつ身ぶるいをした。

 ……まったく、夜の見回りなんていうのは、損な役回りである。

 潔癖で、品行方正で、教師陣からの信頼も厚く──そして平民の娘。自分事だが、夜の見回り係としてわたしは最適なのだろう。同じ女学生とはいえ、まさか貴族の子女たちにこんなことはさせられないだろうから。

 男子禁制の本山の修道院に併設されたこの女学校。その運用においては、当然、女学生たちを含めての自治が必要とされている。この夜の見回りなんていうのも、その自治の一環だ。

 ……面倒くさいが、誰かがやらなければいけない仕事でもある。

 第一講義室、第二講義室、食堂、図書室……それぞれの部屋に入り、席と席の間、書架と書架の間を縫うようにして歩いていく。いまのところ、誰もおらず、何の気配もない。

 初めてこの見回りを任されたときは、これがひどく恐ろしく感じたものだ。明るくにぎやかな昼間の世界とは打って変わり、夜の学校は暗く静まりかえっていた。何も聞こえないのに誰かがささやいてくる気がして、誰もいないのに何かが潜んでいるような気がして、とにかく、おそろしかった。

 けれど、今となってはもうここは既知の世界だ。夜闇の中には誰もいないことをわたしは知っているし、たまに誰かが潜んでいたとしてもそれは夜遊びのために部屋を抜け出した女学生の誰かに過ぎないということを知っている。


 長い廊下を抜けて、最後は聖堂だ。

 扉を開けると、並んだ席の間を抜けてまっすぐと通路が伸びていく。装飾窓を通して月の青白い光が差し込んでいる。正面には聖壇と聖像が位置していて──

 そこで、わたしは気がついた。その最前列に誰かが座っている。

「そこのあなた!」わたしは声を張り上げた。「こんな時間に、こんなところでなにをしているんですか!」

 相手を逃がすまいと、わたしは足早に歩み寄る。近づくにつれ、相手の姿もはっきりとしてくる──まだだいぶ若い女で、年の頃はわたしと同じくらいだろうか──

 一方で相手は、逃げるどころか座ったまま、なんだかおっとりとこちらを振り返った。

 そして、ついに相対した。

 月の光に照らし出されたその女の顔は──ドキリとした。衝撃があった。白い肌と、吸い込まれそうな大きな瞳、そしてその顔の造りの美しさは、あたかも聖女像のようで──

 そしてふと気づいた。こちらがむこうの顔を思わず見つめてしまっているのと同じく、向こうもこちらの顔をまっすぐに見上げ、見つめ返してきている。

 なんだか急に極まりが悪くなって、わたしは視線を逸らした。

「……わたしの顔に、なにかついていますか」

「あら、ごめんなさい」彼女は微笑んだ。どこか幼い少女のような話し方だった。「あなたがお友達に似ていたものだから」

「そんなことより、あなた。こんな時間になにをやっているんですか? 夜間は自室から出てはいけない決まりでしょう。あなたのことを自治会に報告させてもらいます」

「まあ」

「それで、あなたの名前は?」

 改めてその女の顔をじっと見てみるが……しかし、見覚えはなかった。少なくとも同じ学級の人間ではない。特にこんな美人がいたら印象には残っているだろう。

 彼女は悪戯っぽく笑った。

「そうね。わたしの名前をいうのもやぶさかではないけど……その前に、あなたのお名前を教えてくださる?」

「はあ?」

「わたしも、あなたのお名前を知らないもの。先に名乗るのが礼儀でしょう?」

「……ヘレン、です」

 わたしはしぶしぶと答えた。

 自分が名乗ると、たいていの相手はちょっと間をおいて、じろりとこちらの顔の造りをあらためて一瞥する。そしてその瞳の奥に、ああなるほど『ヘレン』の名の通りだ──と言わんばかりの、嘲りの色をほのめかすのが常だった。

 生まれてからずっとそうだった。

 どうせこの女だって同じような反応をするだろう……と身構えていたが、しかし彼女は喜色満面だった。

「あなたもヘレンっていうのね! わたしのお友達も、ヘレンっていうの」

「別に珍しくもないでしょう、聖女様から名前をいただくのは」

「そうね。ヘレン、素敵な名前だわ」

「……」

 皮肉を言っているのだろうか? しかし彼女のその人懐こい子犬のような笑顔からは、言葉の裏を読みとることはできなかった。

 実際、ほかの聖女たちの名前ならともかく、わざわざ聖女ヘレンの名前を拝することは、そう多くない。いったい誰が好んで、大陸でもっとも有名な醜女の名前を愛するわが子につけようと思うだろうか? ……この名前をありがたがるのは、一部の辺境地域、大陸南部の沿岸地域のみである。聖女ヘレンはうちの村出身だとそれぞれに主張するいくつかの小さな漁村がもっぱらだ。

 実際のところ、わたしの父は海運で成り上がった成金であるが、この故郷の迷信をいまだに信じていた。父は「海の男にとっては醜女こそ縁起が良いんだからな」といってはばからない。

 ……いや、わたしの名前なんていうのはどうでもいい。

「あなた、名前を教えなさい」とわたしは詰め寄る。

「ドロレス」と、彼女はなんてことないことのように答える。

「……あ、そう。ドロレスさんね」

 名は体を表すというやつか。やれやれ、大した名前だこと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る