9
欲しいものは、彼女にとっていつも手を尽くして奪うものだった。
他人の夫でも欲しかったから、恭子は奪うことにした。
正攻法でせめてものらりくらりと躱されるだけで、自分はいつまでも愛人のままだったからだ。
だんだんと追い詰められて、気晴らしのおまじないに手を出した。
鏡に月を映すとラブ運がアップするとか、コップの中にすきな人の名前を書いた紙を沈めると電話が掛かってくるとか、そんな類いおまじないだ。
そうしたら、本当に電話が掛かってきて、恭子は、どんどんおまじないにのめり込んでいった。
おまじないのおかげで、家族と過ごすからと約束してもらえなかったクリスマスイヴの夜、子どもが熱を出したからと会ってもらえることになった。おまじないのおかげで、体育会の日、雨が降ったから会えるようになった。
そんな事が積み重なる度に、恭子はおまじないに傾倒していった。
相手の気持ちは家族から自分へとどんどん移り変わってくれた。
とりわけ、古本屋で買った恋のおまじないの本に挟まっていた古い手紙に書かれていた恋を叶えるまじないは効果覿面だった。
犬の頭蓋骨や、相手の髪の毛、自分の血液など、用意するのは大変だったけれど、おまじないの翌日、恋敵だった憎い女は、自宅の庭で焼身自殺を遂げた。
恭子の中で、後悔や恐怖よりも、嬉しさが勝った。
その自殺の前夜、恭子は不可思議な夢を見た。
夢の中で、拗くれた左足の先に蹄が付いている黒い服の男が恭子に言うのだ。
男の子を捧げろ、と。
「捧げるならどうなの」
と、恭子は訊いた。男は言った。
「お前の好きなものをなんでもやろう」
男が指名した男の子は、恭子が愛する男の息子だった。
少年は、あの恋敵にそっくりで、恭子は少しも可愛いと思わなかった。
だから、安いものだと恭子は話に飛びついた。
「では、しかと約束したぞ。叶わない時はお前の魂を貰うからな」
そう言われて目が覚めた。恭子は寝汗をびっしょりかいていた。
恋敵だった羽山五希の死後、恭子はすぐに愛する男の妻となった。
息子となった例の男の子は、ちっとも自分に懐かなかった。恭子は、いつも遠巻きにされていた。
結婚後すぐ、蹄の男は何度も夢に現れ、恭子に指示をした。恭子は言われるままに、陽の食事に異物を混ぜたり、蹄の男に夢で言われたとおり書いた契約書に陽の血判を押させようと躍起になったこともあったが、そのうち、恭子はそんなおかしな事があるわけないと思い至り、義子への干渉をしないようになっていった。夢を見る頻度も次第に減っていった。
そうして、息子とも接点がなくなり、快適な生活だと思っていたら、陽が、中学三年生の夏、陸上の大会で大ケガを負った。珍しく、夫がとても心配して、陽に掛かりきりとなり、恭子は焦った。愛する夫を盗られてしまうかもしれないと思ったからだ。
だから、久しぶりにおまじないに手を出した。
呪うつもりではなかった。ただ、夫の歓心を得たかった。
恭子は、あの蹄の男に何度も謝り、おまじないを試した。
今度も上手くいった。
夫は、陽に無関心になり、陽は学校でもいじめられるようになったし、問題を起こしては教師から呼び出しを受け、その度に、夫は陽に失望を深くするようになった。
だが、代償は大きかった。
まるで、呪いが返ってきたかのように、恭子は、クリスマスイヴに、陽によって散々打ち据えられ、大ケガを負うことになった。地獄のような恐怖と痛みを、恭子は味わった。
だがそれでも、夫の心は自分だけのものになった。
それどころか、初めて二人だけでの生活が始まった。
恭子は喜び、蹄の男に感謝した。
しかし、それ以来、長い間見ることもなかったあの夢を、恭子はまた、この頃、見るようになった。
始めは、ただ男の子を差し出すように言われる夢だったのが、年を越した頃から様子が変わってきた。陽に松葉杖で殴打された怪我が回復の兆しを見せ、退院した頃のことである。
怖くて眠れない日が続いた。日中も怯えて過ごすようになった。
夢の中で、蹄の男は怒っていた。
恭子には、それが恐ろしくて恐ろしくてならなかった。
夫は、事件の後ナーバスになっているのだろうと優しかった。
何も怖がることはない、と恭子は思い込むことにした。
その日は、病院の日だった。
夫は、恭子のために仕事を休み、車を出してくれるという。
「仕事のこと、ごめんなさい。今日はよろしくね」
恭子が言うと、夫は「そんなことないよ」と優しく微笑んだ。
助手席で、恭子は微睡んでいた。昨夜も眠れなかったからだ。
車は、病院のある街中を通り過ぎて郊外へと出て行く。
山道に入り、いくつもトンネルを抜けた。
夫は、何も言わない。
うつらうつらとする恭子の頭に、すっと蹄の男の姿が浮かんだ。
男は、もがき苦しみ、恭子に怒っていた。
――ああ、取り立てだ。私が捧げ物をしなかったから。
恭子は、ぼんやりとそう思った。
夫の方を見ると、夫は、頭がへしゃげて、その目は既に虚空を見ていた。
恭子は、後悔で胸が押しつぶされそうになったが、もうどうすることもできない。
次の瞬間、車はコントロールが効かなくなり、車線を大きくはみ出して、スピードを猛烈に上げながらトンネルの側面に激突した。
恭子の目に最期に映ったのは、業火に包まれる自分と夫の姿だった。
彼女の耳に、悪魔の高笑いが響いていた。
正月が明け、陽は、東京から神戸に住民票を移し、神戸での学校生活を送ることになった。
あれから、東京の家には、一度も帰っていない。
両親から陽には、何のコンタクトもなく、祖父母から継母が年末に退院して自宅にいるとの知らせを受け取っただけだ。
金城クリニックには引き続き通っていて、病院専任の臨床心理士のカウンセリングも受けている。悪夢の問題も、母の死のトラウマも、すこしづつでも克服していけそうだった。
陽にとって何よりも嬉しいのは、足のリハビリに通わせてもらえるようになったということだった。前のように走ることはできなくても、痛みの緩和や、少しでも機能回復を期待していた。
「思った以上に回復するかもしれないよ」
作業療法士の言葉に、陽は、一心にリハビリに取り組んでいる。
それから、時々、陽は祖父母について教会に顔を出すようになった。
祈れるわけでもないから、ほとんど座っているだけだけれど、それでも瀨之尾神父は陽が顔を出すのを喜んでくれた。
「信じていなくても構いません。あなたの場合は、定期的にこういうところに来た方が良いでしょう。助けになります」
と、瀨之尾は言った。
「それって、どういうこと?」
陽が尋ねると、「あなたの魂は狙われやすいということですよ」と、瀨之尾は、他の者には聞こえないように囁いた。
教会には、時々、久我も来ている。ミサの間はおとなしくしているが、ミサが終わると瀨之尾といがみ合っている。
「喧嘩ばっかりしてる」
陽が言うと、傍で聞いていた年老いた主任司祭が笑った。
「二人は幼なじみでね、子どもの頃からああですよ。仲が悪いわけではありません」
「そうなんだ」
陽が、久我に対して持っていた怖いような近寄りがたいようなイメージが少し和らいだ。
「神父様、聞いてくれる?」
と陽は、言った。
「怖い夢、見なくなったんだ。神様のおかげかもしれない」
「それは、よかった」
主任司祭は、にっこりと微笑んだ。
明るい陽光が、ステンドグラスから降り注いで、教会の床に虹色の影を重ねている。
白い大理石製のキリスト像の後ろから、聖母マリアの像が聖堂の中で遊ぶ子どもたちを慈しむように眺めている。その傍では、天軍の総帥にして悪魔を降する炎の剣を掲げる大天使ミカエルの像が控えている。
教会の名は北野坂カトリック教会。坂の上にある住宅街の中の小さな教会だ。他の教会とただひとつ違うのは、日本では数少ない、悪魔祓いの秘蹟を行っていることだけだ。
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