8
陽が目を覚ますと、少しも見知らぬ場所に寝かされていた。
天井が高い。
白く塗られた壁と天井には大きな窓があって、窓には、観崎家のよりももっと立派なステンドグラスがはめ込まれている。
ステンドグラスは、夕日を浴びて、厳かに輝いて見えた。
陽が寝かされていたのは、木製の長椅子だった。
見覚えのない黒い革製のハーフコートが体に掛けられていた。
手には知らない十字架が握らされていて、陽は首を傾げた。
資料室で、久我が使っていたあの十字架だった。
何があったのか思い出そうとしても朧気だ。頭が働かない。
ぼんやりしていると、どこからか人の話し声がした。
小声だが、語気から察するに揉めてるらしい。
陽は、長椅子に寝そべったまま耳を澄ませた。
「どうしてあなたはこう突然なんでしょうね。おかげで今夜のミサは中止ですよ。こうなるのなら昨日のうちに連絡の一本も入れておくのが筋でしょう」
知らない声だった。若い男の声だと陽は思った。
「あー、あー。うるさい、うるさい。出物腫れ物所嫌わずっていうだろ」
もう一つは久我の声だ。砕けた口調から、男とは旧知の間柄らしいことが推測された。
「放屁や吹き出物と悪魔を同列に語る人を初めて見ましたよ」
男は、心底あきれたと言わんばかりに、わざとらしく溜息をついた。
陽は、二人の姿を探したが、寝そべった位置では見つけられないところにいるらしかった。
「それで、先ほど話した内容で全部ですか」
「今のところは、それで全部」
「何人か犠牲になっているようですが、今のままじゃ救えるのは彼だけですよ」
「悪いけど、他は頼まれてない」
久我は、にべもなく言い切った。
「まあ、あなたに言っても仕方がありませんね。まずは目の前のことをしましょう」
二人の話は、それで済んだらしい。
足音が、陽の元へ近づいてきた。
二人は、陽の後方にある教会の入り口から正面に向かって歩いてくる。
先頭は久我。その後ろを黒衣の男がしずしずと歩んでくる。歩みとともにストラと呼ばれる細長い典礼帯が両肩から垂れて揺れていた。男は、神父だった。
神父は、陽のところに来て歩みを止めた。
久我は、その数歩先から、こちらをふり返っていた。
「気がついていましたか。もう大丈夫ですよ」
神父は、陽に微笑んだ。大輪の花が綻ぶようなというのは、このような微笑みを言うのだと陽は、初めて知った。こんなにも美しい男性が存在するということが、陽の理解を超えていた。中性的と言うよりは、両性的な美しさがあった。
「久我が手荒なことをしたようで申し訳ありません。少々あちらを刺激しすぎたようです。お祖父様は今、一度ご自宅へ戻っているだけですから心配はいりません」
神父は、手を差し伸べて、陽を助け起こした。
「どうぞ」
と、久我が横から手を伸ばした。その手には水のペットボトルが握られていた。陽は、差し出されたペットボトルを不安げに見つめた。
「これは少々得体が知れない人間ですが、毒を飲ませたりするような人間ではありませんよ」
神父がそう言うので、陽は、やっと水を飲む気になった。やたらと喉が渇いていて、陽は五〇〇㎖のペットボトルを一気に飲みきった。
神父が手渡したので、革のコートは、久我の私物だったことがわかった。
「この久我という人間は、神学者を名乗っていますが実際のところは悪魔研究家です。うさんくさい商売ですが、人を害するような商いはしていませんからご安心を。私はこの見た目の通り、この教会の司祭――つまり神父です。
瀨之尾神父は、全体的に色素が薄かった。久我が、髪も瞳も一際くっきりと黒いのに対して、瀨之尾は、染めたのかと思うほどに茶色く、瞳の色は日本人離れしてヘーゼル色だ。
「日本人なんですか」
場違いな質問だなと思いながらも、陽はそう尋ねた。
トウマと言う名前が外国の響きを思わせたからだ。
「日本人ですよ、両親共々。よく間違われますけれど。カタカナでトーマではなく、冬の馬と書いて冬馬です。時代劇にも出てくる名前ですよ」
神父は、にこりと微笑んだ。
そして、「陽くん」と、表情を切り替えて、真剣味のある顔で陽を呼んだ。
「今夜、この教会であなたのための祓魔式(ふつましき)を行います」
告げられたその言葉に、陽の心臓は早鐘を打ち、汗がじっとりと滲んだ。陽の身の内に潜む何者かが抗うかのようだった。
だが、陽は自身の感情は、あの大学の資料室で久我に告げられた時よりも、ずっと素直に瀨之尾神父の言葉を受け入れていた。
陽が黙って頷くと、瀨之尾は目元を緩ませて、「何も心配いりませんよ」と言った。
祓魔式は、教会の聖堂で執り行われることとなった。
イエス・キリストの磔刑になった姿をそのままに現した十字架を掲げた聖壇のすぐ下に、陽のために一人掛けの椅子が用意された。
上を見上げれば、それぞれイエスの誕生、磔刑、復活の場面を描いたステンドグラスが陽を三方から見下ろしている。
十字架の後ろには、聖母マリア、そして大きな翼を持つ天使の像が控えていた。
陽は、天使の像を物珍しげに眺めてみた。
「気になるか?」
久我が、声を掛けた。
「この像は大天使ミカエル。ミカエルは、右手に剣を持ち左手に天秤を携えている。剣は正義を、天秤は公正さを表す。かのフランシスコ・ザビエルによって決められた日本の守護天使が、何と、この大天使ミカエルだよ。三大天使の一人で、サタンとの戦いにあっては天を率いる総帥であり、慈悲と正義を司る」
「……綺麗だね」
陽は、彫像を見上げながら言った。久我や瀨之尾と似ていると思った。
「そう思えるならきっとすぐ解決する。祓魔式だなんて言われてもわからないだろ。怪しいものさ。何の世迷い言だろうって。実際、日本のカトリック教会の教区では悪魔祓いは認められていない。つまり公式には、日本に祓魔師は存在しないと言うことだ。でも、ここ神戸には古くからバチカンに派遣された祓魔師がいる。人間が認めるか認めざるかに関わらず存在するんだ、神も悪魔も。信じたくない物事だからといって、対抗する術を捨てるわけにはいかないのさ」
日が落ちた。
教会の中は、柔らかな照明が照らしているが、窓の外はまっ暗だ。闇の中にぽつんと孤立しているような不安が陽を包んでいる。
やがて、教会の扉が開いて、しずしずと二人、聖堂に入ってきた。一度家に帰っていた祖父の陣五郎が、祖母の奈江を伴ってやって来たのだった。
二人は、入り口の聖水盤で手を清めると、正面に向かって進み、キリスト像に十字を切って祈りを捧げ、脇に控えるマリア像とミカエルの像にも同じようにした。
「陽ちゃん……。まさか、陽ちゃんがこんなことになるなんて」
と、奈江は涙ぐんだ。
「陽、しっかりな。この教会の神父さんやったら必ず助けてくれはるからな」
陣五郎は、陽を励まして言った。
椅子の肘掛けや脚に、陽の手足を縛るのは、陣五郎の役割だった。
「ちょっときついけどな。辛抱するんやで。何があるかわからんから。辛抱しいや」
淡々とした手つきのようで、祖父の声が鼻声になっていることに気づいた陽は、「大丈夫だよ」と精一杯明るく言った。
その一方、これから何が起こるのか、陽の胸の内は不安で一杯だった。
捕縛が済むと、陽が持っていた久我のロザリオの代わりに、奈江から別のロザリオが渡された。
「お母さんのよ。きっと守ってくれる」
そうなったら良いという気持ちを込めて、陽は「うん」と頷いた。
そして、久我のロザリオが久我の元に返ったのを確認すると、陽は「久我さん」と声を掛けた。
「ん?」と目線だけ投げて寄越した久我に「ありがとう」と伝えると、久我は、初めて人間らしい動揺を見せた。照れくさそうにして、何度か頷いた後、嬉しそうに微笑った。
「では、始めましょう」
涼やかで優しい声がした。瀨之尾神父だった。
陣五郎と奈江は、深く頭を垂れた。陽も慌ててそれに倣った。
不遜に突っ立っているのは、久我ひとりだ。
最初は、祈りから始まった。
「天にまします我らの父よ。願わくは御名を崇めさせ賜え。御国を来たらせ賜え。御心の天になるごとく地にもなさせ賜え。我らの日用の糧を今日も与え賜え」
厳かな神父の声に、陣五郎、奈江、久我の三人が声を合わせた。
陽は、その祈りに縋るように黙って目を瞑っていた。
「我らに罪を犯す者を我らが赦すがごとく、我らの罪も赦した賜え。我らを試みに遭わせず悪より救い出し賜え。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン」
次に聖水による清めが行われる。
ルーという植物の枝葉で水を掬い、瀨之尾は、陽の左右の肩、額、胸元へと滴をふりかけた。陽は、滴の触れたところからじんわりと体が温まるような不思議な感覚を感じていた。
また祈りが始まる。
「天のいと高きところ神に栄光あれ。地の低きところ善人に平和あれ。主を崇め、主を讃え主を拝み、主を褒めて、その大いなる栄光を感謝し奉る。神なる主、天の王、全能の父なる神よ。御一人子イエス・キリストよ。神なる主、神の子羊、父の御子よ。我らを哀れみ賜え。世の罪を除きたもう主よ、我らの願いを聞き入れ賜え」
そして、瀨之尾は儀礼書を開いて、静かに悪魔に語りかけた。
「神なる主、神の子羊、父の御一人子たるイエス・キリストの名において命ずる。このものを苦しめる何者かよ、その名を告げよ」
陽は、雰囲気に飲まれはしたものの、まだ内心懐疑的な部分を捨てられずにいた。
この日の午後、久我の資料室で起こった出来事も思い出せないのだ。
ところが、陽の体は違った。陽の頭とは裏腹に、急に息苦しくなり、喉は低い唸り声を発し始めた。
「うう、ううう」
ロザリオを握っていない左の手が、肘掛けを掻き毟り始める。爪の間から血が滲むのにも構わずに、陽の手は拘束から逃げようと蠢いた。
まるで左手が、自分の手ではなくなったかのようだ。
陽は、必死で右手のロザリオを握り直した。
助けを求めて祖父母を見ると、二人は、陽のために、必死に祈りの言葉を唱えてるところだった。
――じいちゃん、ばあちゃん。
呼ぼうとしたが、声が出なかった。
体の主導権を既に取られた後だったからだ。
陽の喉は甲高い笑いを発した。
「もらったぞもらったぞもらったぞ、糞餓鬼はもうこっちのものだ」
きいきいと高い声で叫びながら、陽の体は、右へ左へ激しく頭を振った。支える椅子がギシギシと軋んだ。
瀨之尾は相手にせずに続けた。
「悪霊よ、汝の名を告げよ」
陽の体を奪った悪霊は、首を横にふり、ゴボゴボと音を立てて血を吐いた。
「――――いやだ」
その血の量に、陣五郎と奈江が動揺する。
「このままだと、この糞餓鬼が酷い目に遭うぞ」
血に染まった歯をニタニタと見せつけながら、陽の顔をした悪霊は言った。
「悪霊よ、汝の名を告げよ」
瀨之尾は意に介さないが、陣五郎と奈江の動揺が酷くなる。
その様子を見て取った久我が、話に割って入った。
「はったりの癖に大見得切ったな。出し惜しみせずにお前の後ろの奴を出せよ」
「久我、いつも言っているでしょう。勝手に悪魔に話しかけるなと」
瀨之尾は、悪魔に対峙する時よりも一層鋭く、久我を睨んだ。
久我に、反省する様子は見られない。
「観崎さん、あの血は陽くんのものではないのでご心配なく」
そう言ったかと思えば、今度は瀨之尾に挑むように言った。
「私がつついた程度で顔を出した三下風情に手順どおりに時間使ってどうするつもりだ。わざわざ名前を聞き出す必要が?」
陣五郎の知識では、悪魔祓いは、まず相手の悪魔の名前を聞き出し、正体を明らかにした相手に神の命令を下して地獄へ追い返す類いのものである。
「とっとと追い出せ」
久我は、当然のように言ったが、そんなことができるものなのかと不安に満ちた気持ちで、陣五郎は、瀨之尾神父を見遣った。
瀨之尾は、はあと溜息をついて言った。
「良いでしょう、手順を省略します」
そして、儀式書を持ち直すと、彼の纏う空気は一層怜悧になった。
「神なる主、神の子羊、父の御一人子たるイエス・キリストの名において命ずる。悪霊よ、去れ」
瀨之尾が告げると、陽は、ますます激しく身をよじり、手足をばたつかせようとした。
「やめろ、よせ!こいつを地獄へ落としてやるぞ、糞神父!」
椅子ごと跳ね回る勢いで暴れるのを、久我が押さえ込む。
「神なる主、神の子羊、父の御一人子たるイエス・キリストの名において命ずる。悪霊よ、去れ」
瀨之尾が、再び繰り返す。
「くそっ、久我っ。貴様が余計なことを言いやがったから」
悪霊は、陽を通じて、久我に射殺すような視線を投げて寄越した。
「人の所為にするのはどうかな」
久我は、悪魔よりも悪魔らしく笑った。
悪霊は、あらん限りの罵詈雑言を吐き終えると、今度は泣き落としに掛かった。
「やめてくれ、よしてくれ」
それでも、神父は淡々と続けるだけだ。
「神なる主、神の子羊、父の御一人子たるイエス・キリストの名において命ずる。悪霊よ、去れ」
泣き叫ぶ声は小さくなり、やがて止んだ。
陽は、ぐったりと椅子に体を預けている。
久我は、陽を抑えるのをやめて、そっと手を離した。
陣五郎と奈江は、大事な孫に駆け寄った。
「神父様、陽はもう……」
大丈夫でしょうかと問おうとした陣五郎の声を、神父は遮った。
「まだです」
「ホンボシはこれから」
と、久我が言った。
「今の悪霊は、一連の出来事にほんの少ししか関わっていません。つまり我々は、これから親玉とでも言うべき相手を引きずり出さねばなりません」
瀨之尾は、額の汗を拭った。
「悪魔憑きは、この半年間の騒動だけでは収まりません。その発端は、彼のお母様の死にまで遡ります」
「そんな……」
と、奈江が声を上げた。
奈江は、あれだけ悪魔憑きについて懐疑的だったはずが、陽に起きた出来事を目の当たりにして、今はもう悪魔憑きを信じていた。
「五希が死んだのが……、そんな……」
へたり込む奈江を陣五郎が支えた。それだけ奈江の絶望は深かった。
「五希さんは気づいていたのでしょう。だから、自分を起点に陽くんにまで悪魔の手が伸びないよう、自ら死を選んだ。悪魔憑きは何もないところに突如として現れるものではありません。聖人のように敬虔すぎる信仰、軽い気持ちの悪魔信仰、堕落した生活、それから呪詛。そういったものと何らかの関わりが生じてしまったのでしょう」
奈江は、さっと顔色を蒼白にした。瀨之尾の言葉をきっかけに気づいたのだろう。何か言おうとして結局口をつぐんだ。
「さあ、雑談は終わりにしましょう」
瀨之尾神父はそう言うと、今度は久我と二人、声をそろえて祈りの言葉を唱えた。
「神と子と精霊の御名において」
奈江と陣五郎は後について、祈った。
「救いの源である神よ、私たちの祈りを聞き入れ、御助けを持って我らを危険より守り賜え。古き敵を追い出し賜え。弱き我らを哀れみ賜え」
祈りが終わるか終わらぬうちに、陽はそれまで閉じていた目をカッと見開いた。
その目には、白目も黒目も存在せず、塗りつぶしたかのように真っ赤だった。
悪魔は、その赤い目で、威嚇するかのように辺りを見渡した。
「君が、五希さんを自殺に追い込み、木戸拓真くんと田名部咲良さんの命を奪い、そして羽山陽くんを傷つけた張本人ですね」
瀨之尾が断罪した。
すると、悪魔は歯茎を剥き出しにし、涎を垂らしながらニタリと笑った。
その口腔にはサメの歯のようにびっしりと歯が生えそろっていて、人間の様相を呈していなかった。
奈江は、目を背け、陣五郎もまた、堪えるように目を瞑った。
「神なる主、神の子羊、父の御一人子たるイエス・キリストの名において命ずる。古き敵、汝の名を告げよ」
瀨之尾は、また悪魔に命じた。
悪魔は、聞くつもりはないというように笑い、ぐるりと首を回す。
首筋の皮膚は捻れ、赤黒く変色し、それでもまだ頭は動く。人間の可動域を超えて、首は完全に一回転したが、それでもまだ止まらなかった。
悪魔は、その捻れた頭で、奈江と陣五郎の方を向くと、神父を無視し、二人に向かって話しはじめた。
「お前らの娘は可哀想だったな」
陽のものではない、低い男の声だった。
悪魔は、赤く変色した顔から、煙を吐き出した。
「夫に裏切られ、相手の女に夫も子どもも奪われた。相手の女は幸せ者だ。他人の夫も子どもも財産もすべて手に入れた。すべてはお前の娘が惨めに焼け死んだからだ」
瀨之尾の祈りは続いている。
「黙れ」
鋭い声は、久我のものだった。
久我は、ロザリオを悪魔の額に押しつけた。
ジジジっという肉の焼ける音と焦げくさい異臭が辺りに漂った。
「俺が手を貸してやった!俺がお前たちの娘を死に追い込んだ。俺が手を貸してやったのはこの女だ!」
悪魔が頭を振ると、その容貌は徐々に作り変わっていった。
輪郭は細長く、色は白く、唇には紅をさして、肌は年を重ね、悪魔の顔は陽の継母の――恭子の顔になった。
むろん、陣五郎も奈江も、その顔を知っていた。
「おのれが、おのれが!五希を!」
目の前が憎悪で塗りつぶされて、陣五郎が悪魔に飛びかかった。
節のある太い指で首を絞める。
「やめて!それは陽ちゃんやねんで!おじいさんっ、それは陽ちゃんなんよ!」
奈江が後ろから飛びついて止めようとしたが、力では敵わない。
「失礼」
久我が割って入った。
その後は一言を発する間もなかった。久我は、易々と陣五郎の手を陽の首から引き離し、床へ押さえ込んだ。
「あまり相手の狙いどおり動いてはいけませんよ。落ち着いて」
久我は、そう囁くと、そっと陣五郎から手をどけた。
陣五郎は、どっと汗が噴き出し、息苦しく、その場に座り込んだ。悔しくてたまらず、涙が出た。
そんな陣五郎に寄り添いながら、奈江も自分の涙を拭った。
「あちらさん、なかなか焦ってるみたいだな」
久我が言った。
「無駄口を叩かないでくださいと前にも言ったはずです」
瀨之尾は、久我にぴしゃりと言い、悪魔に向き直った。
「上手く揺動しようとしたみたいですが無駄ですよ。陽くんの継母・恭子さんも所詮は君の駒もひとつ。陽くんの魂を手に入れるのに邪魔だった五希さんを亡き者にするために、彼女を焚き付けたのでしょう。陽くんの証言した、何らかの紙に血の押印を迫られたという話、あれは黒魔術の儀式でしょう。恭子さんが五希さんを呪ったのがこの悪魔憑き騒動の発端と言ったところでしょうね」
悪魔は、正解だとでも言うようにチラチラと炎をはき、ニタニタと笑った。
「五希さんの自殺に手を回したのも君だ。しかし、五希さんが死んだ後も、陽くんは中々手に入らなかった。だから業を煮やして、陽くんの友人やクラスメートを殺して駒に加え、陽くんを追い詰めて死を選ぶように仕向けた」
「そうだ、必ずこの子どもはもらう。こいつは俺のものだ。あの女が俺に捧げると約束した」
悪魔は、ギラギラとした目で瀨之尾を睨んだ。
聖堂がぐらぐらと揺れた。壁がビリビリと震え、シャンデリアが揺れる。
悪魔が哄笑すると、明かりが明滅して、消えた。
「茶番は終わりです。陽くんのことだけではない。何人もの命を犠牲にした君の罪は重い」
冬の夜の風よりも更に冷たい声で、瀨之尾は言った。
「神なる主、神の子羊、父の御一人子たるイエス・キリストの名において命ずる。古き敵よ、この場より直ちに去れ」
悪魔は、いやいやをするように頭を振った。
神父は、肩から提げた紫の典礼帯(ストラ)の裾を一筋手に取り、陽の頭にかぶせ、自らの右手をその上に乗せた。
まっ暗な教会に注いでいるのは、月明かりばかりだが、不思議なことに瀨之尾の左手の儀式書は、仄かに光を放っているように見えた。
瀨之尾と久我は、再び声を合わせた
「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめたまえ。天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。天軍の総帥よ、霊魂をそこなわんとてこの世に現れる古き敵たちを、天主の御力によりて地獄に閉込めたまえ」
悪魔は、火を噴き、手足をばたつかせた。
「あいつら三人は、俺が地獄に送りとどけてやった!次は貴様らだ!」
悪魔はそう笑った、今度は久我さえ反応を示さなかった。
ただ、祈りが繰り返される。
「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめたまえ。天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る。天軍の総帥よ、霊魂をそこなわんとてこの世に現れる古き敵たちを、天主の御力によりて地獄に閉込めたまえ」
繰り返される祈りの間、悪魔は、激しく身悶えしていたが、
「あの女め、ずっと俺見てやがった!馬鹿にしやがって!おのれ、あいつがまた俺の邪魔をする。天使まで連れてきやがった。ちくしょう!」
と叫んだのを最後に、陽の体は、徐々に落ち着きを取り戻し、やがて穏やかに寝息を立て始めた。
悪魔が去ったのだった。
久我は、陽の拘束を解き、長椅子に寝かせた。
奈江は、陽の汚れた顔をハンカチで拭う。
陣五郎は、精も根も尽き果てたといった様子でその場に座り込んだ。
「お疲れ様でした」
瀨之尾が、陣五郎に声を掛けた。
「涼しい顔してはりますなぁ」
陣五郎が言うと、神父は「そう見えますか。背中は汗で血変なことになっていますよ」と苦笑いした。
「昔、金城と俺とで先代の神父様の悪魔祓いに立ち会うたけど、身内となると話が違いますな。こんな恐ろしいことがこの世に……」
言い淀んで、陣五郎は、額の汗を拭った。
「今夜はよく休まれてください。直ぐに新しい年が来ます」
時計を見ると、もう日付が変わろうとしていた。大晦日だ。
程なくして、陽は意識を取り戻した。
「ばあちゃん……」
「陽、頑張ったね」
「よかった、本当によかった」
老夫婦は、孫の手を握って喜び合った。
陽は、体を起こすと、顔色も良く元気そうだった。
瀨之尾と久我は、目配せして少年の無事を喜び合った。
「神父様」
と、陽は、瀨之尾を呼んだ。
神父は、身を屈め少年の言うことに耳を傾ける。
「さっきまでのことは、実は余り良く覚えていないんです。でも、母がいて、俺の手を握っていてくれました。それから、母を連れてきた綺麗な優しい女の人がいて、俺を見守ってくれました」
「そうでしたか」
と、神父は頷き「あなたのメダイを見せてくれますか」と言った。
陽は、首に掛けていたメダイを取り出すと、はっとした。
母を連れて現れたあの女性に似ていたからだ。
瀨之尾神父は、黙って十字を切って祈った。
「さあ、失礼しようか」
と、陣五郎が言った。
「送っていきます」
と神父は言い、承ったとでも言うように久我が、車の鍵を手の中で弄んだ。
陽は、奈江の手を借りて立ち上がった。いつもは重く自由にならない左脚が、不思議と軽いような気がした。動かないのは変わらないけれど、まるで蹄のある脚が、人間の足に戻ったような感覚だった。
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