金城医師に紹介された専門家は、大学に勤めているらしかった。

 金城からもらった連絡先には、この辺りでは古くからよく知られている大学の住所と学部、研究棟と資料室が記されていた。陣五郎と辰造の母校でもある。

 翌日の午後、すぐにそこを訪ねた。

 タクシーで乗り付けられたのは、大学の正門前までだ。

 現在は、年末年始の休暇期間で、構内までは乗り入れができない。

 陽と陣五郎は、正門横の守衛室を尋ねた。

「すみません、こちらの先生とお目にかかる約束をしておりまして。観崎陣五郎と申します」

 壮年の警備員は

「ああ、うかがっていますよ」

と言って、二人を脇の小さな通用門から中へ通してくれた。

 坂道の連なるキャンパスを、陽は松葉杖を使いながら何とか登っていった。

 祖父の陣五郎がスーツを着てきたので、今日は陽も中学の制服をコートの

 大学の建物は、学部毎に別れているそうだが、陽にはどこがどこやらさっぱりわからない。しかし、陣五郎には、わかっているらしく、時々、陽に配慮して立ち止まってくれながらも、すいすいと進んでいく。

 やがて、構内でも一番隅にある、一段とクラシックな雰囲気の建物の前で、陣五郎は歩みを止めた。

 玄関扉の上には、「信光館」と右から左に字が書かれた額が掛かっている。

 レンガ造りの建物で、玄関より内側は白壁に塗られているようだった。

 陽が物珍しげに眺めていると、

「もう数年すれば市の文化財にしてもらえそうという話や」

と、陣五郎が言った。

「ここの一階の資料室で約束してある」

 陣五郎は、ガラス戸を開けて、先に中へと入っていった。

 陽は、陣五郎の背を追うようにして信光館の中に入った。

 建物の中は、静まり返り、寒さで冷え切っていた。灯りも点いていないため、廊下は薄暗い。職員も本当なら休みを取っている期間だからだ。

 信光館は斜面に沿って建っているため、出入口は二階にある。そのため、一階の資料室に行くには今居るところから降りていかなければならない。

 木々に阻まれて窓からの光も望めない薄暗い廊下を、陽と陣五郎は地下にでも潜っていくような心持ちで歩んでいった。

 廊下の奥の階段は、まっ暗だった。階段の手前に、電灯のスイッチを見つけたので、勝手にスイッチを入れて、点灯した。それでもまだ暗い階段を、二人は下っていった。

 一階に降りると、人がいるらしく、廊下に明かりが灯っていた。

 案内板を頼りに進んでいくと、古めかしい木製のドアの向こうから灯りが漏れている部屋があった。

 プレートを確認すると「資料室Ⅱ」とあり、その下にテプラで「研究室D」と貼られていた。そしてもう一つ、プレートにはこの部屋の使用責任者の名前も刻まれていた。

久我くが みなと

 陽の目が、その名前をすべて読み取る前に、古びた扉は内側から開かれた。

 陽の位置からは、ドアを開けた腕だけが見えている。

「さあ、中へどうぞ。廊下は冷えますから」

 男とも女とも取れる不思議な声だった。

 その声に従って、陽は資料室の中に入った。

 廊下とは違って室内は暖かかった。

 資料室というだけあって、部屋は一部のスペースを除いて書架が立ち並んでおり、それこそ足元から天井まで書籍がぎっしりと詰まっていた。

 窓はない。室温もおそらく年間を通して一定で、今は外気のせいで温かく感じているが、夏に来れば涼しく感じるだろう。

「金城先生からお話は伺っています」と、部屋の主はいった。

 久我は、長身で手足が長く、握手を求めて手を差し出す様まで素晴らしく絵になった。

 陽の身長がようやく百七十㎝に届こうかというところなので、見たところ久我の背はおそらく百七十八㎝くらいには達しているだろう。

 背の高さや均整の取れた体格もさることながら、久我の容貌はぞっとするほどに整っていた。あれほど陽を緊張させた金城医師の美貌も色あせるほどに、久我の顔は冴え冴えと美しかった。

 服装は、黒のスラックスに同系色のベストとワイシャツを併せており、無難な組み合わせでしかないが、見目の良さのせいか、普通にしていても充分様になって見えた。

「元々あまり使わない資料ばかり集めた資料室をもらい受けたもので、パイプ椅子しかありませんが、まずは掛けてください」

 久我は、そう言って、折りたたみ式のパイプ椅子を陣五郎に勧め、陽には手招きしてデスクの傍へと呼んだ。

「君はこっちへ。あれよりは少しマシだ」

 そういって自分がいつも使っている肘掛け付きのオフィスチェアを譲ってくれた。

「ああ、ちょっと待って」

 久我は、まめな性格のようで、立ち上がりやすいようにシートの高さまで調整してくれた。

「キャスターも止めよう」

 屈んで作業している久我の後頭部に、陽にとっては見慣れないものを見つけた。

 バレッタだ。長い髪をまとめて、バレッタで束ねているのだ。

 そこで陽は気づいたのだった。

「女の人だ……」

 思わず漏れた声を、すぐ傍で作業していた久我の耳が拾わないわけがなかった。

「そのとおり。そうは見えないけれどね」

「す、すみませんっ」

 陽は、咄嗟に謝ったが、久我は、悪戯が成功したように、くすりと笑っただけだった。

「さて、まずは私の自己紹介をせねばならないでしょう。このままでは得体が知れないから」

 久我は、立ち上がりズボンの埃を払うと言った。

「改めまして、久我湊です。ここの大学で教鞭を執っている駆け出しの神学者」

 そこまで言うと、久我は、事務机の向こうに押し込められていたホワイトボードを引っ張り出してきて、そこに「神学」と殴り書きした。

「観崎さんは、よくご存じだと思いますが、陽くんにもわかりやすく説明するなら、まあ、乱暴な言い方をしてしまえば、キリスト教の聖書には何が書かれているのか考察し、聖書に示されている真実を現実世界において証明するための学問、というところかな」

「……それで、神学の先生が、俺とどう関係するの」

 陽は、不信感を丸出しにしていった。説明された内容自体が、すこぶる怪しかった。

 陣五郎でさえ、この変人を目の前に戸惑っているようだった。

「まさしく。神様だ宗教だなんだって勉強している奴が、君が眠れなくって悩んでいるなんて問題にどのように関わってくるのか。これは霊力に満ちた水だから必ずや安眠できる。さあ、買い給え……なんてことは言わないから安心すると良いよ。少年、聖書には何でも書いてある。それこそ日曜日は休めという話から、麦の種を増やす話まで。けれど、羽山陽くんが眠れませんという話は載っていない。けれど、どうして羽山陽くんが眠れないのか、その原因については載っている」

 陽は、さすがにそんな馬鹿な話はないだろうと思った。

 この美しい奇人に対して、不自然なくらいに苛立ちがどんどん募っていく。

「神学というのは、神の実在を証明する学問だ。神の存在を証明すれば、反証的に証明される存在がある。それが、これだ」

 久我は、ホワイトボードに“Devil”と書いた。

「都合良く神様だけ信じて悪魔は信じませんというわけにはいかない。神を信じるならば、悪魔をも信じざるを得ない」

 陽の背筋をぞくぞくと悪寒が駆け上がっていった。

「さあ、ここからは少し踏み込んで話をしようか。陽くん、悪魔からの誘いがどんなものか、君に教えてあげよう」

 虹彩まで真っ黒な久我の瞳が陽をじっと見据えていた。

 日本人の虹彩は茶色い場合が多いが、久我は黒曜石のように真っ黒だ。蛍光灯の明かりを映してなお、闇から見つめてくるように見える、そんな目をしていた。

「さて、金城から聞いて、先にいろいろ調べさせてもらいました。陽くんの東京のご家族と学校のことについて。まず、事件の起こりは、八月十九日。地区の陸上競技会の日だ」

 ホワイトボードに“八月十九日”と書き入れて、久我は、話を続けた。

「都大会への進出が掛かった決勝戦、陽くんは、先頭を走っていていて転倒――。監督は単独の転倒事故だったと証言しているが、陽くんは、ライバル選手に押されたと証言している。一つ目の綻びがここだ」

 久我は、次に“手術”と書いた。

「二つ目は、回復手術。順調に進んでいたはずの手術中に事故。執刀医は、何故神経を傷つけてしまったかわからないと証言。全面的に謝罪し、君の今の両親は、謝罪を受け入れた」

 あの日の謝罪を思い出して、陽は、思わずかっとなった。

「手が勝手に動いたって言ってた」

 陽が吐き捨てるように言うと、「そうだろうね」と久我は、相槌を打った。

「この頃は少し悪夢がマシになっただろう?」

 久我は、何気なく言ったが、その通りだった。

 言い当てられた陽は、血の気が引いた。

 青白い顔をした孫に、陣五郎は、大丈夫かと声を掛けたが、反応は乏しかった。

「三つ目は、中学でのいじめ」

 陽は、いよいよ全身を硬くした。

――聞きたくない。思い出したくない。

 陽は、久我をにらみつけたが、久我は、一向に意に介さなかった。

「いじめもあったけれど、在校中はずいぶん荒れていたらしいね。それこそ、悪魔だとかあだ名がつくくらいに。言い出したのは同じクラスの田辺咲良さん?ずいぶん恨んでたって話だけど本当?」

「……覚えてない!」

 事実半分、煩わしさ半分で、陽は、そう返事をした。

 何故だか急に苛々が募って叫び出しそうだった。

 久我は、ホワイトボードに“あだ名”と書き、続けて“松葉杖での殴打”と書いた。

「最後は、これかな。これも、ほとんど覚えていないんだったね」

 非難するような口ぶりではなく、軽く確認するような言い方だった。

 それなのにも関わらず、陽の胸には、急激に怒りの感情がかっかと燃え始めていた。

「悪夢は、幼い頃から今も続いていて、特にお母さんが亡くなられた十歳以降酷くなっている」

 久我は、ホワイトボードの一番上に“悪夢”“十歳”“母の死”と書いた。

「さて、観崎さん。陽くんの言う“悪夢”ですが、あなたから見ると少し違っているとか」

「ええ。あれは、夢やのうて現実に起きてる。私は、そう思うてます」

 陣五郎は言った。

「陽が怖がって震え始めると、いつも部屋が揺れます。棚や引き出しやらめちゃくちゃになって、あたりはただ事やない雰囲気に呑まれる。そうなると陽は、いつも家の外にいる誰かに怯えています。私や妻には、それが何者かわかりません。姿が見えんのですから。でも、それが来てることはわかるんです」

「じいちゃんっ」

 陽は、大きな声で祖父を呼んだ。怒鳴ったに近いだろう。

 何故怒鳴ったのか陽にもわからなかったが、ただもう、その話をしてほしくないという気持ちで頭がいっぱいだった。

「ありがとうございます。よくわかりました」

 久我は、初めてにっこりと微笑んだ。

 それはぞっとするほどに美しく、足の竦むような思いで、陽は、久我を見上げた。

「ではひとつずつ、見ていこう」

 久我は、ホワイトボードの上段“八月十九日”という日付を指差した。

「陽くん、君を押したというライバル選手のことを、もう少し詳しく聞かせてくれるかな」

 陽は、露骨に嫌そうな顔をした。

「そんな顔をして。だって彼が押したんだろう」

と、久我が返事を促した。

「……監督は違うって言ったけど、木戸拓真って奴」

「そう、同じ学校?」

「小学校までは。でも違う中学になってもお互い陸上やってたから、競技会で会ったりした」

 陽と木戸拓真は、小学校の間は、同じ競技クラブで活動していたし、数年に一度は同じクラスになることもあった。陽にとって一番に心を開いて打ち解けた相手は木戸だったのだ。中学に入るまでは、二人は、親友でライバルだった。

 それが、陽が私立中学に、木戸が公立の中学に進んで以来、疎遠になった。

 疎遠どころか、中学最初の競技会で顔を合わせた時、木戸の態度が想像を絶するほどに冷たいものだったことは、陽にとってかなりショックの大きい出来事だった。

「速かったんだったね、彼も」

「俺の次くらい。でも、毎回、次やったら負けるかもって思うんだ」

「で、彼は、この事故があった競技会の日も参加してた?」

「前回予選を勝ち残ったから出てたと思う」

「会って話したりは?」

「してない。俺、競技前は誰とも話さないようにしてるから」

 陽は、そう言ったが、そういう習慣を作ったのは、木戸に冷たくされて以降のことだった。だから、木戸と最後に話したのは、もう二年以上前のことだ。

 そう、と久我は、至極残念そうに呟いた。

「陽くん。実はね、この木戸拓真くんは、この競技会以前に亡くなっているんだよ」

 弾かれたように、陽は、久我の顔を見上げた。

「は?」

 陽の耳は言葉を聞き取ったのに、脳が意味を理解しようとしなかった。

 久我は、淡々と説明した。

「木戸拓真くんは、八月十二日深夜、つまり十三日午前三時頃自宅で亡くなっている」

「……うそだ」

 絞り出すように声が出た。

 陽は、確かに見たのだ。横転した陽を覗き込んだ木戸の顔を。走り去っていく背中を。

「ではまずこれを」

 久我は、新聞記事の切れ端を差し出した。

 そこには、確かに、名前は伏せられているものの、木戸と同じ中学校に通う同じ年齢の少年が自殺した旨が報じられていた。

「嘘だ、木戸が……。あいつが死んだりなんて……」

 陽は、頭を掻き毟った。

 陣五郎は、動揺し、救いを求めるように久我を見たが、久我は、一瞥もせずに、じっと陽を眺めていた。

「それから、知人に頼んでいろいろと無理を聞いてもらった。これが彼の遺書だ。読んでごらん」

 久我に渡された紙片には、陽にとって見覚えのある木戸の癖字で文章が書き殴られていた。そこには、両親と学校と、それから陽に向けた恨みと呪いの言葉がびっしり書き綴られていた。

 陽は、思わず遺書を取り落とし、込み上げてくる吐き気を飲み込んだ。

「データで貰ったのを、ここのプリンターで出力したものだから、手荒く扱ってもらっても構わないよ。ここまで嫌われるのも珍しいだろう?」

 そうかもしれないと思いながらも、陽の頭には、ぼんやりと継母の顔が浮かんでいた。同じくらい嫌われ、恨まれていた。

――でも。

「木戸のことは、友達だと思ってた……」

「不思議なことだが、彼にとっては、そうではなくなってしまったらしい。最後まですべて読むのは酷だろう。一番肝心の所だけ見せておこう」

 そう言って、久我は、数枚に渡る遺書の最後の一枚、その結びを指し示した。

 そこには、信じられない言葉が記されていた。

「……生贄?」

 陽は、呆然として言葉をなぞった。

 遺書にはこうあった。


 今日、この時、命を絶ち、悪魔に身を捧げる。

 我が身を生贄として復讐のなされんことを。

         木戸拓真


それまでの彼の文章とは、文体も筆跡も何もかもが違って見えた。

 本当に彼が書いたのか、書かされたのではないのか。

 何者かの存在を感じ取って、陽の体に、べっとりと貼り付くような脂汗が滲み出た。

「追加で、今度は現場の写真がある」

と、久我は、マグネットで何枚かの写真をホワイトボードに貼り出した。

 陣五郎は、咄嗟に十字を切って神に祈り、陽は目を見張った。

 それは、小学校の頃に、陽が遊びに行ったことのある木戸の部屋の写真だった。部屋の床は、血でいっぱいで、他にも、よくわからない落書きのようなものがあった。

「血で見えにくくなっているが、これは魔法陣だ。呼び出した悪魔から身を守る役割がある。彼はこのすぐ傍で倒れていた。契約に失敗したのか、いや、契約するために魔法陣を出たのか。ともかく、彼は悪魔の力を借りて、君に復讐に来た。あの大会の日と手術の日に。陽くん、君は陸上競技を――君の唯一の逃げ場を奪われて、今はどんな気持ちだい?今、君はこの上もなく苦しいだろう?」

 それが狙いだと久我は言った。

 陽は言い返したかった。木戸はそんな奴ではないと。

 けれど反論するだけの自信も根拠も残っていなかった。

「うぅ……」

 急に息苦しくなって、陽は首元を掻き毟った。

 構わずに久我は話を進める。

「手術の日、君の執刀医は手が勝手に動いたと言ったそうだね。病院側も争わずにミスを認めた。実はあの日、数名の研修医が同席して君の手術をモニターしていた。多くの目撃者の居る前で、執刀医は急に震えだし、君の神経を切断して、直後に昏倒している。手術は助手が引き継いだ。誰もが尋常な様子ではなかったと証言している。だから病院はあっさりとミスを認めたんだよ」

 あの日、自宅の居間で執刀医が、両親と話していたのを、陽も聞いていた。

 あの時に知った話の大枠は、久我の語ったとおりだったが、昏倒していたのは知らなかった。

「悪魔憑きというのはね、いくつかの段階がある」

と、久我は言った。

 にたりと形容するのがぴったりの表情で、久我は笑って見せた。

「第一段階は出現。奇怪な物音や足音、話し声が聞こえる。不自然に物が移動する。停電や電化製品の急な故障、フリーズが引き起こされる。出どころのない腐敗臭、悪臭。急激な気温の低下。ドアや棚引き出しがひとりでに開閉する等の現象が起こる。

第二段階は外的攻撃。姿のない存在から、殴る蹴るなどの暴行を受ける。突き飛ばされたり、足を掴まれて家の中を引きずり回されたりする。ひっかき傷や妙な文字が肌に浮かぶこともある。

第三段階は内的攻撃。その名の通り精神的な攻撃で、強迫観念を強め悪の道へ引き込もうとしたり、悪夢を見せたりする。苦しみを与えて、道を踏み外させたり、自殺へ誘い込もうとする。

第四段階が憑依。これまで散々に痛めつけたことにより、人間に容易に憑依することができるようになる。悪魔は取り憑いた人間の体を支配し、やがて姿を現す。

君の友人の木戸くんは、少なくとも第三段階に進んでいた。だから彼は死を選んだ。君の執刀医も、一時的とは言え体の自由を奪われている。第三段階から第四段階の悪魔憑きが考えられる」

 陽は、ガタガタと震えそうになる体を抱きかかえて蹲った。

「もう一つ付け加えて言うなら、君のいじめの口火を切ることになった田辺咲良さんだけれどね、あの子は、夏休みが始まってすぐに自殺している。だが君も、君のクラスメイトも、二学期の間、彼女の姿を見たと証言している。さあ、彼女の振りをして学校にいたのは、だれだ?」

 陽は、もう否定することができなかった。

 木戸のことも、田辺のことも、腑に落ちてしまったのだ。

 「悪魔」の存在を感じ取ってしまった。

 競技場の木戸も、学校に現れた田辺も、悪魔に導かれた死者の出現に違いなかった。

 そして、何よりも自分が、悪魔憑きの段階を進んでいると言うことを身に染みてわかってしまった。

 久我が、それを順番に数え上げていく。

「まず、観崎さんもご覧になったという夜間の異常現象、いわゆるポルターガイスト現象です。加えて、陽くんが東京の家で頻繁に経験した話しかけてくる誰かの声、これはまず第一段階の出現です。次に、競技会で死者突き飛ばされた。これが第二段階の外的攻撃。学校でのいじめも死者が先導し、君を追い詰めた。これが第三段階」

 陽は、自分の体をぎゅっと抱きかかえながら、部屋が急激に冷えていくのを感じていた。

 さっきまであんなに暖かかったのに。今はもう、吐く息が白い。

「陽くん、君がもう第三段階を過ぎようとしていることはもう理解できるね。事は急を要する。悪魔祓いが必要だ。君の体には既に悪魔が出入りを始めている」

「出入り……?」

 白い息を吐きながら、陽は、鸚鵡返しに聞き返した。

 金城からもらい、首から掛けていたメダイが火のように熱かった。

「時々記憶が掛けているだろう。特にこの神戸に来る直前の頃は。人格の交代が起こっている」

 久我は、後ろ手にスラックスの尻ポケットに手をやった。じゃらりと鎖にも似た音が鳴る。

「それにしてもずいぶん気温が下がった。観崎さん、少し陽くんから離れてもらえますか」

 久我は、硬い声色で言った。

 陽は、蹲ったまま震えている。

「悪魔、悪霊が出現する時、室温は下がる傾向にある。それから、硫黄や獣の臭いがする」

 確かに、どこからか漂う悪臭があった。

 陽は、喉をかきむしり、うぅと呻いた。どうしようもなく苦しかった。

 呻き声はやがて、ぐぉおおおといううなり声に変わった。

 顔を上げた陽の人相は、すっかり変わっていた。青白く、真っ赤な口を歯茎まで剥き出しにして大きく開き、目も真っ赤に燃えるようだった。

 久我は、スラックスの後ろポケットからたぐり寄せた十字架を手にして、静かに言った。

「主イエス・キリストの名において命ずる。汝、正体を現せ」

 どこからともなく異音が鳴り響いた。威嚇し、警告するかのように響き渡る金属音に、陣五郎は、思わず立ち上がり後退った。

 陽が、一際大きな唸り声をあげる。

 学生服のカラーは壊れ、彼の首筋には、十本の指の跡がくっきりと付いていた。その指の跡は後ろからつけられており、陽が自分の手で掻き毟った時のものではなく、真後ろから誰かが彼の首を絞めていたことを示していた。

 久我は、再び静かに言った。

「汝、正体を現せ」

 途端、陽の体がバネのように跳ね上がった。久我に飛びかかり、子どもとは思えない力で久我の喉元を締め上げ、うつろな目で久我を睨んだ。

 そして、口から緑色のどろっとした液体を吐き散らしながら、久我に凄んだ。

「私の邪魔をするなァアアアア」

 久我は、喉を絞める手に、自分の手を無理矢理割り込ませると、舌打ちした。

「何だ、小物か」

 今度は、喉笛を握りつぶそうと蠢く陽の手をあっさりいなしたかと思うと、久我は、片手で陽の両の手首を束ねて、軽々と押さえ込んだ。陣五郎からは、本当に軽く抑えているようにしか見えなかったが、陽に取り付いた何者かが、全身で暴れようとしても、久我はびくともしなかった。

「この状況下から動いてこその悪魔だが、お前さんには期待できないな。まだ後ろに控えてるね?」

 久我が言うと、悪霊の抵抗は激しくなった。

 その必死の抵抗は、この悪霊の他にもまだ取り憑いている悪魔がいると言うことの証左だった。

「その反応は正直でよろしいが、そう呑気にしてもいられないんでね」

 十字架を陽の額に宛がうと、久我は、三度唱えた。

「慈しみ深い御父よ、この汚れたものを立ち去らせたまえ」

 唱え終わる頃には、陽の体から力は抜け、意識も失ってぐったりとその場に倒れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る