翌日、神戸は、朝から、急な雪に見舞われていた。

 電車は、運休となり、事故の相次いだバスはダイヤが乱れ、公共交通機関は酷く混乱していた。

「そうきたか」

と、陣五郎は、窓から真っ白に吹雪く町並みを眺めて呟いた。

 金城の病院は、観崎家からそう遠くはないが、陽は、足が悪い。徒歩は無理だ。

 知り合いのタクシー運転手に電話をすると、昼近くであれば乗せてくれるという。

 陣五郎は、運転手に何度も礼を言いながら、十字を切って神にも感謝を示した。

 午前十一時半、約束どおりタクシーが迎えにやってきた。

 雪は、まだちらほらと舞ってはいたが、吹雪は止んでいる。

 神様のおかげだと、陣五郎は、内心で祈りを捧げた。

 奈江も「さっきまで酷いお天気やったのに。守ってくれてはるみたいやわ」と感心した。

 陣五郎は、先にタクシーに乗りこんで、

「近くで悪いけどな、金城メンタルクリニックまで頼む」

と、運転手に告げた。

 陽は、奈江と陣五郎の手助けを受けながら、後から車に乗りこんだ。

「いつもありがとうございます。お迎えもしますよって」

 運転手は、人の良さそうな笑みを浮かべた。

「ほんなら、よろしゅう頼むわ」

 陣五郎は、そう言って、先行きを祈願するように指先で十字を切り、両手を組んだ。

 

 陽と陣五郎が受付に着いた時、午前の診療はあと一人二人を残して終わろうかというところにきていた。

 待合室の柱時計は、既に十二時を回っている。

 年内最後の受診日のため混み合っていたのか、本来の診療時刻を過ぎてしまっていた。

 陽は、緊張した面持ちで待合室のソファに座り、初診患者用の問診票に記入をはじめた。

 記入するのに戸惑うことばかりだ。

 名前はいい。住所は、どうすればいいだろう。

 躊躇いながら陣五郎を見上げると

「両方書いとけ」

といいながら神戸の家の住所を書き込んでくれた。陽は、そのすぐ下に東京の家の住所を書いた。保険証の住所だ。

 主訴についても、陽にとっては悩ましかった。

 まずは「眠れない」「悪夢を見る」という項目にチェックを入れた。

 他にそれらしい症状はないような気がする。

 そんな状態で受診して良いのかというためらいがあった。

 それから「困っていることは何ですか?」という質問の仕方にも、陽はどう答えて良いか悩んでいた。

 不眠と悪夢の他にも、困っていることはある。

 足のことだ。鉛のように動かないこの左足は、常に陽を悩ませている。

 散々迷ったあげく「その他」の項目にチェックを入れ、空きスペースに「左足が動かないこと」と書き添えた。

 ようやく問診票を書き終わって、受付に渡すと、陽以外の患者はすべて帰った後だった。

 陽は、がらんとした待合室に座り、陣五郎と二人で呼ばれるのを待った。

 金城クリニックは、改装こそされているものの、戦前からある古い医院である。掃除されているはずなのに、どこからか埃っぽい臭いがした。

 待合室には最新号の雑誌の他に、昔ながらの文学全集が並んでいて、埃っぽい臭いの元はこの全集なのかもしれなかった。

 柱時計は、今時珍しい振り子式で、毎朝時刻を合わせてネジを巻いているのだという。物珍しそうにしている陽に、陣五郎が教えてくれた。

 柱時計の硝子扉には「金城腦病院 開院記念 後輩一同より」と金字で箔押しされていた。

「脳病院って何なの?」

 陽は小声で聞いた。

「昔はな、メンタルクリニックをそう呼んだんや。ここは戦前からやってて、今の先生で三代目や」

 現在は、ものやわらかでリラックスした雰囲気のメンタルクリニックとなっているが、陣五郎は柱時計やトイレの鏡の銘など、院内の端々で「腦病院」との名称が残っているのを見る度に、過ぎ去った時代のざらついた手触りを感じるのである。

 人が少なくなったせいか、気温が急激に下がったような気がする。

 古い建物にありがちな隙間風のせいかもしれない。

 陽が身震いすると、陣五郎が気遣って声を掛けた。

「寒いか」

「大丈夫」と陽は言った。


 診察室の内から声がかかった。

「羽山さん。羽山陽さん」

 陽は、「はい」と返事をして、杖をつき、一人で立ち上がった。

 腰を浮かそうとした陣五郎に、

「ひとりで行ってくるよ。ありがとう、じいちゃん」

と言って、陽は、一人で診察室に入っていった。

 診察室の中は、こざっぱりと片付いていて、薬剤の本が手近な本棚に並んでいるほかは、モニターが三台とキーボード、タッチペンにマウスとタブレットという具合に電子化されていた。

 金城クリニックの院長は、まだ年若い、見た目二十台後半くらいの女性だった。

「初めまして。金城きんじょう入鹿いるかです。私の祖父とあなたのお祖父様とがお友だちなの。今回は、お祖父様のご紹介で、私が、お話聞かせてもらうことになりました。どうぞよろしく」

 金城医師は、陽が思わず見惚れるほどの美人だった。彼女が握手を求めて手を差し出すと、サイドアップにされた長い髪がさらりと揺れ、両耳のピアスがシャランと音を立てた。

「よ、よろしくおねがいします」

 陽は、ギクシャクとしながら挨拶を返した。視線を泳がせながら、おずおずと金城医師の手を握り返した。

「では、はじめましょうか。最初に、念のためお名前を確認させてください。フルネームでお願いします」

 問診が始まった。

「羽山陽です」

「それでは、陽くん。今、一番困っていることから聞かせてもらおうかな。夢見が悪くて眠れない?」   

 金城は、先ほど陽が記入した問診票を見ながら言った。

「そうです。怖い夢は小さい頃からなんですけど、母が死んでから酷くて」

 陽が話し始めると、金城はその内容をタブレットに入力しながら聞いていた。

「お母様が生きておられた時の夢はどうでしたか。今のように眠れないほどでした?」

「怖くても、母が来て寝かしつけてくれたら、そのまま朝まで眠っていたと思います」

「どのくらい眠れませんか。眠りづらいとか、眠っても目が覚めるとか」

「両方です。怖くて眠れないけど、いつの間にか眠っていて、怖い夢で目が覚めて、そのまま朝まで眠れないんです」

「入眠困難と中途覚醒ですね。それはお母様が亡くなられてから急に酷くなりましたか」

「母が死んですぐは眠れなかったけど、二、三日の事だったと思います。あの頃はまだ飛び起きても、さみしくても、また一人で眠れていました」

「悪くなったきっかけは思い当たりますか。いつ頃でしたか」

 金城医師の声に誘導されるかのようにして、陽は記憶を辿った。

 ぽっかりと空いたパズルのピースを埋めるように、陽は急激にきっかけを思い出した。

「父さんが……、結婚したから……」

 口に出してみると、確かにそうだという確信が深まった。

「父が再婚してからです」

「確かにそれは大きなストレスになり得る変化ですね」

 金城は、陽の顔色を見て、それからまたタブレットに何か入力した。

「ご家族のお話を聞きましょう。家族構成はどうなっていますか」

「父と僕と……義理の母の三人です。今はその家を出て、本当の母の祖父母と三人で暮らしています」

「じゃあ次は、言いたいことが、いっぱいありそうな義理のお母さんのお話聞きましょうか」

 金城は、タブレットを裏返し、身を乗り出して、陽に笑いかけた。

「えっ、あっ。はいっ」

 陽は、金城の申し出よりも、金城との距離が近くなったことに動揺した。

 けれど、今まで誰にも聞いてもらうことのなかった継母への愚痴を聞いてもらうのは、確かに面白そうだった。

「あ、あの……。なんて言うか、父さんの前ではにこにこしてるけど、それ以外だとじとっとした感じの人で。底意地が悪くて、僕を見る顔なんか浮気相手をにらみつけるみたいだったから、俺じゃなくて、俺を通して母さんのこと見てたんだと思う。食事の時は父さんがいないと意地悪されて賞味期限の切れた牛乳とか混ぜられるから注意しないといけない。でも父さんがいる前で目を盗んでみたいなことをする度胸はないんだ。二人きりになると何されるかわからない感じだったから、できるだけ家にいないようにしてた」

「例えばどんな風に?」

「図書館に行ったり、遅くまで塾に行ったり。陸上にも打ち込むようにして、自主練して外に出たり、合宿に呼んでもらえるよう頑張ったり」

「何かされそうになったことで覚えてることある?」

「……ナイフで指を切られた。ほんの指先だったけど。なんかの紙に押しつけられそうになって突き飛ばして逃げた」

 金城医師は、「なるほどねえ」と言って、少し考えこむような様子を見せた。

「あんな人、大嫌いです」

 陽は、勢いに任せて言った。

「会ったことないけど、話を聞いてるだけで、私も嫌い。じゃあ、今度はお父さん。お父さんはどう?好き?」

「……大嫌いです」

「今度は、血が繋がってる分複雑だよね」

 金城は、手の中でくるりとペンを回した。

「あの、先生」

「はぁい」

 陽は、思いきって切り出した。

「実は俺、父に家を追い出されたんです。義理の母を松葉杖で殴ったので。頭蓋骨と顔の骨が折れていたそうです」

 金城は、ふんふんと頷いただけで、顔色ひとつ変えなかった。

 タブレットを手に取ったので、このことについては記録を残すつもりらしい。

「結構思いきったことしたね。殴ってみた感想は?」

 感想と言われて陽は考えてみたが、記憶がそこだけ抜けすっぽりと抜けていて、何も思い出せなかった。

「覚えていません」

 直前に何か割れる音を聞いて居間に様子を見に行った。そして、壊れていた母の形見のマリア像を見て、怒りで目の前がまっ暗になった。覚えているのはそこまでだった。

「思い出せない……」

 凄惨極まる振る舞いをしたはずなのに、どうしても思い出せなかった。

 あまりに怒っていたから?

 それとも思い出せなくなるほどの何かが継母との間に起こったのか。

 どう考えても不自然だった。あそこまで恐ろしい真似をしたのに、父から伝え聞いて事件の結果を知っているというだけで、自分が何を思いどのように振る舞ったのか、すべてがごっそり抜け落ちているのだった。

 真っ暗な穴に突如として突き落とされたかのような恐怖だった。

 何もわからない――。

 自覚した途端、陽はパニックに陥った。

 無意識に何かを振り払おうとして、陽は、傍の壁に立てかけていた松葉杖をなぎ倒した。

「陽くん、落ち着いて」

 金城は、手をのばして陽の手を握った。

 陽の手指は冷え切っていた。

「義理のお母さんを殴った時の記憶がごっそりないんだね?」

 金城の問いに、陽は震えながら頷いた。

 あんなに恐ろしいことをしておいて、何故覚えていないのか。

 自分がまるで別人に変わっていたかのような不安を覚えた。

「他にも不自然に覚えていないことだったり、逆に自分だけが覚えていて他の人の記憶になはかったりといった、記憶の辻褄が合わなかったことはない?」

 金城は、初めて表情を硬くして、陽に尋ねた。

「記憶の辻褄……?」

 混乱している陽は、金城の言葉に縋るようにして考え始めた。

 今、思い返してみれば、怪我をして以降の記憶はあやふやなことが多かった。

 学校での出来事は、非常に断片的にしか思い出せない。

 授業の内容は、しっかりノートに書き留められているが、習った覚えがなく、首を傾げながら家で復習していたことも多かった。その時は、寝不足のせいだと思っていた。

 学校でのいじめも最初の頃は事細かに覚えているが、冬休み間近になると記憶から消えている。代わりに、記憶にないのに喧嘩をしたとか揉め事を起こしたとして職員室に呼び出されることが増えた。覚えていないから覚えていないと答えれば、教師を激高させてしまい、途方に暮れたことだけは良く覚えている。

 陽がそれをありのままに伝えると、金城は唸った。

「変わった記憶の抜けかたしてるねぇ」

「家でもそんな感じで、態度が悪いと詰られても、その時間帯自分が何をしていたか思い出せないんです。てっきり寝不足で覚えてないのかな、とか。眠くてイライラしてたのかなって思ってたんですけど」

 思い出そうとすればするほど、陽の頭は痛んだ。

「頭、痛い?」

「はい……」

 陽は、こめかみを押さえながら答えた。

「陽くん。試しにこれ、握ってみてくれる?」

 金城は、手のひらに握った何かを、そっと陽の手に握り込ませた。

 それが何なのか、陽からは見えなかったが、握った感じからすると、ひやりと冷たくコインのような感じだった。

 ところが、陽がそれを冷たいと感じたのは一瞬のことだった。

「熱っ!先生!これなんですか!」

 金城は、慌てて陽の手からそれを奪い取った。

「びっくりさせてごめんね。これ、熱かったんだね?わかった」

「何なんですか!それ」

 陽は、手のひらをさすったが、不思議なことに、そこに火傷の跡はなかった。

「頭痛はどうかな」

「……大丈夫みたいです」

「これね」と、金城は、メダルを手の中で弄んだ。

「メダイっていうの」

 メダイは、銀色に光っていて、中央に女性の姿が彫り込まれていた。女性の衣には青い彩色が施されている。陽にもわかった。これは聖母マリアの姿を彫り込んでいるのだと。

「もう一回手を出してくれる?」

 陽は、恐る恐る手を出した。

 広げたその手のひらに、金城は再び銀のメダイを置いた。

「もう熱くない?」

「熱くないです」

「それね、お守りだと思って持ってて」

 陽は、もう一度メダイをぎゅっと手のひらで握り込んでみた。

 今度は熱くなかった。今なら、恐ろしくてとても話せないと思っていたあの話もできるかもしれなかった。

「金城先生、もうひとつ変なことがありました。俺だけが、いない人間の姿を見たんです。足を怪我した競技会の時、俺、後ろから突き飛ばされました。そいつの顔だって見ました。でも、監督は後ろには誰もいなかったって」

「……足、見せてもらえる?」

 金城は手を貸して、陽を寝台へ誘導した。

 あまり使われることのない寝台のシーツは硬くゴワゴワしていた。

 陽は両足を寝台に載せると、金城の指示に従って左足のズボンの裾を膝まで捲り上げた。

 見た目の上では、手術跡の他は何も右足と違いないように見える。

「触るね」

 金城は、触診を始めた。

 痛みもくすぐったさも何もない。

「力が入らないんですけど、力が抜けていくと言うよりは強張った感じがします。左足だけ木とか金属とか違うものになったみたいで。足が捻れて蹄でもつけられたみたいな変な感じです」

「蹄、ね」

 金城は、陽のズボンの裾を戻して言った。

「お祖父様を呼んでくるね。今後の治療について話をしましょう。陽くん、私にできうる限りのことはさせてもらいます。今のあなたには休息が必要。それから、専門家の手助けも」

 陽は、専門家とは誰のことだろうと内心首を傾げた。

 金城以外に適任な専門家がいるというのだろうか。


 祖父が、診察室に呼ばれて入ってきた。

 陽と陣五郎を前にして、金城は言った。

「お孫さんは今のところ、睡眠障害、適応障害それからPTSDの可能性があって治療が必要です。ですがそれ以外に、悪魔憑きの可能性があります」

 陽は、耳を疑った。聞き返そうとして、陽はタイミングを失った。

「……やはり、そうでしたか」と、陣五郎が相槌を打ったからだ。

「陽くんは、中々納得がいかないと思うけれど。今は黙って話を聞いてほしい」

 金城は、淡々と言った。

「彼には、しばしば意識の消失が起きていますが、これは悪魔憑きの兆候のひとつです。加えて、事故以降、悪夢の激化や人間関係の切り離しが起こっていますし。彼は、聖別した品物にも拒否反応を示しました。手を打つなら早いほうが良いでしょう」

 陽の心の中を、様々な言葉がぐるぐると渦を巻いた。

 否定しようと思って次から次へと言い訳を考えた。

 だがふと、何故そこまで躍起になって否定するのかという疑問が浮かぶ。

 何故こんなにも自分は焦っているのだろう。

「先生、実は陽が家に来てから毎晩のように家が騒ぎます。部屋が地震にあったように震え、棚の扉や引き出しがひとりでに開いたり閉まったり」

「じいちゃん……」

 陽が口を挟もうとすると、陣五郎は、陽の目を見てはっきりと告げた。

「陽、誤魔化そうとするな。あれは夢やない。俺も、ばあさんもこの目で見とる。もうひとりで耐えんでええ。一緒に戦おう。ちゃんと解決するんや」

 陽は何も言えなくなって、ひたすらに頷くばかりだった。

 ひとりでに涙が出て、陽は、慌てて涙を拭った。

「否定したくなるものよ。そういう風にできてるの」

 そう言って、金城は、陽の背中を撫でてくれた。

「専門家に紹介しするから、会ってくれる?見た目はちょっとばかし怖いかもしれないけど、悪い奴じゃないの」

 陽を説得するように、金城は、優しく言葉をかけた。

「観崎さん、既に連絡はしてあります。明日の午後、こちらを尋ねてみてください」

 金城は、紙片に書いた連絡先を陣五郎に渡した。

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