十二月二十六日。神戸から、陽の祖父が迎えに来た。

 祖父の観崎かんざき陣五郎じんごろうは、仕立ての良いコートに中折れ帽をかぶって、陽のような中学生から見てもひとかどの人物のように思えた。

 必要な荷物は午前中に運送業者に依頼して運び出している。陽が持っているのは、二、三日分の着がえと暇つぶしの本が入ったリュックとスマートホンだけだ。

 玄関先で、仁志と陣五郎は言葉を交わしていたが、少し離れたところにいる陽には何を話しているのか聞き取ることができなかった。おそらく二人は陽に聞こえないように細心の注意を払って話しているのだろう。

 陣五郎は、用件を切り上げると、陽の側まで来て、彼の肩を叩いた。

「さあ、行こか」

 母の死後疎遠になっていた祖父だったが、出発を促してにこっと笑ったその笑顔が昔のままで変わらないことに気づき、陽は「うん」と頷きながら鼻の奥がつんとするのを感じていた。

 駅までのバスを待つ間、ベンチに並んで腰掛ける。

「寒いからぬくうせいよ」

と言って、陣五郎は自分の首に巻いていた大きなカシミヤのマフラーで陽をぐるぐる巻きにした。

 陽は「うん」と言ったきり、バスが来るまでの短い間、マフラーに顔を埋めて、頭が痛くなるまで泣いた。  

 神戸の観崎家は、昔からの住宅街に位置している。あちこちと建て替えが進んでいるが、神戸大空襲を焼け残った一角だ。

 現在、陣五郎夫婦が住んでいる家は、陽の母が結婚した頃に陣五郎の退職金を使ってリフォームしている。外観内装ともにまだ真新しい雰囲気を残しているが、大元は大正時代に建てられた洋館が基礎となっている。時々、隙間風が吹くのが玉に瑕だが、趣のある屋敷だ。

 調度品は、古くても丁寧に磨かれ、落ち着いた色調と格式を保っている。それに、ステンドグラスを使った大きな窓が室内に明るい陽光を取り入れていて、家全体の明るい雰囲気の元となっていた。その明るい雰囲気は、ここで新しい生活をはじめる陽にとって、大きな慰めだった。

「ただいま」と陣五郎が呼びかけると、パタパタと小気味のよいスリッパの音がして、祖母の奈江なえが家の奥から駆けつけてきた。

「おかえりなさい。陽ちゃんも、おかえり」

 祖母の笑った顔は母に似ていた。

 陽は、母を思い出して言葉を失い、うんとか、うぐとか、くぐもった返事をした。

「二人とも疲れたでしょう。陽ちゃん、荷物はこっちへ。お茶にしましょ」

 昨日一昨日も顔を合わせていたような気さくさで、奈江は、陽のリュックを受け取り、急かすようにして居間へと案内した。

「ばあさんはな、せっかちやねん」

と小声で言って、陣五郎は、陽に目配せした。

 ダイニングを兼ねている観崎家の居間は、五人掛けのテーブルに背もたれ月の椅子が三脚、二人掛けの長椅子が備え付けられていた。

 奈江は、陽の到着を待ち侘びていたのだろう。

 テーブルの上には、菓子皿にのった焼き菓子が三人分用意され、茶器もすぐにお茶を入れられるよう準備万端の状態で載せられていた。

「おじいさん、陽ちゃんと手を洗ってきてね」

 陣五郎は、おうと返事をして「ほな、陽。いこか」と手招きした。

 廊下に出ると陣五郎は、「コートはここへ掛けい」と、廊下のコートかけからハンガーを取って、陽に手渡そうとした。

 奈江のせっかちのせいで、二人ともコートを着たままだったのだ。

 陽は、反応できず、陣五郎をぼんやりと見るだけだった。

「せや、足があかんのやったな」

 陣五郎は、独りごちて、先に自分のコートを片付けてしまうと、今度は陽のコートを脱がせてやり、ハンガーにも掛けてやった。

「……ありがとう」

 こんなにも世話を焼かれるのがあまりにも久しぶりで、陽は、戸惑いながら礼を述べた。


 手を洗いうがいをして、洗面所から居間へ戻ると、奈江は、陽が椅子に座る時そばについて椅子を引き、松葉杖を預かり、体を支えて介助をした。

 陽は、信じられないものを見るような顔で、戸惑いながら介助を受け入れた。

「ありがとう……」

 口にした言葉からも、陽の戸惑いは、ありありと伝わった。

 陣五郎と奈江は、一瞬、顔を見合わせた。

 陽が年相応に必要な庇護や養育を受けてきていないのでは、との疑念が二人の脳裏を過ぎっていた。

「陽ちゃん、紅茶は飲めるかしら。あかんかったら、コーヒーも牛乳もあるからね」

 即座に表情を切り替えて、奈江は言った。

「あの、コーヒー牛乳とかってできますか。あったかいの」

「もちろん。ちょっと待ってて」

 カップを持って、奈江が席を外した。

 少しの沈黙を置いて、陣五郎が尋ねた。

「父さんや今の母さんは、陽を手伝ってはくれんのか」

「……俺、中学生だし」

「怪我しとるんやぞ」

「病院は行ってないから」

「……五希(いつき)が、お前の母さんが死んでから、俺もばあさんも心理学の先生んとこに世話になった。陽はどうや。そういうとこ連れていってもうたか」

 陽は、黙って首を横にふった。

 陣五郎は、どうしようもない後悔に腸を掻き毟られるようだった。  

「そうやったか……」

と呟いて、陣五郎は押し黙った。

 見計らったかのように、奈江が紅茶とコーヒー牛乳をお盆に載せて戻ってきた。

 陽は、砂糖を一さじ入れると、温かいコーヒー牛乳に口をつけた。

 その仕草が思ったよりも幼く見えて、このたったひとりの孫を何とか守ってやらねばと、陣五郎は思考を巡らせる。

 陽が菓子を食べ終えるのを待って、

「これからのことやけどな」

と、陣五郎は話を切り出した。

「年が明けたら、学校はこっちへ転校の手続きをとったらどうかなと思うとる」

 可愛い孫をあの家には二度と戻さないという陣五郎の決意の表れだった。

「そうしよう。それがええわ。ね?陽ちゃんが嫌やなかったら」

 奈江も口を添えた。

「高校も、ここでええとこを探そう。急にはしんどかったら、しばらく家でゆっくりすんのも悪ないやろ。足のこともな、ちゃんとリハビリやらカウンセリングやら通わんならん」

 陣五郎が言うと、陽は、テーブルに手をつき腰を浮かせた。

「リハビリに行っていいの?」

 陽は、食い入るように言った。

「当たり前や。ちょっとでも足が良うなるかもしれんやろう」

「今まで通わせてもらえなかったの?」

「退院した時が最後」

 陣五郎と奈江は、また顔を見合わせた。

「あの、これから、よろしくお願いします」

 陽が頭を下げる。

「そんな水くさいことせんでええよ。わたしたちかて、陽ちゃんの家族なんやから」

と奈江は言い、涙を拭った。

「悪いけど、ちょっと外すぞ」

 急に怖い顔をして、陣五郎は、席を立った。

 孫の身に降りかかっていた出来事を考えると、今まで楽しく暮らしているとばかり思っていた自分の呑気さに腹が立って仕方がなかった。

 陣五郎は台所の勝手口から娘婿に電話を掛け、転校のことも含めて話をし、この先は、自分たち夫婦が陽を引き取ることを伝えた。

 仁志の回答は、「今後はすべてお任せします」と一言だけだった。

 子を捨てたのも同然の言い方に腸が煮えくりかえったが、陣五郎は陽の利益になるようにと努めて冷静に振る舞った。

 今後の予定ついて簡略に伝え「必要な手続きがあれば連絡する。それは遅滞なく頼む」と、それだけ告げて電話を切った。

 陣五郎が居間に戻ると、誰もいなかった。

 電話が聞こえないよう、奈江が気を利かせて席を外したのだ。陽に、家の中を案内して回っていた。

 トイレ、風呂場、書斎にふたつの客間。物置、陣五郎と奈江が使っている和室に、今はなき陽の母が使っていた部屋。

「台所は、また後で紹介するわね。美味しいおやつ、いっぱい隠してあるねん。おじいさんには内緒よ?陽ちゃんの部屋はね、お母さんが使ってた部屋か、客間の洋室の方のどっちか使ってもらおうと思ってるんやけど、どうしよう?」

「母さんのは、ちょっと……。客間でお願いします……」

 陽は、遠慮がちに言った。

 母の部屋は、まだ母の私物がたくさん残っていて、思春期の中学生男子が過ごすには気が引けた。祖父母にとって、母の時間は、彼女が結婚した辺りで止まっているのだなと陽は思った。

 母の部屋は、まるで生きた人が使っているみたいに、物で溢れていて、まめに掃除もされていた。

 祖父母も自分も、まだ母の死から立ち直れていないのだと、陽は痛感した。

――でも、父は、そうではなかった。

 だからこれまで、陽は、たったひとりで母の死に向き合い、立ち直らねばならなかった。

 この祖父母となら、きっと一緒に立ち直っていけるはずだ。

「ほなら、客間にするわね。荷物運んでおくわ」

 祖母が、にっこり笑ってくれたので、陽は胸をなで下ろし、ここでならやっていけそうだという確信を深くした。


 観崎家は、明治の解禁以来、ずっとキリスト教徒の家系である。

 陣五郎の代になっても、形ばかりではなく、それなりの熱心さを伴って続いていた。

 そのため、家の端々に十字架やマリア像などが飾られている。居間、寝室、書斎、それから客間にまでも。食事の時も、もちろん、食前の祈りに始まり食後の祈りに終わるという風になっている。

 陣五郎は「お祈りの間は祈らんでも待っててくれてたらええ」と言ったが、陽は「自分もやります」と言った。

 母の五希と二人だけの食事の時は、いつも、陽も見様見真似でお祈りをしたのだ。

 眠る時だって母のお祈りに手を合わせていた。

「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください」

 初日の夕食時、祖父が「食前の祈り」を唱えるのを聞いていると、陽は自分のまぶたに涙がにじんでくるのを感じだ。

 幼かったあの日に帰ってきたような、本当の家に帰ってきたようなそんな感じがした。

「わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」

「アーメン」

 そう繰り返しながら手の甲で涙を拭っている陽の背中を、祖母の手がそっと撫で、祖父は黙って見ない振りをしてくれた。


 夜、ベッドに入ると東京から神戸までの長距離移動のせいか、陽は珍しく睡魔に襲われた。今日は何も気にせず、朝まで眠ってしまえるのではないかと思った矢先、大きな影が寝室を横切っていくのが見えた。

 始まった、と陽は思った。

 悪夢はいつも夢と現実の境を自覚させずに始まるのだ。

 獣臭いにおいがあたりに漂っている。

 陽は、影の主を探した。

 すると垂れ込めたカーテンの向こう、窓の外に背の高い何者かが、こちらを覗き込むようにして立っているのに気がついた。

 部屋を横切ったのは、その者の影だったのだ。

 陽は、東京の家からここまで追いかけてきたのだと思った。

 そしてどうやら、そいつは、今はまだ祖父母の家の中には入れずにいるらしかった。

 しかし、いつまでもそのままでいる気はないらしい。

 触れもしないのに、そいつが立っている窓の窓枠がガタガタと揺れはじめた。

――入ってくる気だ。

 陽は、掛け布団を頭まで被った。

 どうか入ってきませんように、と誰に祈るわけでもなく手を合わせた。

 窓の外から、熊でも吠えているような大きな鳴き声がした。

 部屋の空気がビリビリと震えて、タンスや戸棚が激しく揺さぶられる。

 揺れは段々と激しくなり、ついには陽のベッドまでかたかたと揺れはじめた。

――神様。

 客間の暖炉の上に飾られている十字架を思い浮かべながら、陽は祈った。

 どうか、朝まで耐えられますように。

 その時だった。

「陽、どないしたんや」

 ドアの外の廊下から、祖父の陣五郎の声がした。

 陽は、返事をするのを躊躇った。偽物かもしれないからだ。

 ところが、ドアノブがガチャガチャと動き

「なんや、鍵がかかっとる……」

と戸惑うような声がそれに続いた。

「陽!陽、無事か?」

 祖父本人だと陽は思った。

 悪夢の最中に、誰かが駆けつけてくれたのは初めてだった。

「じいちゃん!」

 陽は、初めて助けを求めた。動かない足を引きずって、ベッドから飛び降り、ドアに駆け寄る。

 もどかしい指先を総動員して、何とか鍵を開けると、廊下には心配そうな祖父とそれに輪を掛けて心配そうな祖母がした。

「大丈夫か、陽!」

 陣五郎は、陽を抱き留めた。陽は、震えながら首を横にふった。大丈夫ではないと言いたかった。

 背後では、陽の部屋だけが音を立てて揺れ、戸棚や引き出しが開け閉めを繰り返して超常的な何かの存在を誇示していた。

「夢が……、夢が……」

 陽は、譫言のように言った。

 暖炉の上の十字架が小刻みに震えている。

「夢やない。夢やないんや、陽」

 自分にも言い聞かせるように言って、陣五郎は、怯える孫を力一杯抱きしめた。

 十字架は、ひときわ大きく揺れて、ぐらりと落ちた。そして、床の上に転げて、それっきり部屋は静まり返った。

 窓の外の人影も消え失せ、焦げたような臭いと見知らぬ男の高笑いが耳にいつまでも耳に残るような、そんな奇妙な感覚だけが残った。

 陣五郎と奈江は、十字を切って神に祈り、この日の騒動はこれで終わった。

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